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3-6

◇◇◇

「やーっと気付いてくれたー!」


 そう言って破顔した貫之を、呆然と膝をつき、見つめる。


「何で……お前は、イ界の中にいるはずじゃなかったのか……?」


『沈黙の二年』の後再び現れた邪楽は、確かにそう言っていたはずだ。


「えー? 僕、そんな事、一言も言ってないよー? 『この世界の何処かにいる』とは言ったけどー」

「だからそれが――」


 言いかけて、気付いた。

 イ界の映像を流した後、貫之はこう言った。「私はこの世界の何処かにいる」と。


「俺たちを、嵌めたんだな……」


 確かに邪楽は、イ界の中に居る、とは一言も言っていない。くだらない。 まるで子供だましの様ではないか。


「心外だなー。気付かないツラユキが悪いんだよー。いーっぱいヒントはあったのにさ」


 真実を明かされ、幸来は思った。確かに、讃良と貫之の喋り方は、似ている。


「大体さー、推薦組が僕と君の二人だけって時点で怪しいと思わなーい? 何で讃良は邪楽に選ばれたんだろう、みたいにさー。ツラユキってば一度だって聞いて来なかったよね」


 一度も疑いはしなかった。讃良が推薦組に選ばれた理由を、考えもしなかった。


「木埜、っていう苗字だって、紀貫之と掛けたんだよ? ほら、土佐日記は女の人がオトコのフリをして書いたでしょ? それの逆だよ。僕は、女の子のフリをしたんだ」


 手に狂戦士を握り、貫之が近づいてくる。


「ちょっと髪を伸ばして、ちょっと化粧して、ちょっと高い声で喋ったらみーんな騙されちゃうんだもん。讃良ちゃん、讃良ちゃん、って鼻の下伸ばして話し掛けてきてさー。 話し掛けてるのは、自分たちが血眼で探してる悪の王だっていうのに。もう僕、それがおかしくっておかしくって……」


 そして、細い足をあげ、幸来の目の前でアリアの頭を、踏んだ。


「……笑っちゃった」


 一瞬のうちに、冷え切っていた体に沸騰した血液が流れた。

 頭の中で、何かが音を立てて切れ落ちる。


「てめぇ、何しやが――!」

「動かないで」

 

 右手を虚空に突き出した状態で、幸来は動きを止めた。首元に、銀色の棒が突き付けられていた。


「僕が君の頭を殴ってザクロみたいにするのに、一秒とかからない。対する君が、千年の盾の顕現にかかる時間は、二十秒弱」


 喉に当たっていた棒が傾き、顎が上がる。


「ねぇ、分かるでしょ? 今の君に勝ち目はない。万に一つだって有り得ない。君の命は僕が握ってる。僕が、握ってるんだ」

「く……そ……」


 砕ける程に奥歯を噛み締める。目の前にいるのは、アリアを殺した張本人で、そいつは今、その足でアリアの頭を踏みつけている。

 ふつふつと湧き上がる怒りと、憎しみと、喉元にかかった狂戦士から発せられた確かな殺気に対する怯えが、幸来を揺らす。


「憎い? 憎いよね? だぁい好きな人を殺した僕の事も。こんな事がまかり通る、この世の中も。そして何より……彼女を守れなかった、愚かな自分の事が、さ」

「……やめろ」

「哀れだね、ツラユキ。ホントーに可哀想だよ。やっと掴んだ幸せが、目の前で崩れ去っていって。残されたのは、絶望だけなんだから」

「……頼むから」

「まぁでも、ツラユキ自身の所為でもあるよ。だって」



「愛する人一人護れないくらい、弱いんだもん」



「……もう……やめてくれ……」


貫之の言葉が、混沌とした幸来の感情の渦の中に一滴の雫となって、落ちた。

 落ちた雫は波紋を立て、波紋は混じり合った感情を揺らし、その奥からただ一つをあぶり出した。怒りも、憎悪も、慟哭も、戦慄も飛び越えて、今幸来を支配している感情は――惨めさだった。


