第二十二話「喪明け」
それから数日経ったある日の事。それは、夕方の食堂での出来事だ。
アイリスに構われなくなり、寒々しい心境の中夕食を取っていると、不意に一人の騎士が私の座る椅子に蹴りを入れた。とても軽い蹴りだった。まるで故意ではなく偶然足が当たったもののような。
「邪魔よ、“罠係”」
騎士は低い声でそう吐き捨てた。
私は一瞬だけちらりと彼女に視線をくれてやったが、すぐに何事もなかったかのように食事を再開する。
それは、ほんの些細な出来事。だが、水溜りに小さな水滴が落ち、その波紋が広がるように、私達のその一連の遣り取りが食堂の空気を静かに変えた。
食堂に集まる騎士達が、皆私を見つめていた。集う多くの視線は刹那の内に霧散したが、それまで何処となく漂っていた、先の仲間の死を悲しむ暗い雰囲気は、すっと息を潜めたかのように消えていった。
その日はただ、それだけで終わった。
____何か不吉な予感を覚えつつ、翌日を迎える私。
「邪魔なんだよ、“罠係”ッ!」
朝食の最中、また別の騎士が私の座る椅子に蹴りを入れた。
今度の蹴りは、明らかな害意を滲ませた強力なもので、食堂内に椅子の足と床が擦れる大きな音が響いた。
蹴りを入れた騎士を見遣ると、彼女は意地の悪い笑みを浮かべていた。
いや、彼女だけではない。周囲を見回すと、同じようにいやらしい笑みを浮かべた騎士達が私を面白おかしく観察していた。
つい昨日まで、エストフルト第一兵舎の騎士達が集うこの食堂は、森の巨大なアサルトウルフにより命を落としたアメリア隊の騎士達を悼む悲しい空気に包まれていた。
しかし、今は違う。
かつての日常が蘇り、暗い空気は何処かへと吹き飛んで行ってしまっていた。
それは、本来ならば喜ぶべきこと。仲間の死を乗り越え、ようやく通常の状態を取り戻したのだから。
だが、私にとって____それは、イジメの日々の再開に他ならなかった。
最悪の日々の幕開けだ。
それまで何処か意気消沈としていたゴールドスタイン姉妹は息を吹き返したかのように私にちょっかいを掛け始める。
物を隠したり、遠くからごみを投げつけたり……およそ騎士とは思えない、そんな幼稚な行為を繰り返した。
アメリアやマリアなどはもっと直接的な行動に出た。何かしら因縁をつけては暴力を振るい、いつもの罵りを加えた。
私はと言うと、それらの加虐を甘んじて受けていた。
日に日に無気力なる私。その心の中を占めていたのは枷のように纏わりつくアイリスへの罪悪感だった。
アイリスとの一件以降、私は何処か上の空で、以前にも増して暴力や暴言に対して無抵抗だった。
今はむしろ、イジメよりもアイリスの方が恐ろしい程だ。暴力や暴言を受けても、罪悪感により心が麻痺しているためか、実の所あまり辛さを覚えなかった。まあ、イジメは嫌なのは嫌なのだが。
そんな日々の最中、私に次の休日が訪れた。
街娘の格好でエストフルトの街に繰り出した私が向かう先は、英雄広場。
先の休日、鞘修理の手配をエリーに頼んだ私。今日は彼女に会って、その状況を確認し、修理の詳しい日時を決めることになっている。
エリーとの待ち合わせ場所である英雄広場に到着し、私は何気なくホークウッドの壊された像を見つめていた。
「そう言えばさ、カネサダはいつからホークウッドと一緒なの?」
軽く疑問に思っていたことを尋ねてみる。
カネサダは____
『いつからだと? ……さあな』
「覚えていないの?」
『……』
「ねえ、どうなの」
カネサダは黙り込む。
しばらく、何事か発言するのを待っていたが、結局彼は何も口にはしなかった。
……何だろう、はぐらかされているような。
カネサダの態度に釈然としなかったが、特段気にかけているような事でもなかったので、それ以上の追及は止めた。
しばらくすると、エリーがやって来て私達は近くの喫茶店に赴いた。
