観察
【ある観察者の語り 1】
私は観察者。観察とは物語を始めるもの。命を世に送り出すもの。
存在は存在を確認されるまで、その存在は始まらない。存在の始まりは発見。発見は自己を自己たらしめるもの。
誰にも知られず産み落とされた赤子の物語は、産まれた瞬間から始まってすらいない。
産んだ女性が赤子の存在を少しでも観察していたのなら、その赤子ははじまっているのかもしれない。しかし誰もその後を観察していないなら、始まっていないも同じことだ。
終わっているかも始まっているかも観察するまでは分からない。ふふ、まさにシュレディンガーの猫だな。
何? 話が難しい? 大卒のくせに多世界解釈も知らないのか。もっと勉強したまえ。
そうだな、昔話の『竹取物語』や『桃太郎』なんかがいい喩えだ。主人公はそれぞれ竹の中・桃の中にいて、観察されることがなければ物語も存在も始まらない。始まらなければ終わりもしない。いるかいないかも分からないが、発見されなければいるもいないも同じこと。
そしてその竹や桃は、今もどこかで生まれ朽ちている。
ある小説家がこう書いていた。「広い海のどこかで、誰にも知られず振る雨」。誰もいないだだっ広い海に、今も雨は降っているかもしれないし、降っていないかもしれない。観察するまでは分からないし、観察した瞬間にその性質は変わってしまう。観察とは対象に影響を与え、他の可能性を削ぎ落とし対象の存在を確定させることだからね。
長くなったけれど、要するに私が言いたいのはこういうことだ。
いいか、人を人として存在させるのに必要なのは、人による「観察」だ。
【12月16日(火) 1】
JR東口から下水のような匂いがする靖国通りをつっきった先。歌舞伎町のコマ劇跡を過ぎ、新宿ミラノを左手にバッティングセンターの更に奥。顔の綺麗な男たちがいるお店を過ぎた先に、僕の仕事場はあった。僕はここ三ヶ月、この経営形態が非常に不明瞭なバーでバイトしていた。
大学三年次から周りにつられてなんとなく就活を始めた。四年次には同期のほとんどが就職先を決めていたのに、僕にはどこの内定も出なかった。四年の最後に半ばお情けでもらえた内定は、僕の方から蹴った。僕はこんな底辺にいるべき人間ではない、こんな会社に売る自由はないと、その時は本気で思っていた。
地元の人間にも首を傾げられるような無名大学を出て、何の資格も取らず、特筆できるような努力もしなかった僕にとっては、そのレベルの会社がお似合いだったというだけの話だったのに。
自然と疎遠になった母校の友人の中に、僕にこの仕事場を紹介してくれた奴がいた。大して上手くもない楽器を弾いて、酒を飲む理由を探していただけのつまらない集まりだった音楽サークルの先輩。先輩が紹介してくれたこのバーは、都内の歓楽街の飲み屋の中でもとりわけ時給がよかった。たまに来る怪しげな外国人客の会話を無視して聞き流してさえ居れば、とりあえずトラブルには無縁だった。
そんな僕がこんな真夜中に、仕事場とは正反対の西新宿に居るのは理由があった。
いつも僕を犬のように使い走らせるオーナーが朝一番に寄越した電話で起こされ、伊勢丹に入っているブランドのクリスマス限定バッグの予約をしてくるよう言われた。どうせオーナーが飲み屋の女に貢ぐものだろう。軽く考えていた僕はすっかり寝過ごし、その間に予約は定員を超してしまった。休日のところをわざわざ仕事場に顔を出して謝った僕を、オーナーは客前で口汚く罵った。
そもそも僕は今日勤務日ではないし、僕の仕事内容はオーナーの個人的な使い走りをすることではない。無能な白い豚を目の前に、いつもなら聞き流せるオーナーの暴言を、今日の僕は我慢することが出来なかった。
中卒の成り上がりはどうしてこう己の学歴の低さを逆に鼻にかけてくるのだろう。大して成り上がってもいないくせに。そしてなぜ人の学歴を馬鹿にしないと気がすまないのだろう。どうせ悔しいんだろう。
そんなようなことを七割増し荒い口調で怒鳴り、悪意五十パーセント恨み四十パーセントその他の成分十パーセントで奴の顔面を殴って、逃げた。
恐らく今月の給料はパァ。
面倒なこと全てがどうでもよくなって、コンビニの割高な酒を買ってサブナードの人気の無い隅に座り込んた。酒を分けてやると、饒舌なホームレスが自分の栄光の時代の話と最近の歌舞伎町裏社会の話をし始めた。ホームレスの口から漏れたある中国人の名前を僕は聞いたことがあった。もうそいつはこの世に居ないらしい。「不夜城」のファンだった僕は、そういう危ない夜の世界の話を聞くことが大好きだった。噂半分以上事実半分以下のような話を聞いているとあっという間に時間が経ち、警備員に追い出された。
そのまま行くあてのない僕はふらりと新宿超高層ビル街へ。一瞬で酔いが醒めるような冷気に体を包まれ、僕は西新宿にいた。
【ある観察者の語り 2】
私は観察者。人は二度死ぬように、二度生まれる。
ところで、今の私の話を聞いてこうは思わない?
