第十五話「八夜:本家への帰省」
朝、カーテンの隙間から差し込む陽の光で目が覚める。上体を起こした視界には内側の煤けたガスランプ、インク瓶と羽ペン、古びたマホガニーの家具が映った。
寝起きの気怠さが私を襲う。伸びをして上を向くと、少しだけ埃っぽい天井がそこにあった。
この天井も随分と見慣れて来たなと私は思う。
アウレアソル皇国からリントブルミア王国に渡り数年が経過して、こちらの風習や文化にも随分慣れて来た。言葉だってもうほとんど問題なく扱える。
エストフルト第一兵舎に部隊長として入舎させられた時にはどうなるかと不安だったが、周りの支えもあってどうにか一端にやれている……と自分では思っている今日この頃。ようやく現場に慣れ始めて来た折、ドンカスター本家のお母様から帰省を促す手紙を受けた。
何故この時期に私を実家に呼び出すのか。その理由は分からないが、何やら差し迫った様子をお母様の文面から感じ取った。もしや、恐ろしい不幸がお母様の身にあったのだろうか。
ほんの一週間前の出来事。私はお母様の呼び出しの手紙を巡りミシェルお姉様との間に不和を生じてしまった。彼女____いや、彼は目に見える程ドンカスター家の事を憎んでおり、お家の事情に触れると人が変わったように激昂する。今回も必要と思い、手紙の内容をお姉様と共有しようとすると露骨な拒否反応を見せられ、結果口論に発展してしまった。
喧嘩別れの後、私はお姉様と一切の口を利けていない。今日これからドンカスター本家に向けて出立すると言うのに。どうにか仲直りをしようと試みたがタイミングが合わない日が続いたのだ。
騎士の制服ではなく私服に着替え、準備しておいた旅行鞄を持ち上げる私。物静かな自室を抜け出す。元からルームメイトがいないので挨拶をする相手は居ない。しかし、何とはなしに「行ってきます」と言葉を投げかける。部屋に対する愛着がわいているのかも知れない。
兵舎を後にして、馬車の発着場に向かう。轍の多い道路が見え始め、目的地まで後少しの所、ふと目の前に人影が立ちはだかる。
「おはよう、八夜」
その声に私ははっとなって、二度目が覚めた心地がした。
「……お姉様」
騎士の制服に身を包んだミシェルお姉様が私に手を振っていた。私は思わず駆け寄り____
「え、と……あの……」
言葉に詰まってしまう。随分久しぶりの会話に思える。気不味さと妙に急く気持ちで上手く喋れない。
「今日出発だったよね」
「……そうですね」
ミシェルお姉様は咳払いをして頬を掻く。
「あの……この前はごめんね。その____つい頭に血が上っちゃって」
「いいえ、私の方こそ」
ここぞとばかりに私は頭を下げる。
「お姉様のお気持ちを少しは汲むべきでした。本当に申し訳ございません」
「……八夜」
「嬉しいです。出立の前にお姉様とお話し出来て」
ほっとした表情を浮かべるミシェルお姉様。私も深い安堵の吐息を漏らす。良かった。どうにかお姉様と仲直りが出来て。
互いに気恥ずかし気な笑みを浮かべた後____
「八夜、ちょっと良いかな?」
「ん、何ですか」
ミシェルお姉様の身体が接近し、その手が私の首筋に伸びる。突然の接触にびっくりして硬直する私。身体が離れた時、私の胸元には首から紐で下げられた宝石があった。
「首飾り」
と、ミシェルお姉様。私は宝石を指で弄り、その顔を覗き込む。
「……頂けるのですか?」
「うん、似合うかなと思って」
「……! ありがとうございます」
顔が綻ぶのが自分でも分かる。ミシェルお姉様からの贈り物。嬉しくない訳がない。
「大切にしますね、お姉様」
「うん____そうしてくれると嬉しい、かな」
「……お姉様?」
一瞬____ミシェルお姉様の顔に影が差した気がした。それは、まるで罪悪感を覚えているかのようなものだったが……ただの気のせいだろうか。本当に一瞬の事だったので良く分からなかった。
「まあ……私だと思って四六時中身に着けててよ____あ、いや……こういう言い方は気持ち悪いかな」
「いいえ、そんな事は。是非そうさせて頂きます」
私は両手でそっと宝石を包み込む。私だと思って。ミシェルお姉様らしからぬ物言いに違和感を覚えたが、今は兎に角嬉しい。こう言うのは初めてだから。
「じゃあ、行ってらっしゃい。良い旅を」
「はい」
ミシェルお姉様に見送られ、私は馬車に乗り込む。行き先はドンカスターの本家屋敷がある旧ドンカスター領だ。
