第十二話「森の巨狼」
『ミカ、外はどうなってる?』
荷台の奥からカネサダの声が聞こえてくる。
私は彼の声には答えず、注意深く周囲の様子を窺った。
「アサルトウルフが一匹! 他に敵影なし!」
前方から仲間の声が飛んでくる。
アサルトウルフが一匹____
同じだ。昨日と同じ。
アサルトウルフは通常の狼と同様の生態を持ち、群れで行動をする魔物だった。
それがただ一匹、普段は出現しない場所に現れた。昨日の騒動との符号の一致に不吉な予感を覚えざるを得ない。
「一匹か? よし、魔法で蹴散らしてしまえ!」
隊長のアメリアの声が響く。
複十字型人工魔導核の強い魔導波が伝わってきた。前方で何かが空を切る音がする。
アサルトウルフに魔法を放ったのだろう。おそらく、昨日私が使用した氷の矢と同様の攻撃だ。
しかし____
「……! 弾き返された!?」
アメリアのその驚愕の一声で、騎士達の間に動揺が広がった。私もその一人だ。
『おい、ミカ!』
カネサダの声が聞こえたが、私は無視して外に身を投げ出す。荷台の床を蹴って宙返りをし、幌の上部へと躍り出た。
強風に煽られながら、私は前髪を押さえ身を低くする。
周りを見回すと、走行中の馬車の列とその左右のアメリア隊の馬列との間を一匹の黒い狼____アサルトウルフが駆けていた。
「ええい! 威力が足らんのだ! 各員、構えッ! ____放てッ!」
再びアメリア隊長の口から号令が発せられた。一拍置いて、馬上の騎士達の手元から魔法で作られた氷の矢がアサルトウルフに放たれる。
飛翔する氷の矢はその幾つかが魔物の黒い身体に命中するが、アサルトウルフには傷一つ負わせられなかった。
「馬鹿な、効かないだと!?」
焦燥に満ちたアメリアの声。
私は目を丸くした。やはり、昨日と同じだ。硬質化した魔物の身体は、その硬度で以て氷の矢を弾いたのだ。
よくよく観察すると、昨日の倉庫街の魔物とは違い、目下のアサルトウルフは体毛ではなくその下の皮膚そのものを硬質化させているようだった。
体毛であれ、皮膚であれ、攻撃が通じないのは変わりない。
騎士達は何度も何度も氷の矢をアサルトウルフに放つが、それらは何の有効打にもならなかった。
アメリア隊の間で、ヒステリックな叫び声が上がるようになる。それは攻撃が通じない恐怖故のものだった。
一匹____たった一匹のアサルトウルフの存在が、騎士達を恐怖と混乱の渦に陥れる。
飛び交う悲鳴の中、アサルトウルフに異変が起きる。
「……!」
私は息をのんだ。
赤いオーラ。それが、私の目に映ったからだ。
あの時もそうだった。あのアサルトウルフも赤いオーラを発した途端、体毛を硬質化させる異能力を発揮したのだった。
直後、私は信じられないものを目にする。
黒いアサルトウルフの身体。それがぶくぶくと内側から煮えたぎるように膨れ上がり、体長を何倍にも増幅させたのだ。
森に現れた狼の巨躯が馬車の列に大きな影を落とす。
刹那____狼の身体が先頭を走る馬車の荷台に突っ込み、その車体を横転させた。頭をやられたことで、後続の馬車は緊急停止。騎士達も手綱を繰り自身の馬をその場に留める。
「な、なんだ……これは……!?」
呆然と声を漏らすアメリア。
巨大化したアサルトウルフ。その大きさは馬車のそれを僅かばかりか超えるものだった。
立ちはだかる魔物の巨影に、アメリア隊の一同は恐怖で固まる。
凍り付く騎士達に、しかしアサルトウルフは容赦のない爪牙を向けた。
その巨体からは想像もできない俊敏さで以て、アサルトウルフは騎士の一人に突撃する。
「ああっ!」
巨大な狼の頭突きにより、馬上の騎士は馬ごと吹き飛ばされ地面に転がる。
そして、鼠を喰らうが如く、アサルトウルフは倒れた騎士に開いた口を向け____噛みついた。
皆、唖然としていた。
地面から噴き上がる血潮____それは倒れた騎士のもの。
森に木霊する悪霊の如き悲鳴____それも倒れた騎士のもの。
アサルトウルフの牙の隙間から騎士の顔が覗く。
私はごくりと唾を飲み込んでしまった。
狼の赤い口の中、騎士はただ少女の顔をしていた。
彼女は確か、2つ年上の17歳の先輩騎士であった筈。貴族の生まれで、その例に漏れずいつも威張り散らかしていたのを覚えている。私の事も積極的でないにしろ、事ある毎にイジメていた。
騎士として剣を振るい、強くあったその彼女も、今はただ無力な少女の顔を浮かべ、絶望を湛えた眼を皆に向けていた。
