Lunatic Legacy
「――こいつは、ケジメってものだ。解るだろう? ……おい、もう一度、いいか、聞け、お前がもう一度言ってほしそうな顔をしてボケっとつっ立てるから、親切にもう一度言ってやるんだからねっ」
「えっと……」
うん、わからん。男の言った事が、この小さな頭には入ってこなかった。聞こえてはいたのだが、耳を通り抜けていくような、ようするにちゃんと聞いてなかったのである。この話で肝心なところは、けじめと言うのはつまり、確か。……つまり、なんだったっけ。そんな事を考えてボーっとしていたら、もう一度言ってくれると言うので、それならば聞こうと、少女は男に向き直った。今度ははっきりと目が開いて、口も閉じている、ボケっとはしていない。
「いいか、ユーリの指を一本、どれでもいいから好きなの選んでここへ持って来い」
極めて、事務的な、冷徹と言い変えてもいい、そして静かに男は言った。煙草の灰を灰皿に落としながら。ユーリの指を一本持って来い。確かに、さっきもそう言っていた気がする。これはどういう事か。だから、けじめなのだ、そう言う事らしい。
「――わかったよ、頭。取ってくる。……ぼけっとしてごめんなさい」
言われたことを理解するのに数瞬費やしてしまったが、要件は単純、簡単、明確だった。今はちょっとボケっとしてたせいで――少女にカシラと呼ばれた男――彼にわざわざ言い直させてしまったことも、次いでに詫びておこうと、素直に思ったので少女は一言ごめんなさいを加えた。
「ふん。なに、謝る必要はない、お前に頼むのが一番いいと思ったそれだけの事だ、やり方はどうだってい、お前の好きなようにやってこい。解ったら、さっさと行け」
再び煙草を咥え直し、男は背を向けたまま、腕を挙げてひらひら手を振った。まるで近寄って来た犬でも追い払うように。しかし、これが彼なりのお見送りであるという事は、長い付き合いの少女には解っていた。
「行ってきます」
少女はそう言って部屋を出て行ったが、それに男が返事を返す事はしなかった。
◆◇◆◇◆◇◆
何事も、素早く、的確に。これが肝心。与えられた仕事は、着実に。確実って事は、恐らくないので、着実に。
何より、時間は大切、時は金なり、タイムイズマネー。最も合理的かつシンプルで解りやすいポリシーである。少女が頼まれた仕事は、同様にシンプルなものだった。へまをした同僚――ユーリの指を持って来いという、簡単なお仕事である。
何を隠そう、この少女は、この裏の世界では多少の悪名を轟かすという類の、有り体に言えば殺し屋である。普段はもっと汚い仕事を平気でやるタイプだ。何事にも頓着しない、のらりくらりとしたその日暮らしのタイプである。
こんな裏社会にいながら、仁義と言う風習にも、あまり関心が無い。
ただ、それに忠実であれば自身の立場は盤石であると言う事は解っているので、従うべきであるならば、それに従うまでである。状況は刻一刻と変化していくはずだ。ならば、早い方がいい。単純だった。そして冷徹である。
「えーと、しくじっちゃったユーリの指を一本、好きなので良いから持ってくればいい。うん、それだけの仕事だ、すぐ済むね。あ、文字通りじゃん手っ取り早くって。こういう事を言うんじゃないかなと思うよ、ちょっとおもしろいかも、あはははは、はぁ~」
少女の名前はカレンと言う。本名かどうかは解らないが、その名前の通り可憐な少女であることには間違いはないその点天使にも見紛うほどとの形容も全く大袈裟ではないだからこそ、この見た目に騙されて地獄へ送られた悪人は数知れない辺り現実は甘くないむしろ地獄からの使者、紛れなく悪魔の所業である。と、一息で語らざるを得ない辺りも悪名が悪名たる由縁で、名の知れた殺し屋とは言うが、その実は暗殺者で、組織幹部である先ほどの男――ゴーストヘッドの子飼いの部下であるため、その姿を実際に知る者は少ない。噂ばかりが独り歩きしているのだ。絶世の美女などとも言われているが、まさかこんな少女だとは、よもや誰も思うまい。