「ミシェル様に会えるこの日を、今か今かと待ちわびていました!」
出会い頭、きらきらとした瞳をエリーから向けられ、私は苦笑いを浮かべる。まるで、恋人にでも向けるような熱い視線だ。彼女の中では、相も変わらず私は憧れの人のようだった。
「ミシェル様、お身体の調子が悪いのですか?」
「……え?」
「その……顔色が優れないので」
喫茶店で紅茶を注文し、心配そうにエリーは尋ねる。
アイリスとの一件を未だ引きずる私。この場においても、その後悔や罪悪感が表情に出るほど、彼女の事で心を痛めていた。
私は頬を掻く。
せめて、エリーの前では暗い顔を見せないよう努めていたのだが、不器用な私にはどだい無理な話だったようだ。
「……それか、何かお困りごとでも?」
「……実は」
言い掛けて、私は口を噤んだ。
アイリスの事をエリーに話して何になるというのか。私の情けなさが招いたこの問題で、彼女を困らせるべきではないように思えた。
「……」
「……実は? 実は、どうされたのですか?」
言い掛けてしまったのが不味かったか、エリーは続きを促す。
「ごめん、こっちの問題だから」
顔を背けて、私はそう告げた。
すると、エリーは頬を膨らませて____
「話してください」
やや強めの少女の声。
「話してください、ミシェル様」
「……でも」
この問題にエリーは関係ない。私自身でどうにか整理をつけるべきだろう。
私が困り顔を浮かべていると、エリーは咳払いを一つした。
「私達は友達。そうでしょう、ミシェル様?」
「……エリー」
「ミシェル様の問題は私の問題。こんな私ですが、相談に乗るくらいは出来ます」
「……」
「頼って下さい、ミシェル様。私は頼られたいのです」
胸に手を当て、エリーは言い放つ。
私は視線を彷徨わせた。
頼っても良いのだろうか? 相談しても良いのだろうか?
数拍の逡巡。
私はエリーと視線を合わせ、躊躇いがちに口を開いた。
「情けない話なんだけど……」
私は暗い調子でアイリスとの遣り取りをエリーに打ち明けた。
アイリスに友達になろうと言われ、その手を振り払った事。彼女は私をイジメていた者達の一人であったこと。でもそれは、他のイジメの加害者が怖くて、仕方なくその指示に従っていたと言うだけである事。
話を聞き終わり、エリーは静かに口を開いた。
「……あの、ミシェル様」
「何、エリー?」
「ミシェル様は……その……薄々察してはいましたが……騎士団内部でイジメに遭われているのですよね?」
「うん」
エリーの表情が険しいものになった。柳眉を逆立て、その奥歯からギリリと言う音がした。
「……騎士たる者が何と」
「エリー?」
「……今は、そのことは置いておくとしましょう」
険しい表情を崩さぬまま、エリーは深呼吸をした。
「ミシェル様はどうされたいのですか?」
「……私?」
「ええ、そうです。その……アイリス様とはどうなりたいのですか?」
「……」
「お友達になりたいのですか? それとも、やはり許せませんか?」
「……私は」
正直な気持ちを口にする。
「アイリスとお友達になりたい」
その事には、一切の迷いもない。
アイリスは私の全てを知っていて尚、友達になりたいと言ってくれたのだ。嘘偽りのない、真実の友人。それは何よりも尊い存在になる。
エリーは頷き、優しい笑みを浮かべた。
「アイリス様がどのようなお方なのか実際に目にした訳ではないので、正確な事は申し上げられませんが……きっと、待っていると思いますよ」
「待っている?」
「“アイリスとお友達になりたい”……その言葉が掛けられるのを」
断言するエリー。
……分かっている。
私が「貴方と友達になりたい」と言えば、アイリスはその言葉を拒まない筈だ。
理屈ではない。これは心の問題だ。私にはその度胸がない。
その言葉を口にする心の強さが。