少女の口が僅かに動く。目に涙を浮かべ、何かを言っている。
「……“た”、”す”、”け”、”て”?」
その口の動きから、私は彼女が何を伝えているのか読み取った。
そして、それが彼女の最後の言葉となった。
アサルトウルフは何度か騎士の身体をかみ砕いた後、その胴の部分を咥えて高く空中に放り投げた。
アメリア隊の一同はただ眺めていた。仲間の身体が赤い血の線を引いて暗い森の宙を舞い、それが木々の隙間に引っ掛かり、宙吊りのまま動かなくなるのを。
血と涙で汚れた少女の顔。恐怖に見開いて固まったままのその目は、私達に何やら恨み言を述べているようでもあった。
死んでいた。最早確かめるまでもなく、騎士は息絶えていた。
アメリア隊の皆が恐怖の叫びを上げる。ある者はその場から逃げ出し、またある者は腰を抜かして落馬した。
「ば、ばか……み、みな、ば、バラバラになるな……!」
アメリアが命令しても、部隊の混乱は収束しなかった。アメリア自身も怯えからか、落馬し地面にへたり込んでしまっている始末だ。
かく言う私も、恐怖で身体が言う事を聞かない状態であった。
この数秒の間で、アメリア隊は壊滅の状態に陥った。
しかし、それも致し方ない事。何故なら、人が一人死んだのだから。
騎士の死亡。それはリントブルミア魔導乙女騎士団が創設されて以降、殆ど例のない大事であった。
騎士となる少女の中には貴族の出身者も多い。そのため、騎士団は団員達の命を脅かすような危ない任務は、基本的にもう一つの国の軍事組織であるリントブルミア乙女兵士団に任せるようにしている。
それに加え、魔導の力が与えられた騎士達は、一人一人が強力な戦闘能力の持ち主なので、余程の事態が起きない限りは、最低限自分の命は自分で守ることが出来るのだ。
そう、余程の事態が起きない限りは……だ。
つまり、騎士が一人死亡した今の状況は、その“余程の事態”であると言える。
決して巡り合う事はないと思えた死と隣り合わせのこの場面に、騎士達は大混乱であった。
不意打ちのような事だったとは言え、仮にも魔導騎士の一人が為す術もなく一匹の魔物にやられたのだ。その精神的ショックは部隊を壊滅し得るものだった。
騎士の一人を葬ったアサルトウルフは、返す刀で逃げ惑う別の騎士に疾駆する。それは恐ろしい疾さだった。
騎士が背後を振り向くと同時に、アサルトウルフの巨大な爪がその身体に放たれる。
狼の爪撃は、騎士が咄嗟に展開した魔導装甲を易々と突き破り、華奢なその身体を彼方へと吹き飛ばした。樹木の一つに騎士の身体はぶつかり、彼女はそのまま動かなくなった。
……死んだのだろうか?
どのみち、しばらくは意識を取り戻さないであろう。
それにしても恐ろしい。
刃を通さぬ硬い皮膚を持ち、巨躯からは想像も出来ない素早さを誇り、魔導騎士の防御を軽々と破壊し得る力を振るう____目の前のアサルトウルフは戦いに必要な全てを兼ね備えた存在だった。
「あ、ああ……! こ、こっちこないで! お、お願い……お願い止めて!」
アサルトウルフの次の標的となった騎士が地面に座りみ、涙目で慈悲を乞う。
「あああああああああああああ!! やめてくださいいいいいいいいいいい!!」
惨めに命乞いをする騎士の願いは、当然聞き入れられることは無くその身体は狼の牙の餌食となった。
迸る鮮血に、新たな犠牲者の誕生を認識した私は、ようやく動くようになった自身の身体を幌から降ろし、両足を森の地面につけさせる。
地面に降り立った私に、前方から逃げ惑うアメリア隊の仲間とその守護対象である売却業者が波のように押し寄せて来た。
騎士たちの中には馬を捨てて自らの足で逃げる者もいる。
「だ、誰か、助けて!」
前方、逃げ遅れた一人の騎士の声が聞こえてくる。
私がそちらに目を向けると、同期のアイリスが地面に倒れ込み、魔物から逃げていく仲間たちに助けを求めている様子が見えた。
少女にアサルトウルフの影が迫る。アイリスは今まさにその爪牙の餌食になろうとしていた。
「……アイリス!」
気が付けば、私は彼女の名を叫び、地を蹴っていた。
アサルトウルフの爪撃がアイリスに振り下ろされる。しかし、その一撃が少女に命中することはなかった。
狼の爪が地面を抉る。振り下ろされたアサルトウルフの前脚。そのすぐ隣にアイリスを抱えた私が佇む。
間一髪だった。アサルトウルフの一撃がアイリスの脳天を粉砕する直前、風の如く彼女の元へと飛翔した私は、その身体を抱え、紙一重で魔物の攻撃を躱したのだ。