“死んだあとにその存在を確認されたものはどうなるのか”
……そうアホみたいな顔をするな、知性のなさが露呈するぞ。
よく人は二度死ぬといわれる。一つは肉体の死、もう一つは人に忘れ去られることによる社会的な死。
同じように、人は二度生まれる。
一度目はこの世に生を受ける命の生まれ、二度目は観察されることによる存在の開始。
始まることなく終わりもしなかった存在を、そこから観察するとどうなるか。可能性に影響を与えることで、箱の中身を確定させたらどうなるか。
死んだ命は生きることを始め、活動するようになる。
そいつは幽霊でも幽体離脱でもなんでもない。的確かどうかはわからないけど、表現するとしたら“生きている死者(The living dead)”かな。見てくれは人間と全く変わらない。
本来、観察者は『生まれた命』を世に送り出すもの。しかしこの事実に気づいた観察者の一派は『死んだ命』を世に送り出そうとした。
「生きている死者」で世の征服を試みる一派・コンキスタドレス(Los conquistadores)。いや、英語で言ってコンクエスターズ(The Conquesters)か。ロマンス諸語は単語が似ていてかなわん。笑ってくれるなよ。
何、意味が分からない? まったく仕方がない奴だな、もっと世界を見てこい。
話を戻す。コンクエスターズに対しセイバーズ(The savers)という派閥がある。「生きている死者」をこの世から送り返し、“この世の平穏”という名の“自分の平穏”を守ろうとする一派だ。
私は一応、今のところはセイバーズに属している。
いや、私には大好きな駄菓子があってな。それに目が無いんだよ。その為になら世界を守りたいと思えるね。まあ、もしそれが製造中止になったりしたら、コンクエスターズ側にスカウトされてもいいと割りと本気で思っているよ。それもそれで面白そうだし。
無責任? 責任ねぇ。別に誰かに讃えてもらえるわけでもないし、大金がもらえるわけでもないし、どうして私が頑張らなくちゃならないのかな。皆が皆、漫画の主人公みたいな正義感があると思うなよ。
観察者は基本的に皆頭がいい。しかし多くは注目されるのが面倒で、それを隠している。今の学者連中なんて大したことない。殺気を消せない殺し屋が二流であることと同じさ。
ただ観察者は、自分さえよければいいと思うふしがある。なぜ世の中のために自分が能力を使わなければならないのかと。
観察者がこんなたちだから、「生きている死者」なんてものが生み出されるんだろうな。どちらのサイドに立っていようと、これは我々の道楽に過ぎないのだから。
【12月16日(火) 2】
どこかの大学だか専門学校だかのセンスのないニュータワーを横目に、新宿中央公園方面に足を進めた。
天を仰いでも星はおろか、夜空らしい夜空は見えない。どこかの詩人の妻を気取るわけではないが、空がない。建物を見上げると冗談抜きで眩暈がする。バベルの塔へ下されるという神の裁きがもしここになされるとしたら、きっと言語はいくつあっても足りない。
ハイアットリージェンシーは都庁に見下ろされているようで威圧感を感じる。酒で甘く麻痺した思考に、あのむかつくブタの言葉が浮かび上がってきてしまう。
寂寥とした冬の夜にそびえる、全てに見捨てられたような広壮なビル群。ホテル以外の建物の入り口はほとんど死んでいた。加えてこの寒さ、動く人影はほとんど見かけなかった。不景気と規制緩和のおかげで動かない無数のタクシーは、都会のイルミネーションを形成する一つになっていた。
パークハイアットを更に初台方面へ向かうと、オペラシティへたどり着いた。カップルたちが囲むためのクリスマスの明かりはとっくに消えていたが、足を踏み入れたサンクンガーデンはツリーに貫かれたままだった。ただ暗いだけの巨大なツリーは不気味で、地下より生え出てきた新種の生命体のように見えた。
僕の靴音のみがわずかに響く、時間がとまったような空間。自分しかいないこのフロア。闇に落ちた非日常。