胸元の宝石。馬車に揺られる中、私は既に何かを成し遂げたかのような達成感に浸っていた。
穏やかな空気が漂う。時間は驚くほど早く過ぎた。しかし、車窓外を眺め、旧ドンカスター領の少しだけ懐かしい景色が見えて来た折の事だ。馬車が急停止をする。
どうしたのだろう。目的地の発着場はまだ少し先だ。疑問に思っていると、一人の騎士が馬車の扉を開け、私に誰何した。
「失礼ですが、お名前を。それと身分を証明できる物をご提示願います」
事務的だが、やや物々しい様子の騎士。私はドンカスター家の家紋が刻まれた鞘を取り出す。
「八夜・東郷・ドンカスターです」
名乗る私に騎士は目を丸くしたが、臆することなく馬車内を検め始めた。少し様子がおかしい。と言うのも、“ドンカスター”の名前を出したと言うのに、騎士が一切の遠慮を見せないからだ。それは本来であれば職務上の正しい姿勢であるのだが、普段ならこうはならない。何かしらの遠慮と、場合によっては媚びへつらうような態度を示してくる筈なのだ。
「あの、何かあったのですか?」
騎士に尋ねる私。彼女の様子に重大な事件の臭いを感じ取った。
「エリザベス王女殿下の行幸がありまして、一帯の警備を強化しているのです」
「……殿下が?」
「数日間の滞在をご予定されているようなのです。その間はご不便をお掛けすると思います。例えドンカスター家のご息女がお相手でも」
やがて騎士は厳粛な態度で引き下がり、深々と頭を下げた。
「どうぞ、お時間をお掛けしました」
私は「お疲れ様です」と労いの言葉を掛ける。それと同時に馬車の扉が閉まった。馬がいななき、再び車輪が回り出す。
残りの旅路を消化する間、私は先程の騎士との一幕を整理した。
エリザベス王女がこの旧ドンカスター領に滞在している。一体何の用事だろうか。最近何かと話題の姫殿下。公安部の設立で騎士団上層部から目を付けられていると聞いている。政治の事はからきしなのでよく分からないが、公安部の活動と今回の滞在は何か関係があるのかも知れない。旧ドンカスター領は行楽地としても有名であるので単なる保養目的での行幸の可能性も否めないが。
馬車が発着場に到着すると、数十人にも及ぶドンカスター家の使用人が列をなして私に腰を折る。私は彼らに導かれ、お母様のいるドンカスターの本家屋敷に向かった。
「只今戻りました。八夜です」
屋敷の玄関口。更に大勢の使用人に見守られる中、私は帰還を告げる。
「よく戻りました、八夜」
旅行鞄を床に落とし待機していた私の頭上に声が掛けられる。吹き抜けの階上。見上げると、そこにお母様の姿があった。私はお辞儀をして、階段を上り、お母様の元まで歩み寄る。
「お元気そうで何よりです」
お母様の細身を観察し、私はその健康状態を確認する。見た所、特に変わりはない。何かその身に大事が起きたのではないかと覚悟していただけに、安堵する私がいた。
「ああ、私の可愛い八夜」
「……お母様?」
突然、お母様に抱き着かれる。崩れ落ちるようなその勢いに私は困惑した。
「どうかなされたのですか?」
「いいえ。娘との再会を喜ぶことがそんなにも不自然な事でしょうか?」
「……はあ」
お母様の身体に触れ、再度健康状態を確認。筋肉に張りがある。体重はむしろ増えていると言った具合だ。顔色も良く、やはり危惧すべき事は何もないように思えた。
急な手紙の呼び出しに、私は不幸の報せを予期していたのだが、これはどうもその逆。お母様の全身から溢れる喜色に、私は己の勘違いを考える。何かめでたい事があったのだろう。今回の呼び出しもそれに関係しているのかも知れない。
「さあ、こんな場所でお喋りも何ですし、ゆっくりお茶でも致しましょう」
お母様の誘いに私は頷く。旅行鞄を使用人に預けて、導かれるまま屋敷の一室に赴いた。
廊下を歩いている途中、私はすれ違う使用人の集団の中にあるものを見つける。
「どうかしましたか?」
立ち止まって後ろを振り返る私にお母様が尋ねる。私はそれを指差し____
「“血杯”が見えたもので」
「ああ、“血杯”ですか……ふふ」
お母様が俄かにうっとりとした笑みを浮かべたので、私はびっくりした。
「喜ばしい事に、近々用いる機会があるのです。そのための運搬ですね」
「用いる機会? それって……家族が増えるかも知れない、と言う事ですか」