きっと、私は彼女を前にすくみ上って、碌に言葉も発せないだろう。
「勇気を出してください、ミシェル様」
エリーは私の手を握った。
「ミシェル様は強いお方です。きっと上手くいきますよ」
「……エリー」
エリーの手の温かさを感じながら、私はぎゅっと目を瞑った。
……私は何を臆病になっているのだ。
エリーが……友達が背中を押してくれているのだ。その期待に応えないでどうする。
たかだが同年代の少女一人に、何をうじうじと。
そう考えると、悩み苦しむ自分が馬鹿らしく思えて来た。
心身にわだかまる暗い感情を追い出すように、私は息を吸った。
そして____
「ありがとう、エリー」
力強くお礼を述べ……。
私は彼女の前で宣言をする。
逃げるのはもうなしだ。怯えてびくびくするのも、終わりにする。
これは、私の中の小さな革命。
「私、アイリスに謝って____貴方とお友達になりたいって、そう言うよ」
エリーの手を握り返すと、彼女は満足げな笑みを浮かべて大きく頷いた。
「それこそ、ミシェル様です!」
私は決意した。
今晩、食堂で私はアイリスの元へ赴く。
まずは頭を下げて、謝罪をし____素直な私の気持ちを伝える。
そして、彼女とお友達になる。
あの日、私は差し出された彼女の手を拒んでしまった。今度は、私から手を差し出す。
きっとそうする。
その後、私は夕方までエリーと過ごした。
ちなみに、鞘修理の職人の手配は、次の休日には都合がつきそうだとエリーは話してくれた。
次の休日もまた英雄広場で落ち合う約束をして、別れる私達。
彼女との別れ際、その可愛らしい口が____
「頑張って下さい、ミシェル様!」
明るい応援の言葉を投げかけた。
エリーがくれた勇気は無駄にはしない。しっかりと伝える。アイリスの友達になりたいと。
私は兵舎に帰還し、食堂へと向かった。
まだ夕食までは時間があり、食堂はガラガラだった。
『アイリスに言うのか?』
「……うん」
椅子の一つに腰かけ、腰元のカネサダに頷く。
『ま、頑張れや』
「ありがとう、カネサダ」
時間が経つごとに、食堂には次々と騎士達が集まり始める。そして食事の配給が始まる頃には、いつもの賑わいを見せるまでになった。
アイリスに気持ちを伝える。そう啖呵を切ったものの、いざその瞬間になると緊張するものだ。
私はそわそわと落ち着きなく身体を揺らす。早くアイリスが現れないか、気持ちが急いていた。
そして、そんな様子の私は他の騎士達の目には珍妙に映るようで、マリアが顔をしかめてこちらに詰め寄って来た。
「気持ち悪いですわね」
マリアはそう言って、当然とばかりに私の頭をはたいた。
「さっきからクネクネと……見ていて不快ですわ!」
私は頭をさすり、興味なさげにマリアから顔を背けた。
今は彼女に構っている余裕などない。適当に無視して、立ち去ってくれるのを待つことにした。
「……貴方、最近生意気ですわね」
しかし、そんな私の態度が気にくわなかったのか、マリアは立ち去るどころか、怒りをより露わにして私の銀色の髪を掴んだ。
「いたっ!」
髪を強く引っ張られ、頭部に激痛が走る。
「私の話を聞きなさい、みなしご!」
「……」
「何ですの、その目は」
勘弁してほしい。本当に今はアイリスの事で胸がいっぱいなのだ。
早くアイリスに会いたい。早くアイリスに謝りたい。早くアイリスに伝えたい。
アイリスと友達になりたい。
その邪魔をするマリアに、私は気が立っていた。
「聞いていますの!?」
怒鳴るマリア。
お願いだから、何処かへ行って欲しい。相手ならばまた今度する。
「この、“罠係”の分際で!」
尚も解放してくれないマリアに、私はとうとう堪え切れなくなった。
「……あがっ!?」
食堂に一つの呻き声が響いた。
腹部を殴られたことにより発せられたその声は、一体誰のものか?