「……ミシェルちゃん!?」
「……くっ」
すぐさま、アサルトウルフの次撃が繰り出される。振り下ろした前脚を再度振り上げての横薙ぎの一撃だった。
私は新しく支給された剣を抜き放ち、その攻撃を受け止める。
放った剣身と魔物の片足がぶつかる。衝突の瞬間、複十字型人工魔導核から最大限の魔導の力を引き出し、横薙ぎの一撃に対抗する。
金属同士のぶつかる音が響き____私の剣は無残にも砕け散った。
しかし、それが幸いした。剣身がバラバラになることで、私の身体にかかる負荷が一瞬だけなくなり、上方に僅かに逸れたアサルトウルフの横薙ぎを、身体を仰向けに倒すことで回避することができたのだ。
私はすぐさま起き上がり、アイリスを再び抱えてその場から飛び退る。
またしても間一髪。飛び退ったその直後に、再びアサルトウルフの爪撃が繰り出され、私達のいた地面が土埃を上げて抉られた。
「……ミ、ミシェルちゃん……せ、背中が!?」
「……え?」
ひとまず木々の間に避難してアイリスを降ろしたところで、私は彼女に青い顔をされた。
背中____私は彼女の言葉に、自身のその部分を反射的に触った。
べっとりと、背中に触れた手には赤い液体が纏わり付き……私も顔を青くした。
赤い液体。当然それは私の血であり、今現在私自身の背中がどのようになっているのかを如実に物語るものでもあった。
間一髪で避けたと思っていたアサルトウルフの一撃を、私はしっかりと自身のその背中に貰っていたのだ。
途端、麻痺していた痛覚が目を覚まし、私は恐怖と痛みで絶叫を上げた。
「……ああ……あ……せ、背中、が……!」
ひとしきり叫んだ後、私は目に涙を浮かべて、その場に倒れ込んだ。
「ミ、ミシェルちゃん……ご、ごめん……わ、わたしの……せいで……」
私の隣、青い顔のアイリスが目に涙を溜めてオロオロとしていた。
私は歯を食いしばる。複十字型人工魔導核の身体修復機能を活性化させ、背中の傷をすぐさま治していく。
その耳に、遠くアメリア隊の仲間達の悲鳴が聞こえてきた。
アサルトウルフは尚もその爪牙を振るい、騎士達を一方的に蹂躙しているようだった。
私は顔を上げ、ちらりとアイリスを見遣る。がたがたと膝を抱えて震える少女は、涙を流しながらこちらを心配そうに見つめていた。
「い、いやだ……し、死にたくないよお……」
情けない声で呟くアイリス。
背中の痛みが少しだけ引く。
私が呻き声を上げながら起き上がると、アイリスもつられて立ち上がった。
「ミ、ミシェルちゃん」
アイリスが私に縋る。
「……わ、私達……ど、どうなるの……このまま……ここに隠れていれば……あ、安全だよね……?」
未だ背中に残る痛みに顔をしかめ、私は端的に答える。
「……多分、このままだと……死んじゃうと思う……私も……アイリスも」
「……!」
「アサルトウルフは鼻が良いから、隠れてやり過ごすのは無理。あの人達が片付いたら、次は私達の番」
私は悲鳴の上がる方をじっと見つめた。
投げかけられた無慈悲な言葉にアイリスは泣き崩れる。
「い、いやだよ! こ、こんなところで……死ぬなんて……!」
「……」
私は一点。ただ一台の馬車を見つめていた。
目を瞑り、私は首を横に振った。
そして、告げる。
「でも、死なない」
「え?」
私は一歩足を前に踏み出す。
「こんなところで……死なない」
私は息を切らしながら歩き出していた。
アイリスが困惑の表情を浮かべ尋ねる。
「な、何を……何を言っているの?」
その彼女に向けて、私は言い放つ。
「あの魔物を倒す」
アイリスは呆然と私を見つめていた。
数秒遅れて、その口が____
「無理だよ!」
ただ一言叫ぶ。
「……」
「あんな魔物に勝てるわけないよ!」
アイリスは私の前に立ち塞がり、その肩を掴んできた。必死に私を引き留めようとする。
私はふうと息を吐き、先の少女の言葉を否定する。
「……いや、倒す」
「……ミシェルちゃん!」
「……」
「に、逃げようよ! 今の内なら……私達……!」
私はアイリスを押しのけて進み始める。
そうして、もう一度宣言する。
「あの魔物を倒す」
魔導の力の一部を痛覚の麻痺に回す。
そうすることで、背中の傷の痛みが行動を鈍らせることを防ぐ。
私は向かっていた。
今、この窮地を脱することの出来る可能性____
”彼”の元へ向かっていた。
”彼”ならば、きっと____