しばらく物珍しさからそこかしこを眺め歩き回ったあと、閉店したエクセルシオールのガラス張りの壁に背をもたれた。
足を止めると寒さが襲ってきて、酒がすっかり抜けてしまっていることを理解した。
これから面倒な就活をまた始めなければならない事実や、人を殴った僕に何かしらの処罰は与えられるのかという無知から来る不安。僕はそれらと向き合いたくなかった。
学生時代にHANJIROで買ったよれたジャンパーに手を突っ込むと、クシャリと握り潰したタバコの箱に一本の手応えがあった。
最後の一本をありがたく味わおうとそれを口にくわえ、尻ポケットからライターを取り出そうとしたとき。僕はようやく、ここにいる人間が僕だけではないことに気がついた。ポロリと、口からタバコが落ちていく。
通路を挟んでちょうど反対側に立つ、漆黒のロングコートをまとった姿勢の悪い不気味な大男。中折れ帽を目深にかぶり、人間らしい身動き一つすることなく、ポケットに手を深く突っ込んでこちらを見ている。この気味の悪い視線に何故今まで気づかなかったのか不思議なくらいだった。
僕は一目見て、そいつがやばい奴であると分かった。
【ある観察者の語り 3】
私は観察者。気がついたら生きていたから、私は自分の正確な年齢を知らない。
だからタバコも酒も、始める年は自分で決めた。
隠してるんじゃない、本当に知らないんだ。君だって生まれた瞬間の記憶なんてないだろう? だとしたらそれは、君の周りの人間が「今は何歳」と君に教え、写真という思い出を作り、彼らにとっての望ましい年齢を君につけているだけだ。だから君だって本当はいくつかなんて分からないぞ。
屁理屈だと? “君は本当に、自分の固定観念の中でしか物事を考えられないんだなぁ”。
まあ、私の年齢然り、観察者は時に恐ろしいほど物事に無頓着なことがある。調べれば分かることや正確でなくても問題がないことなんて、特に知りたいとは思わない。私も自分の年齢は見た目に合わせて都度適当に言っている。
そうそう。私の指す年齢というのは肉体と命が母体から産み出された年齢のことで、存在が開始した年齢とは大きなタイムラグがある。これも普通の人間と顕著に異なる点の一つだな。
面白いことを教えてやろう。
「自分を自分で観察した存在こそが、観察者たりえる」。
私の存在・物語は、私が私を観察したからはじまっている。
自己が自己たりえるためには他者が不可欠だと、今の日本の哲学者でもそう言っている奴がいた。観察者はその法則をぶっちぎって、たった一人で自己を成立させている存在だ。己の世界において主体と客体の両者をこなし、一人で完結する。
一応言っておくが、主観が束になっても客観になることはない。多くの人間はそれを勘違いしているし、己の主観の中にまるで客観があるように語る。
主体は捉えるもの、客体は捉えられるもの。全くの異質であり相容れることのない両者を、観察者はDSMに引っかかることの無い正常な一つの精神で両立させている。それはコーヒーに渦を巻いて溶けていくミルク。
自分で自分を発見することは普通の人間にとってそう簡単なことじゃない。既存の思考にコペルニクス的転回が必要だ、“特に君のような固い頭の子にはね”。
喩えてあげよう。鏡に映る自分を想像して。君と鏡の中の君は見つめ合っている。そして君は部屋から出る。ガチャリ。鏡を観察していない時、鏡にうつる自分を観察する。これが自己を観察するということだ。
【12月16日(火) 3】
ヤバい。さっき一緒に飲んだような、犯罪にほんの少し絡んだくらいの奴なんかとは全く違う。目の前の男には次元の違う危殆さがあった。
男は僕から視線を逸らさない。刹那とも永遠とも取れる時間、僕は立ちすくんでいた。逃げようと走り出したら、背中から切り裂かれそうだった。
僕は武道をたしなんだことはないが、男には人間らしい隙というものがなかった。いつかゲームセンターでプレイした、荒廃した都市を銃一つで切り抜けるアーケードゲームを思い出す。
思い出したかのように警鐘を鳴らす鼓動がうるさい。さっきまで感じていた寒さも心の渇きも全て手放した僕は、全神経を男に向けさせられていた。
