第二十話「フラッシュバック」
アイリスに連れられ、私は目抜き通りの一角に位置するケーキ屋に入る。
休日、散歩の途中でよく目にするお店であったが、入店するのはこれが初めてであった。
甘いものは好きだ。しかし、如何せん甘味に費やす程のお金を私は持たない。なので、この類のお店に出向くのは本当に久しぶりの事だった。
騎士としての給料はしっかりと頂いている身であるものの、私はそのほとんどを貯金に回すことにしている。この先、何がきっかけで騎士団を去るとも知れぬ立場である私にとって、それは必要な防衛であった。なので、私は衣食住全てにおいてその水準を必要最低限のレベルに抑え、贅沢品の類にはほとんど手を着けてこなかった。
私とアイリスは店内の飲食スペースに座り、注文したケーキを前に目を輝かせていた。はしたないが、特に私など涎を垂らしそうな勢いだったのかも。
「ミシェルちゃん、本当にケーキが好きなんだね」
「う、うん……食べるのも久しぶりで」
小動物でも観察するようなアイリスの視線に晒され、私は顔を赤くした。
「喜んでもらえて、おごる身の私としても嬉しいよ」
そう言って、アイリスはケーキにフォークを入れた。
私も彼女に続くようにクリームにイチゴが散りばめられたケーキに手を着ける。
私達はそれからゆっくりと取りとめもない会話をした。
兵舎では短い言葉の遣り取りしかしてこなかった私達だが、ここでは落ち着いて談笑することが出来た。
先程のエリーとの昼食で、他人様との会話の要領は何となく掴めている。
私はアイリスとのコミュニケーションを普通に楽しんでいたと思う。
それはアイリスも同じで、彼女はついぞ見せたことのない明るい笑顔を湛えていた。とても魅力的な笑みだったので、私をどきどきとさせた。
もう2年ほどの付き合いになるが、アイリスがこんなにも楽し気に笑っているのを見るのは初めてかもしれない。
私が物珍しそうに少女の顔を眺めていると____
「……どうしたの、ミシェルちゃん?」
アイリスが不思議そうに首を傾げて尋ねてくる。
「あ、いや……アイリス、なんかいつもと雰囲気違うなあって……」
「そう?」
「うん……何と言うか……びくびくしていない」
私の言葉にアイリスが苦笑いを浮かべた。
「私、いつもそんなにびくびくしてる?」
「……うん」
私は遠慮がちに首を縦に振った。
騎士団で見かける彼女は、いつも何かに怯えるように顔を俯け、周囲の様子をおっかなびっくり窺っている印象があった。
しかし、今の彼女からはそんな様子は感じられない。とても自然体でいるように思える。
「ミシェルちゃんだって、他人のこと言えないんじゃないの?」
「むう」
アイリスの言葉にぐうの音も出ない。頬を若干膨らませる私をアイリスは面白可笑しそうに見つめていた。
「アメリア隊は……」
と、アイリスが切り出す。
「貴族出身の人が多いでしょ? 私は平民の出だから……何と言うか、委縮しちゃうんだ。正直、あの人たちの事は苦手だし」
アメリア隊は……と言うよりエストフルト第一兵舎の騎士達は、名門貴族の出身者か騎士学校時代の成績優秀者で固められる傾向にあった。要は、エリート集団なのである。
ちなみに、アイリスは実戦ではあまり良い働きをしないが、剣や魔導の才能自体には卓越したものがあるので、これでも学生の時は成績上位者の一人として周囲に知られていた。
「ここにはアメリア隊の誰もいないから、それで思いっきり羽を伸ばせるの」
アイリスの告白に私は苦笑を浮かべた。
「ミミとララの事もやっぱり苦手なの?」
「……うーん」
少し意地悪な質問だったか。アイリスは困り顔を浮かべ、唸って回答を引き延ばすだけ引き延ばして、結局何も答えなかった。
あまり踏み込んだ問いは空気を悪くするので、それ以降は出来るだけ当たり障りのない話題で私達は会話を続けた。
時間は過ぎていき、私達はケーキを食べ終え、紅茶のカップも中身が空になっていた。
そろそろ店を出ようと言う空気の中、ふとアイリスが____