私の言葉に、お母様は不気味なほど明るい笑顔を浮かべた。
「ええ、ドンカスター家に新たな仲間が加わるかも知れません。ふふ……これで」
口元を押さえるお母様。
「これで……あの子ともおさらばです。もう悪夢にうなされる必要もなくなる」
「……お母様?」
お母様の瞳は虚空を彷徨っている。その言葉も私に投げかけられたものではなく、自身に言い聞かせるための独り言だった。虚ろなお母様。私は言葉に出来ぬ寒気を感じた。
“血杯”とは血縁を証明するための魔道具だ。私も以前使用したことがあるが、血液を数滴杯に垂らすことで、その者が“血杯”を作った者____ドンカスター家のそれの場合、始祖ドレイク・ドンカスターの血を引いているかを調べることが出来る。貴族の家では、“血杯”での儀式を以て、家督相続や血族の認証を行うのが常である。
“血杯”が近々用いられると言う事は、ドンカスター家の血を引くと思われる人物が新たに見つかった、と言う事なのだろう。私のように。
お母様の様子は尋常ではないが、何はともあれ、家族が増えるのは喜ばしい事だ。
屋敷の静かな一室。テーブルを挟んで私とお母様はお茶を楽しむことにする。“西世界”のお茶はアウレアソル皇国で一般的に飲まれている緑茶ではなく、紅茶と呼ばれる種類のもの。私の舌もその味にだいぶ慣れて来た。今ではすっかりその虜だ。
お茶を啜りながら、私はエストフルト第一兵舎に入舎してからの事を覚えている限りお母様に話した。穏やかな様子で話に聞き入っていたお母様だが、ふとミシェルお姉様の名前を口にした瞬間、露骨に顔を強張らせるので、私は意図してお姉様に関する話題だけは避けるようにする。
分かっていた事だが……お母様はミシェルお姉様がお母様を避ける以上にお姉様の事を避けているようだ。家族を一つにすると言う私の願いは、成就まで遥か遠い。そう思い知らされる。
「お母様、そろそろ宜しいですか」
ティーカップを空にした頃、私は改まった口調で切り出す。
「何故、突然私を本家にお呼び出しなされたのですか?」
私が本家に帰省した目的。それはお母様との歓談ではない。意を決して本題に移ることに。
お母様は____
「そうですね。そろそろお話しましょうか____私の可愛い八夜」
あやすような声音で私に語り掛けるお母様。
「ドンカスター本家次期当主の座に興味はありますか?」
私の目を見つめ、そう尋ねるお母様に肯定でも否定でもない答えを返す。
「ドンカスター本家次期当主の座はお母様の実の娘であるミラに相応しいです。私は彼女が健やかに成長し、その座につくことを望んでいます。しかし____あってはならない事ですが、万が一が起きた時、私がその代わりを務める覚悟はあります」
年齢的にドンカスター本家次期当主の座に一番近いのは私だ。しかし、だからと言って家督を継ぐ予定は私にはない。その立場は妹でお母様の実の娘であるミラに譲るつもりだ。妹にもしもの事が起きない限り、私が当主になることは無いだろう。
「ミラに相応しい、ですか。……残念な事ですが、その通りだと言わざるを得ません。貴方は……その____こちらでは政治的にあまり強くはない。本当に残念な事に」
「ええ、承知しています」
私はアウレアソル皇国で生まれ育った“東世界人”との混血児だ。リントブルミア王国にも純血主義者は存在する。四大騎士名家の本家当主として自分が相応しくないのは充分理解しているつもりだ。
「その事を嘆くつもりは私にはありません。ミラが立派な当主になり、私が妹を支える。それはとても喜ばしい事だと思っています。受けた恩を返すことこそが私の本懐です」
その言葉に嘘偽りはない。私はお母様とドンカスター家に救われた身だ。どんな形であれ、その恩を返していきたい。
「八夜に次期当主の座を与える事は難しいですが、貴方は特別な娘です。これからたくさん増えるであろう私の娘達の中でも、一番の特別」
「……これからたくさん?」
「だからこそ、八夜には一番に託したいと思います」
お母様の発言が引っ掛かったが、熱を帯びたその勢いに流される。
「ドンカスター家の秘密を。いえ、騎士団の抱える秘匿された大義を」
「……ドンカスター家の……秘密……?」
首を傾げる私にお母様が微笑む。
「場所を移しましょうか」
立ち上がり、私の手を取るお母様。
「八夜に託しましょう。“黙示録の四騎士”の一つ____“疫病”の力を」