男が一歩、僕に近づく。革靴独特の靴音が響いた。
男は薄く唇を開いた。
「……生きているな」
抑揚の無い、男の低い声。
どう考えても、自分がどうにかされてしまう想像しか出来なかった。僕は強がるように、男に答える。
「い、一応……」
どもった台詞の言葉尻が、頼りなく消える。
僕の返事を聞いて、顔はよく見えずとも男がニヤリと不気味に笑むのが分かった。
「いいねぇ、そのうぶで若々しい感じ。興奮するよ」
妙に芝居じみたその話し方は、完全に僕を馬鹿にしたものであることが分かった。しかし今の僕に何を言うことが出来よう。
クツクツと低く笑う男の存在感に完全に気圧されていた僕の後ろから、ハイヒールの奏でる挑戦的な靴音がした。
「その子から離れな。無関係のはずだ」
僕は反射的に声のする方向を振り返った。
長いワンレンを邪魔そうに後ろにやった細身の女性が、腰に手をあてがって立っている。男を睨む鋭い目つき。通った鼻筋にかかる、知的な雰囲気を醸し出すノンフレームの眼鏡。すらりと伸びた手足を包むタイトな衣類の上から、女性らしさを打ち消すように皮のライダースジャケットをワイルドに羽織っている。
面倒臭そうな態度や台詞とは裏腹に、彼女の切れ長の双眸の奥には特別な思いが宿っているように見えた。
僕とはちらりとも視線を合わせず、男を見据えていた。
「お出ましか、『観察者』」
男は薄く笑いながら皮肉を滲ませて言う。彼女がここにくることを分かっていたかのような口ぶりだった。
馴れ合う気は毛頭ないとばかりに、女は言葉を返さず駆け出した。ジャケットのポケットから素早く取り出したバタフライナイフの鞘を片手で開き、刃をむき出す。
振りかざされた鈍い光を、男は見た目にそぐわぬ軽快さでふわりと避けた。
僕が見ているのはほとんど結果のみ、経過はとても目視できない。
男が呟く。
「気の強い女だ」
女は大振りの動きから、舞うような小回りの利いた動きに変わる。男はそれをまた素早く避けていたが、終始彼女が攻めていることに変わりはなかった。
「面倒を増やすな、『生きている死者』」
温度を持たない女の言葉に、男は一瞬気味の悪い笑みを消した。彼女が声を発した一瞬の隙を突き、彼女をタックルで押し倒す。彼女の眼鏡が派手に飛ばされ、弧を描いて地面に落ちる。そして失神した彼女の胸倉を男がつかみ上げるまで、僕は一度もまばたきをしなかったと思う。
男は女の手から落ちたバタフライナイフを蹴り飛ばし、自身のポケットから同じような折り畳みナイフを取り出した。
「終わりだ」
女に刃物が振り下ろされそうになった時、僕は裏返る声を上げた。
「そっ、その人を、殺すのか……?」
乾いた口と震える舌が、うまく言葉を紡ぎ出せない。
強気な台詞とは裏腹にこの時の僕は全くもって無様で、腰を抜かして尻餅をついていた。そうでなければ二人が戦っているうちに、無責任ながら全力で逃げていただろう。刃物でやりあう気の違った連中に巻き込まれて、一般人の僕が無事で済むわけがない。
だからこの言葉も、彼女を守ろうとして発したわけではなかった。勿論、仮にも僕を守ってくれようとした彼女がやられるのは嫌だという思いはあったし、何より人が血を流す様を見る勇気がなかった。しかしそれより一番に思っていたことは、“彼女がやられた後は、僕が口封じのために殺される”ということだった。時間稼ぎにもならないような震える言葉でも、投げないよりはましだった。
「ひと、ごろし……!」
日常生活でほとんど口にしたことのない慣れない言葉でなじる僕を、男はおかしそうに笑った。
「ククッ。人殺しか……だとしたらこれは、一体何人目の殺しになるのか」
僕を振り返った男の目は完全に狂気に染まっていた。まともな人間の目じゃない。
僕が恐怖に任せて搾り出した情けない悲鳴を上げたとき、女がカッと目を開いた。
【ある観察者の語り 4】
私は観察者。真を示す理は、言葉の檻には閉じ込められない。
自分で自分を観察することについての説明を聞いてどう思う? 君は自分が真理に近付けたような気になっていないか?