そして、彼らの名前が横文字なのに対して、言うシャレは日本語という点には、どうか眼をつぶっていただきたいところである。翻訳の際に手間取るようなら、その翻訳家は首にして良いと思う。例えば映画の字幕翻訳も、韻を踏んだ洒落を正しく訳せていない場合など実は珍しくない。もちろん普通に映画を楽しむだけなら瑣末な問題である。
その場合、翻訳者に罪はない。与えられた仕事をこなしただけである。この、カレンと同じ様に。
「――変なの。本当だったら、首がほしいって言う所じゃないのかな、だって、へまをして損をしたのはゴーストヘッドだもの。責任を部下に取らせるなら、首でも捧げてもらうのが当たり前だと思うんだけど。でも、これもいつもの、仁義……というやつなんだろうな。よく解らないけど、情けをかけて、という感じ。指だけにしてくれるなんて、とても優しい処遇だと思ってほしいはずだよね、きっと」
そうして、剣呑な独り言をつぶやきながら、宵闇の町を、カレンは独り彷徨い歩く。涼やかな風が、カレンの長い栗色の髪を巻きあげては、ゆっくり過ぎてゆく。目的地は、ユーリの自宅である。
のそり、のそり。
「どの指でも、いいんだよね。でも、やっぱり取ってくるって言うなら手の小指が一番、しっくり来ると思うんだよね、私」
玄関扉の前でも、ぶつぶつ、小声でそんな事を言っている。あまり正気とは思えないが、これでも純粋無垢であり、そして素直なだけである。そして命令には忠実だ。
「左手の薬指もおしゃれだよね? あなたはどう思う?」
戸を開けて出てきたのは、ユーリの母親である。まだ若い。もちろんそんな事を、カレンは気にも留めないのであるが。
「いきなり、何の話でしょう」
さもありなん、聞かれた方は何の事だかさっぱり分からない。
「こんばんわぁ、ユーリくんのおトモダチで、カレンって言います、今。遊びに来ました。彼に会えますかぁ?」
何の用でこんな時間に訪ねたのか、理由をまず話すのが筋だろうが、そんな道理は通用しない無法者の少女である。
猫なで声で、その身なりではまるでコールガールのようでもあったが、しかし、母親は物怖じすることなく、明瞭に言葉を返した。
「――ユーリは、今は部屋に籠って、出てこないんです」
この世界で仕事でへまをしてしまった時点で、どうなるかなど解りきっている。そう言う事なのだろう。ユーリは自室に籠って出てこないという選択をするしかなかったようだ。しかし、そうは問屋がおろさない世界である。こうして、差し向けられてきたのはよりにも寄ってカレンであった。逃げ道などどこにもない。しかし、彼女に下された、命令は――
「ユーリくんは色々な人に迷惑を掛けちゃったんです、それで顔を見せるのが恥ずかしいからって、お部屋に籠ってたら、子供とおんなじ。――そう言う事は、賢いユーリくんがやったらおかしいと思う。だからお母さん、私たちだけの話をしなきゃいけないから、静かにしていてね」
――カレンが母親に言った、おトモダチ、これが何を意味しているかなど、母親にだって解りきっていた。
ユーリとは二人きりの家族である。どんな仕事をしてどんな連中と付き合っているのか、皆解っているのである。私たちだけのお話、という事の内容も。ユーリの部屋は二階です、そう言うと静かに、カレンが家に上がるより早く奥へと去って行ってしまった。これから何が起ころうと覚悟はしている、そんな背中だったが、もちろん気にも留めずカレンは足早に、実に楽しそうな足音を暗闇に響かせ軽やかに階段を駆け上がって行った。