____それは、マリアのものだった。
私が彼女の腹部に殴りを入れ、その無様な声を上げさせたのだ。
「どっかいって、マリア」
苛々とした口調で告げる私。
冷たい床に腹を抱えて蹲るマリアは、私を信じられないといった瞳で見つめていた。
食堂が静まり返る。皆、私とマリアの様子を緊張した面持ちで窺っている。
静寂は数秒続く。
マリアは目を見開いたまま呆然としていたが、はっと我に返ってわなわなと震え出し、甲高い声を発した。
「____貴方ッ!」
マリアは跳びあがって私にしがみ付き、その頬を思い切り殴った。
「……貴方ごときがッ!」
ぐわんと視界が歪み、よろめく私。マリアは血相を変えて腰元の鞘から剣を引き抜き、勢いのまま私の片膝をその剣先で突き刺した。
「ぐうっ!?」
激痛が走り、私は地面にうつ伏せに倒れる。首を回し膝に目を遣ると、傷口から血が溢れ出していた。
「許さない! 絶対に許しませんわッ!」
激昂するマリアに、幾分か冷静になった私は自身が失態を演じたことを自覚する。
やらかしてしまった。
アイリスへの気持ちが逸るあまり、マリアに手を上げてしまった。
どうして私はこうもタイミング悪く馬鹿をやるのか。
カネサダは私の事を幸せを掴むセンスがないと言っていたが、改めて自分の不器用さが身に染みた。
「このッ……このッ……!」
うつ伏せに地面に横たわる私をマリアがその足で踏みつける。何度も何度も、まるでワイン造りの葡萄踏みのように。
「皆さん、何を黙って見ていらっしゃいますの!? 早く、貴方たちもこの愚か者に制裁を加えなさいッ!」
怒りの叫びを上げるマリアに、食堂内はにわかに騒がしくなった。
地に伏す私に白いシチューの入った木製のお椀が飛んでくる。それを皮切りに、騎士達の何人かが手元の料理を私に投げ始めた。
「……っ!」
私は両手で頭を押さえ、地面に丸くうずまった。顔を上げれば、頬に何の食材か分からない固形物がへばり付き、肌を生臭く汚した。
白いブラウスは瞬く間に薄汚れ、乳製品が放つ独特の臭気に包まれる。
皆の投擲物が降りかかる中、マリアは狂ったように私を蹴り続けた。
余程頭に来ているのか、彼女は投げ込まれた料理の汚れに巻き込まれる事も厭わず、私に暴力を振るう。
「この……貴方は何処まで私を愚弄すれば……!」
「……ぎぃッ!?」
____太腿に鋭く焼けるような痛み。
目を瞑っていて確認は出来ないが、マリアが再び手に持つ剣で私を突き刺したのだろう。
「……このッ……このッ……!」
「……や、やめ」
マリアは冷静さを失っていた。
彼女は怒りに身を任せ、手元のその剣で何度も何度も私を傷付ける。
場の空気が一変する。それまで私に物を投げていた者達が、マリアの癇癪に鼻白んでいるのが分かった。
マリアは最早言葉にならない奇声を発し続け、一心不乱に私をいたぶっていた。
皆、マリアを恐れている。
彼女の怒りが鎮まるのを待ち、誰もその場を動かない。
このままでは不味いと私は思い、激痛の最中、力を振り絞って身体を起こそうとする。
すると____
「____やめてよ!」
食堂内に凛とした声が響いた。
「やめてよ、マリアちゃん!」
誰かが私とマリアの元に駆けつける気配がした。
「ミシェルちゃんから離れて!」
凛とした声は、マリアにそう告げる。
誰だ? 誰の声だ?
私がそう思ったのは、彼女があまりにも凛々しく、普段とはかけ離れた勇ましさを放っていたためだろう。
私は、その声を知っていた。それが誰の声なのか。
しかし、信じられない。
彼女がこんなにも堂々と、よりにもよってマリアに立ち向かうなど。
これは夢か何かか? そう思ってしまう程、私は目の前に広がっているであろう光景が信じられなかった。
顔を上げる。
そして、私は彼女を見た。
今、私が一番会いたがっている少女。今、私が一番気持ちを伝えたい少女。
そう____
そこに、マリアを睨みつけるアイリスの姿があった。