答えはNon、逆に遠のいている。仏教における悟りと同じで、言語化して捉えようとするほどに目覚めは遠くなる。理解しようとすればするほど理解できない。こういうものは理解や分析の対象ではないんだ。そのパラダイムで考え続けていると、とらえるものでとらえるものをとらえるという無限遡行に陥る。
時に観察者でも、こういった初歩的ななことを忘れる奴がいる。
自分で自分を観察することの難しさに気づき、あることを恐れるようになる。それは「自分の存在を始めたのは自分自身、では自分の存在を終わらせるのは何なのだろう」ということ。肉体と命の潰えた自分が自分を観察する手段を思いつけず、死ねないことが怖いから、死ぬことが怖くなる。そのパラドックスは人を殺す。死の逆説に囚われること、それは生きながらにして死ぬこと。「生きている死者」と同じだ。
分かってる誰かが教えてやればいいって? 君は馬鹿か。さっきの言葉をもう忘れたのか? こういうのは、誰かに教えられるものじゃない。口を経れば、相手が更に答えから遠ざかるだけだ。説明しようとすればするほどに、相手は理解しようとしてしまう。これは道楽者の観察者が、一生をかけて取り組むべきテーマなんだよ。
さて、私はそろそろ次の現場に向かわねばならない。君もこれからは夜道に気をつけなさい。この私にだって危機一髪の時はあるし、むしろそればかりだ。ある作家が「魂の暗闇」と呼んだその時間は、人の心が最も死に近づく。
【12月16日(火) 4】
僕に意識がいって男に生じた僅かな油断を、彼女は前から狙っていたのだろうか。そう思わせるほどの目にも留まらぬ速さで、女は反撃に打って出た。顎を蹴り上げ男がよろけた隙に、女は自分のバタフライナイフを拾い上げる。
体勢を立て直した男が女を振り返った時、もう既に彼女はナイフを高く構えていた。女は冷たく言い捨て、刃を振り下ろす。
「眠れ。お前の終わりを終わらせてやる」
とらえた、素人の僕でさえ勝利を確信した瞬間のことだった。
「終わるのはそちらだ、『生きている死者』よ」
男はあろうことか彼女の刃を右掌に受けた。刃はそのまま男の手を貫き、鮮血を垂らす。
女はそれを抜き戻すことをしなかった。正確に言えば出来なかった。
男の言葉を聞いた女は、今までの自信に溢れた態度が嘘だったかのように恐怖に顔を染め、唇をわなわなと震わせていた。
「黙れ、お前こそが『生きている死者』……我々セイバーズがお前たちを終わらせてやるのだ……私は観察者、お前は哀れな『生きている死者』……」
「コンクエスターズの口車にに乗せられたのか。悲しいな。私が認めてもいいと思えるくらいに、君はいい観察者だったのに。己が終わる方法に行き着けないことに絶望し、死の逆説に囚われてしまったか。そんな君の姿を、私は見たくなかった」
がくがく震える女に優しい眼差しを向けると、そのまま彼女を抱きしめるようにして、男は彼女の腹にナイフを衝いた。
「もう、終わらないことは終わりだ。もっと世界を見てこい」
断末魔など上がらない。くぐもった呻きと共に、彼女はずるずると崩れ落ちた。
しばらくヒューヒューと空気の抜けるような荒い呼吸が繰り返された後、彼女は苦しそうに目を見開いたまま動かなくなった。
「悩みに悩み、生きながらにして死んだ観察者よ。潰えた君の命を終わらせる前に、私の答えを教えてやろう。それは『終わらなければいい』、ただそれだけのことだよ」
訳の分からないことを口にする男から未だに僕が逃げられなかったのは、男の口調が余りに優しく、よく見えないその顔が妙に悲しげだったからかもしれない。右手の指先を伝う血液が、頬の乾いた男の流す涙のようだった。
時刻は真夜中三時。
「君。これ、食べるか?」
女のまぶたを下ろした男は、先ほどまでの殺気はどこへやらと言い飾れるほど、別人のように軽い態度で、腰を抜かして座り込んでいる僕に話しかけてきた。
男が僕に差し出したのは、独特なヨーグルト味のするカップ型の駄菓子。何味と言われたらヨーグルトとしか言いようがないが、ヨーグルトがこの味だと言ったらヨーグルトに対して失礼に当たりそうな、ケミカルな味がする。子供の頃に駄菓子屋で見たことがある、10円くらいのチープなお菓子だ。今時の子供はこんなものを食べても喜ばないであろう安くて小さなその駄菓子を、男はどうやらポケットに大量に忍ばせているようだった。
「い、いらない」
当然僕は断る。
男は先程女を刺し殺したその手を、残念そうにポケットに戻した。
「うまいのに。私は金が出来たらこの製造会社を買い取りたいと思っているんだよ」
女の死体が横に転がる中、冗談を言うようでもなく真顔でそう言う男。
僕は眉をひそめて、男に尋ねた。
「お前は一体、何だ?」
雲間から差す月明かりが描く、数本の光の帯。それを背にした男は、僕を見下ろすようにしてその正体を名乗った。
「私は観察者。生まれた命を生まれさせ、死んだ命を死なす者」