「私ね……騎士に憧れていたんだ」
遠い目で語り出した。
私は首を傾げる。
「憧れていた?」
「うん。小さい頃ね……」
そして、しんみりとアイリスが続ける。
「大きな魔物に襲われた時があって……でも、駆けつけて来てくれた騎士が私を助けてくれたの。すごくかっこ良くて……それで、私は騎士に憧れた」
大切な思い出なのだろう。語るアイリスは両手を胸に当て、何かを優しく抱くような様子であった。
「そんな強くて優しい騎士になりたくて……私は騎士学校に入って、一生懸命励んだ……でも……」
少しだけ辛そうな少女の声。
「騎士団は私が思っていたような場所じゃなかった。家柄で集団内の立場が決まったり、貴族の騎士の中には一般人に乱暴をする人もいたり、賄賂や職権濫用だって……」
私は気遣わし気にアイリスを見つめた。
「こんなのは間違ってるって……そう思った。でも、情けないけど……私はどうもしようとは思わなかった。逆らうのが怖くて、ただ周りに流されていた。いつしか、私は騎士に憧れていた自分を忘れてしまっていたの」
アイリスは私に熱っぽい視線を向けた。
「でも、思い出した。ミシェルちゃんに助けられた時、ミシェルちゃんが一人で魔物に立ち向かおうとした時、私は、私が憧れていた騎士の事を思い出したの」
「……アイリス」
アイリスが私に手を握ってくる。
「ミシェルちゃんが思い出させてくれたんだよ」
熱烈なアイリスの感情に晒され、私は照れくさくなり顔を彼女から背けた。
「ねえ、ミシェルちゃん」
赤くなる私に、アイリスが更に迫る。
「私と、お友達になってくれるかな?」
「……! とも……だち……?」
私は目を見開いて、アイリスを見つめた。
目の前には柔らかな少女の笑顔があり、私をその中に引きこむかのようだった。
「友達? ……私なんかと? いいの?」
躊躇いがちに私は尋ねる。その言葉にアイリスが大きく頷いた。
「ミシェルちゃんとお友達になりたい」
断言するアイリス。
それは、どこまでも真っ直ぐで、純粋な言葉だった。
ぱあっと目の前が明るく開ける錯覚を覚える。
嬉しい。ただ、私はそう思った。
……だけど。
私はぎゅっと目を瞑り、苦し気な声を出した。
「やめた方が良いよ……だって、私……アイリスも分かってるでしょ?」
「分かってるよ。ミシェルちゃんのことは全部わかってる。それでも、私はミシェルちゃんとお友達になりたい」
拒むように後退る私の手を逃すまいと強く握るアイリス。
アイリスは確かに言った。それでも、友達になりたいと。
私がドンカスター家に勘当された身である事。私が男性である事。私が騎士団内で非常に不利な立場にいる事。もし、その友達になろうものなら、自分にだって何かしらの災いが降りかかるかもしれない事。その全てを分かった上で、彼女は私の友達になりたいと言っているのだ。
胸が熱くなり、目元がじんじんとし出した。
私は息をのみ、涙を堪えるように目を瞑り____
「私と本当に友達になりたいの?」
再度、試すようにアイリスに尋ねる。
彼女は当然とばかりに頷き、私の手をぶんぶんと振った。
「ミシェルちゃんのお友達になりたい!」
アイリスは周りにも響くような声で、はっきりと告げた。
「……ミシェルちゃんは嫌なの? 私と友達になる事?」
そして、今度は不安げにそう尋ねて来た。
……嫌な訳がない。
彼女は私の秘密を知っている。知っていて、その上で尚友人になると言う選択をするというのならば、それはまさしく真の友人に他ならなかった。嘘偽りのない、人生で初めての親友だ。
何物にも代えがたい、尊い存在。
「ミシェルちゃん」
アイリスは私の瞳を覗き込み、名前を呼ぶ。
「私とお友達になって下さい」
「……!」
真っ直ぐ見つめる彼女の真摯な視線に、私は固まってしまっていた。
時が止まったかのように私は息をするのを忘れ、その言葉を脳内で何度も繰り返し反響させた。
これは、現実か? 夢ということはないだろうか?