二階に上がってすぐ、見つけたユーリの部屋の前に立ってみる。なぜそこがユーリの部屋であると解ったのか、カレンはドアにかかっているドアプレートを眺めながら、そこへ書かれている文字をゆっくり読んだ。
「――ゆ・う・り・の・お・へ・や。……お前、こどもかよ」
そうして、くすりと笑みを零すと、ドアを軽くノックした。
案の定、ユーリからの返事はなかったが、そこに彼がいるのは解っていたので、えいやっとドアを蹴破って、あっという間にカレンはその室内へ失礼した。部屋の真ん中で、……そこにユーリはいた。ただ静かに座していた。自室のドアが突然真っ二つに割れて崩れ落ちた事にも、驚いた様子はない。
「とりあえず用件だけ言うんだけど、右か左、どっちがいい?」
カレンは自分の掌をパタパタと振りながら、眼の前のユーリに質問を投げかけた。しかし、それを聞いてもユーリは動かなかった。
なるほど、こんな具合だったから、さっきゴーストヘッドは私に同じ事を二回言ったんだ、返事がなきゃあ聞いてたのか解らないもんね。そう思ったカレンは、続けて言った。しかし、もう一度同じ事は言わなかった。
「利き手はどっちだったかな、お箸持つ手だよ」
何気なく質問したに過ぎない。特に意図はなかった。しかしそれを聞いて、ユーリはおぼつかない様子で右手を挙げて示して見せた。何が何だかわからないのである。
しかし、カレンも面倒なのは嫌いなのである。先に、どっちの手がいいかなどと聞いておいて、返事がないから利き手を出せと言うのは如何にも無法者臭くていやになるが、そう言う屁理屈は通らない。
早合点と言うには余りに、早過ぎた。
「――何驚いた顔してるのかな、だってどっちがいいか聞いてるのに、利き手を挙げちゃうユーリが、お茶目さんなんだよ、あたしは悪くないもん」
ユーリが、言われたとおりに利き手を挙げた瞬間の出来事だった。さきほどは、何でそんな事を聞くんだ、と言う意図での沈黙であったが、続いて聞かれたのは利き手がどちらか、それだけだったので、いきなりこう来るとは思ってもみなかった。
いや、それはどうだろう。カレンの事はよく知っている。仕事で組んだのは一度や二度じゃない、長い付き合いだからだ。しかし、そんな付き合いも思わせない、微塵の容赦もない行動。
命令に忠実に動くというのは、こういう事だ。
或いは、――この少女はこれぐらいの事はやってくれると言う事はユーリ自身が知らない筈はないので――或いは。
「――んぇ、なにおろろいははお、ひへうぉはあ。……んむ、簡単だよ、今ね、このペンチでね、ユーリの右手の小指を切ってあげたの、骨が堅いから手首にスナップ利かせて、ぎっちょん♪って」
そんな事を言って、くすくすと笑顔を見せるカレンは、間違いなく狂気である。
ペンチで挟まれ骨を断った際の衝撃で、千切れ飛び中空へ投げだされたその小指を、カレンは放り投げたピーナッツをそうするかのように、口でキャッチして言った。
獲物は、ペンチである。日曜大工が使うような、便利なペンチである。プラモデルを作成するときに使うニッパーよりは一回り大きく、コードの被覆を剥がしたり、針金を曲げやすくしたり、釘を抜いたり、とっても便利でお得な、ホームセンターで誰でも買える普通のペンチである。良識があったら、これは人間の指を切断するために使用するものではない事など、一目でわかるはずだが、この少女にはこういう刃物は全部凶器にしか映らない。至極単純どこでも買える、その点もシンプルだ。
「ぎっちょん♪ ぎっちょん♪ ふんふんふ~ん♪」
おいおい、すっかりご機嫌じゃないか。
――何驚いた顔、してるのかな。
そりゃそうだ、ユーリは思った、そりゃそうだ。こいつはこういうやつだ。そう思うとこっちも、うすら笑いすら零れるような気がしてくる。しかし実際そうはならなかった。