 アリアを守れず。

 彼女との約束を守れず。

 彼女を殺した相手に、手も足も出せず。


(俺は、無力だ)


 そう気付いた時体中から力が抜けた。戦う意思すら消え失せ、人形の様に地に膝をつく。


「ふふ……ひどい目。死んだ家畜の眼球みたい」


 顎の下から、狂戦士が外れた。首を支える力もなく、視線が下に落ちる。血にまみれたアリアが、そこにいた。


「見るに堪えないなー。ま、僕のせいではあるんだけど」


 ふわふわとした物が視界に入った。良く見るとそれは、幸来がアリアにプレゼントしたクマのぬいぐるみ『ゆきちゃん』だった。


「さて、と。これからどうしよっかなー、ツラユキの事殺して、イ界に帰ろうかなー」


 『ゆきちゃん』の体は血にまみれ、柔らかな毛並みは乱れていた。買った時と変わらぬつぶらな瞳で、幸来を見上げている。

 その目に映し出される景色は、こんなにも悲劇に満ちていると言うのに。


「ねー、聞いてる? 反応してくれなきゃつまんなーい」

「殺せよ」


 ぬいぐるみの瞳を見つめながら、ごく自然に、幸来は言った。強がりではない。心の底から、そう思った。


「殺してくれ」


 ここで、死ねば。

 アリアと同じ所へ行ける。

 また彼女に会う事ができる。

 そうだ、それがいい。アリアに会ったら、まずは謝ろう。

 約束を守れなかった事を全力で。

 きっとアリアは優しく微笑みながら、ぽん、と肩を叩いてくれるだろう。 そしたら、思いっきり抱きしめよう。

 彼女の事を、二度と放さぬよう。長い、長い時間。体のぬくもりを、重ね合わせるんだ。


「んー、やだ」

「……どう、して……」


 何故だ? 何故殺してくれない。

 手に持ったその凶器を、アリアの命を奪ったその凶器を一振りするだけでいい。ただ、それだけのことなのに。


「今は、いやなの」


 駄々をこねる子供の様な声でそう言うと、一転、


「そうそう、知ってる? 偉大なる哲学者、キェルケゴールは著書『死に至る病』で絶望こそが精神の死だ、って言ってるんだ。何でこんな事言ったのかっていうと、彼は自分の人生が呪われたものだ、って考えたからなんだ」


 貫之は、狂戦士を床に付きたてて、ぺらぺらと話し始めた。


「でもね、そんな彼の人生の中にも、一筋の希望があった。それはレギーネって言う女性の存在さ。彼女は、キェルケゴールが自分の呪われた生の自覚から婚約を破棄した後も、彼を愛していたんだ。さて、ここからが本題」


 ズボンのポケットから一枚の紙を取り出し、幸来の前に置いた。小奇麗な文字で、何かがぎっしりと書いてある。


「イ界を囲うキェルケゴールの函。彼の人生の様に、あの中は絶望に満ちているけど、一つだけ希望があるんだ。どれだけ箱が組み換わっても、ある一定の順番で扉を開けて行けば、哲学の城の最奥に辿り着く事が出来る。あの要塞は、そういう風に出来ているんだよ」

「それが……どうした」

「察しが悪いなー。今あげた紙に書いてあるのは、その順番。僕が言いたい事、分かるよね?」


 話はこれで終わり、とばかりに狂戦士を消し、幸来に背を向け、歩き出した。


「一週間後の午後三時丁度。一分だけ、キェルケゴールの函の入口を開ける。その紙を使って、僕の元においで。その時……殺してあげるから、さ」


 そう言い残して、貫之は忽然と姿を消した。

 まるで、最初からそこに居なかったかのように。

 残されたのは、アリアの亡骸と、力なく膝をつく幸来。

 愛する人を失くし、敵になぶられ、一人氷のような静寂の中に取り残された幸来は、何も考える事が出来ず、動く事も出来ず、ただ静かに、そこにいた。

 

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