そんな事を考え、飛び跳ねそうな喜びに浸っていると、返事を待つアイリスの切なげな表情に気が付き、私は口を開く。
「アイリス」
私は少女の名を呼び、口元を緩ませて____
「……!」
ふと、脳内で過去のとある一場面が、火花が散るように瞬間的によぎった。
蘇ったのは一瞬。しかし、その刹那の光景が槍の先端の如く私の心に穴を開け、眠っていたとある感情を呼び起こした。
……不味い、と思った。
今、それらを思い出すのは不味いと。
しかし、止まらない。とある一場面を契機に、次々と脳内にそれらが押し寄せ、私の精神をかき乱し、乗っ取るようだった。
私は緩ませかけた口元を硬直させ、出掛かった言葉を引っ込める。
「……」
無言になる私。いつしか閉じた唇は、糊で固められたかのように上と下がくっ付いて離れなくなっていた。
私は険しい表情を浮かべていたのだろう。アイリスが「え?」と様子の変わった私を困惑気味に見つめている。
私はアイリスの手を邪険に払いのけた。
手が手をはたく、乾いた音が静かに響く。
「ミ、ミシェルちゃん?」
「……」
明確な私の拒絶に、アイリスは目を丸くする。
この拒絶は照れでも、遠慮でもない____純粋な敵意からくるものだった。
私は目を瞑り、抑えが効かなくなってついに口を開いた。
理性は私を押し留めようとする。それは不味い、と。しかし、暴れる感情の奔流がその制止を振り切る。
「アイリス、覚えてる?」
「な、なに?」
「貴方が私の食事中に背後からバケツ一杯の水を被せたこと」
冷たい私の言葉に、アイリスの顔が青くなる。
「靴にガラスの破片を仕込んだこと。生ゴミをぶつけたこと。泥団子をぶつけたこと。鞘に落書きしたこと。スカートをこっそり破いたこと。頭を踏んだこと。棒で殴ったこと。……ねえ、覚えてる?」
「……」
アイリスは何も言えずに怯えた瞳を私に見せていた。
相も変わらず、理性は告げる。これ以上は駄目だと。ここで引き返せと。
「ねえ、全部覚えてる? まさか、忘れたの? 全部貴方が私にやったことだよ」
私が敵意を込めてアイリスを睨むと、彼女はぶんぶんと頭を振り、慌てた様子で言葉を並べ始めた。
「そ、それは……わ、私の意思じゃ……ミミちゃんとララちゃんに逆らえなくて……私は嫌だったんだよ……!」
分かっている。
分かっている____アイリスは私に様々な嫌がらせをしたが、それらは全てゴールドスタイン姉妹の差し金であったことなど。
彼女は、毎度私へのイジメを躊躇っていた。
イジメは彼女の本意ではなかった。
ああ、分かっているよ。
「アイリス、貴方、素直に謝れないの?」
「……! ご、ごめん!」
駄目だ。この流れは良くない。
「ミミとララに逆らえなかった? 彼女達に言われて嫌々? でも、貴方が私に色んな嫌がらせをした事には変わりないでしょ? あくまで、貴方自身がそれを実行したんだよ?」
「そ、そうだけど」
「ムシが良すぎるんじゃないかなあ」
私はふてぶてしい態度で告げた。
「散々私のイジメに加担しておいて……今更、友達?」
私は机をばんと叩いた。
「____人を馬鹿にするのもいい加減にしろ!」
叫ぶ私にびくりとアイリスが震え上がる。
「私が今までどんな思いをしてきたか、貴方には分からないんだ! 私がイジメられている間、貴方は何をしていた? 皆と一緒になって、くすくすと笑っていたじゃないか!」
「わ、笑ってなんて……!」
「貴方なんか……お前なんか信用できるか!」
ふん、と私は鼻を鳴らす。
「どうせこれも私への嫌がらせに違いないんだ! 友達になるとか、それは全部演技で……馬鹿みたいに信じる私をおちょくって……それで……それで……」
息が荒くなり、私は喉を押さえる。
「白状しろよ! 私と友達になる気なんかないんだろ! 私を弄んで楽しいか!?」
感情の抑制が効かなくなり、私の言動は、思考は、最早支離滅裂だった。
信じられないことに、私は、アイリスが私を騙しているのだと本気で思い始めていた。
きっとどこかにミミとララが潜んでいて、舞い上がる私を観察して馬鹿にしているのだと、そのような妄想に憑りつかれていた。