「ほえね、なんかおいひほーに見えたから、つい口に入れひゃった、んちゅ、なんらろー、なんか甘い味がするような気が、ふるんらろえー」
そう言って笑うカレンは、キャンデーでも舐めている年相応の少女に見えるが、しゃぶっているのはがちぎれた指では、情緒の欠片もない。その小指を噛み千切ったのは、カレンがスカートのポケットに忍ばせていた便利なペンチであった。
ユーリも一目見て思った、こんなものは、指を切るための道具では当然ない、と。まさかこのために持ってきたわけではないだろうが、いつもの得物は無骨なサバイバルナイフなのだ。考えたってしょうがない、それに、甘い訳はない、俺の指だぞ。
無理やりに挟み砕かれ捩じ切られたユーリの傷口は、見るも無残な有様となっている。
へらへらと笑うカレンを眺めながら、ユーリは出血を減らすために右手を抑え、心臓より高く胸のあたりに抱えた。
それはさながら何かの祈りのような格好にも見えるが、痛みは、相当のモノだ。そこにあるはずのものが今の一瞬で無くなってしまった、あるべき感覚がごそっと抜け落ちたかのような、今カレンの口の中で転がされているモノが、今どうなろうと、ユーリはそれを感じる事は出来ない。
ただ、それを失った傷口が物語るのは、指が無くなったという事実だけである。
――これくらいの事、そう思ってはみても、痛みは痛みだ、段々と吐き気までこみあげてくる。しかし、ユーリは堪えている。
――カレンの笑みを見ていたら、自分も笑みの一つや二つ零れるものだと、一緒に組んで仕事をした時からいつもずっと、今もユーリは思っていたが、しかし今のところ真っ先に零れそうなのは涙である。額には脂汗がにじんでいるが、滴り落ちるようなものではない。小刻みに体が震える。そうしないと声が出てしまう。情けない声が。
もう彼自身いい歳の男であるが、この痛みには逆らえない。彼の精神力がそれに耐えても、いくら声を押し殺そうとも、涙は重力には抗えない。
……覚悟はしていた。
仕事でへまをやらかして、部屋に籠っていたりしたら、いずれどういう事になるか。
むしろ、遅過ぎたくらいだ、それでカレンを見て少し気が抜けたのである。ここへやって来たのがこいつで良かったのか、否か、そう考えて利き手を差し上げてしまった。
違う。
最初から、利き手の一つや二つ、そんなものではない、命をすら、失う覚悟をしていた。覚悟はしていたが、のこのことゴーストヘッドの前に、死にに出るのは、恐ろしかった。はっきりと彼自身の口から、腹を切れと言われるのが、恐ろしかった。だから、部屋で待っていたのである。静かに、誰かに殺されるその時を。
そして、カレンが来たのである。
よりにもよってカレンが。
だがそれで、この状況は何だ。むしろ、なぜ指だけで済んでいるのか、現在ユーリの思考は、そこに向かっていた。
苦痛激痛に耐えながら、なぜ俺は――大事な場面で失敗をしてしまったというのに――この程度で済まされると言うのか、カレンの姿を見た時点で、自分の命が終わったのを一度、確かに悟ったのである。
しかし、彼女によくわからない質問をされた。呆気にとられたのも無理からぬことである、そして次の瞬間、便利なペンチによって利き手の小指がすっ飛んだ。
しかし、今起きたことはそれだけの事、なのである。
ユーリにしてみれば、あえて言うならば、たったこれだけの事。痛みは痛みだが、死んでたって不思議じゃない、ユーリは疑問に思っていたが、その問いを口にする余裕までは今の彼にはない。
――それを見ているカレンもまた、奇妙な感情を抱いている自分に気付き始めていた。
「ねえ、ユーリ。そうして黙ってるけど。もしかしてさ、……覚悟はしてたって、そう言う感じなのかな」
ユーリは答えない。その沈黙が肯定を意味するだろう事も、カレンは察することなく続ける。
「……それなのに、実際は部屋に籠ってたってのがちょっと残念な所が、いかにもヘタレさんなユーリらしいっちゃ、らしいんだけど」
その通りだ、ヘタレだよ。カレンにそう言われて、やっとユーリの口辺に微笑が浮かんだ。全く持って情けない。自分が嫌になる。
「ねえ、ユーリ。そうやって、悲鳴も上げずに苦痛に耐えてる表情、――なんだか、すごくカワイイね。――あれ、何言ってんだろう、私」
本当に何を言っているのか。
カレンは別段、快楽殺人者ではない。人を殺すにあたって、考える事は《何もない》ようなタイプである。殺したいから殺すのでもない。殺せと言われたから殺すだけなのである。命令に従うという最低限の理性でもって殺すのである。その無慈悲なる所作は子供が虫を殺すのと変わらない。
しかし、指を落とされた苦痛に、涙を堪え耐えるユーリの表情を見て、普段と違う感覚を覚えている所である。これまで、こうした苦痛を伴う拷問を行った経験だって過去幾度となくあるが、別段楽しいものではない。どうせ殺すならさっさと殺して、家に帰ってお風呂入ってご飯食べて寝たい。中には敢えて拷問をされることで、陽動――時間稼ぎを行うという見上げた殉教者もいたりするので、そういうやつの相手を任された時には、有りもしない情報を吐かせるために拷問を強いられてしまう格好になる。そう言う事もある。だから拷問なんて面倒臭い。相手をする身にもなってほしい、決して面白いものではないのである。カレンにとっては、だが。
しかし、眼の前のユーリに、そんなカレンが特別な感情を抱き始めている。命令は済んでいる。指を貰った以上、ここにはもう、何の用もないはずなのに。
こうして、他人の指を咥えながら突然変な事を言い放ったカレンを、ユーリは思わず見上げてしまったが、その拍子についに大粒の涙が頬を伝って落ち、床へと吸い込まれていった。あんぐりと口を開けている。
――ユーリの、泣き顔。
――なんだろう、これ、大粒をこどもみたいにポロって、男の子の普段見せないこういう表情に、なんかグラッときちゃう。そういう感じ、て事なのかな。
――だって。
――だってドキドキしてるもんね、私。
「ねえ、ユーリ。指、もらうだけじゃかわいそうだから、えへへ、私がいい事、してあげるね」
この場を去る、と言う選択肢ではなく、カレンの結論はこれである。単純であるがゆえに、純粋。悪意と言うものは、彼女にはない。
しかし、相対するこの男には、さっぱり意味がわからない。
ユーリは開いた口がふさがらなかった。涙が零れおちてしまった事を、恥じる間もなく、目の前の少女は、一体何を言い出しているのか、解ってるのか。いや、言ってる事は解る、だが、意味がわからない。なぜそんな事を言い出すのか。
人の指を咥えながら、だぞ。その得体の知れなさと言ったら、恐怖以外の何物でもない。
「だいじょうぶ、こわくないよ」
そう言って、カレンはユーリをベッドへ追い立てた。
そんな無茶な話はない、こわくないわけはないのである。馬鹿か、こいつは。
こうしてみると、パンツ一丁にシャツ姿のユーリは、実におあつらえ向きである――指が失われてさえいなければ。
追い立てられたベッドシーツに、赤いシミが広がっていく。右手の傷から、出血が始まったのである。先ほどまでは抑えつけられていたため、出血はそれほどでもなかったが、ベッドに転がされた事で血流が阻害される事が無くなった。
従わなければ何をされるか解らない、本能的、経験的に直感しているユーリは、痛みを半分忘れかけ、殺される覚悟をしていたことも失念し、この異常な事態に大人しく言われたとおりに動くしかなかった。しかし、一体なぜこんな事を始めようと思ったのか、しかし、それでもまだユーリは声一つあげない。そして、恐ろしげな表情をカレンへ向けた。