アイリスは目に涙を溜めて震えていた。口元を両手で押さえ、言葉にならない呻きを発している。
「……ミシェルちゃん」
アイリスは深呼吸をして、身が裂けそうなほど切なげな声で語り掛ける。
「私、騙してなんていないよ……ミシェルちゃんと本当にお友達になりたくて……」
それから、何か諦めたかのように脱力し、乾いた笑みを私に向けた。
「でも……ミシェルちゃんの言う通りだよ……今更お友達なんて……ムシが良すぎるもんね……ごめん……身勝手だった」
心の底から悔いるように彼女は言う。
「私なんかに、ミシェルちゃんの友達になる資格なんてないよね」
アイリスは席から離れ、私に再度笑みを向けた。
「ごめんね」
「……」
苦し気な笑みに、私はようやく我に返り、自分が何をしているのか正しく理解し始めた。
私はすぐさま何事か言おうと口を開くが、言葉が上手く出てこなかった。
「お金、払っておくから」
敢えて明るく振舞おうとするアイリス。私が声を発すより前に、彼女は唇を噛んで逃げるように私の前から立ち去った。
怒鳴ったりしたためか、店いる客の何名かが私をちらちらと見ている。
しばらくの間、私は魂が抜けたかのように呆然とし、虚ろな視線を周囲に彷徨わせていた。
そして____
「……あー」
私はテーブルに突っ伏して、その木目に何度か額を打ちつけた。
「あー……あー……!」
喃語のようなものを発し続け、私はひたすら額をテーブルに叩きつける。
「あー……!」
『その位にしとけよ』
腰元からの静かな一言。カネサダの声で私は自らの奇行を止める。
ベルトに差した刀に視線を遣り、一言呟いた。
「……やっちゃたよ……カネサダ」
『やっちまったな』
私はそれから両手で顔を覆い、肩を震わせて泣き出した。
しゃっくり交じりの声でカネサダに呟く。
「……思い出しちゃった」
『……』
「よりにもよって、あのタイミングで……思い出しちゃった」
脳内によぎったとある場面。それは、アイリスが私にイジメを行う瞬間のものだった。
私は思い出した。アイリスも私をイジメていた者達の一人である事に。その厳然たる事実に。
無論、彼女が自身のその行為を是としていない事は分かっている。あくまで、ミミとララに強要されていたと言うことぐらい。双子の命令には逆らえないと言うことぐらい。全部、分かっている。
分かっていながら、それでも許せなかった。少なくともあの瞬間は。
一つの記憶を皮切りに暗い感情が溢れ出て、私は自分自身を制御できなくなっていた。
「私は……何てことを……!」
深い後悔の念が押し寄せてくる。
私は何故、アイリスを拒絶してしまったのか。
せっかく、友達になってくれると……そう手を差し伸べてくれたのに……!
カネサダが溜息を吐いて____
『ミカ、お前は甘えん坊なんだ』
「……甘えん坊?」
『お前は心を許した相手に感情を爆発させる傾向がある。特に悲しみや怒りみたいな、これまでの人生で発散することが出来なかった暗い感情なんかをな』
「……」
反論はない。
その通りだった。
エリーと初めて会った時もそうだった。私は彼女の優しさに心を許したからこそ、心無い怒りの言葉をぶつけたのだ。カネサダと初めて会った時も、もしかしたらそうかもしれない。あの時、赤子のように泣きながら立ち去ったのは、心の奥底で彼に好意を抱いていた故だろう。
今回の事も、やはり度し難い私の気質が招いた事態なのだ。
『お前はつくづくセンスがねえよな』
カネサダは言う。
『お前には幸せを掴むセンスがねえんだ。きっとそれは、今まで人生を不幸の中で過ごしてきたからだ』
幸せを掴むセンス……か。確かにあるかないかで言えば、私にはない。
「……はあ……気持ち悪い」
目の前に出来た空席を見る度に、私の胃は縮み、心臓や肺は締め上げられるようだった。
去り際のアイリスの悲しげな表情を思い出すだけで、吐き気がしてくる。
ああ、今日は何て因果な日なんだ。
友達を得て、友達を失う。
何か幸運を手にする度、何か不運を貰い受ける。きっと私はそんな運命にある。
そんな妄想に沈み込んで、私は涙を流すのだった。