「あはは、ねえ、ユーリくん。別にそんな顔、しなくていいんだよ」
舌の上で指をもてあそびながら、ユーリの上へ腰を下ろしたカレンが告げる。
「どういう……つもりだ」
ユーリが、やっと口を開いた。苦虫でも噛み潰したような表情である。実際苦痛に耐えているのだから、仕方ない。そんな顔しなくてもいいんだよと言われたって、どうしようもないのであるが。しかしそれを聞いて、カレンは嬉しそうに答えた。
「だって、私の仕事はもう、終わったんだもの。だから、ね。ここから先は、関係ないんだよ。その傷、テーピングして私の肩に乗せといてあげる。……ほら、こうすれば、そのうち血は止まるからね」
そう言って、カレンはペンチを入れてあったのとは反対のポケットから、取り出したかわいらしいハンカチでユーリの右手を縛り、これだけだとしんぱいだからと、別のポケットから取り出したガムテープで雁字搦めにした。ハンカチの意味がない。そうして、そっと自分の肩に乗せた。ハンカチは血で汚れてしまったが、シーツについたほどのシミにはならなかった。ガムテープで縛られ、出血は食い止められている。
その時、部屋の戸が――真っ二つになって転がっている事に半ば戦慄しているユーリの母親が、改めて部屋の中の状況へと目を向けた。
「いついかなる時でも、お客人に対しては菓子と茶をもって饗す、これが我が家の家訓です」
母親は、毅然として言い放った。
少女に馬乗りにされている半裸の息子を見ても、眉一つ動かさずに、言い放った。
ユーリは動かない。
この家訓は絶対だ。それももちろん知っている。どう見ても異常なこの状況を、異常だとして驚く人物は、この場に誰一人としていなかった。歪んでいるのである、全員が。
「あ、お母さん、大丈夫ですから、お菓子はそこに置いておいてください、後で頂きますから、えへへ」
そう言って、頬を紅く染めながら答えるカレンは、まるで――やはり天使だった。
◆◇◆◇◆◇◆
――ユーリったら、初めてなんですって、どうしよう、泣きながらそんな事を告白しちゃうなんて、どうしようもないくらい可愛い。ああ、しゃんとしてれば、他の連中なんて及びもしないくらい、いい男なのに。まったくもう。情けないんだから、かわいい、かわいい、かわいい。かわいいよ。
カレンは、今までずっと、生まれてからずっと、そう言う仕事をしてきた。結果や目的として、殺すことはあったが、そのための手段として、身体を使う事もあった。一切合財、経験は豊富である。何も問題はない。
「ねえ、ユーリくん、ゆーりくん。君はそんな情けない姿で、今から私に犯されちゃうわけですよ、君の右手の小指だって、ほら、んちゅ、――わらひのふひのなは。こんな風に、ゆーりくんを~、おもちゃにしてあげる」
少女の唇から除く指は全く持って狂気を体現するファクトであったが、それすら含めて、少女の放つ甘い香りと、血なまぐさい臭気の混ざり合った背徳的官能がこの空間を支配し始めていた。
カレンはただ、嬉々として言い放つ。
――ユーリは、こんなカレンは、知らなかった。見たことが無かった。いつも、さっさと仕事を終わらせて、お風呂に入っておいしいご飯を食べて寝る、それだけ考えて生きてるような奴だったはずだ。殺しもただの手段。体を使うのも、ただの手段――今のカレンはそれとは違う。彼を、ユーリを求めていた。
それならば、それに従ってやればいい。しかし、そう言う状況ではない。
「頼まれごとをほっぽり出すのか、カレン。お前はそんな事をする奴じゃあ無いだろ、お前は賢いからな。さっさとその指を、ゴーストヘッドの所へ持って行け、それで終いだ、そうだろう」
絞り出した言葉は、ただ職務に忠実であれ、という内容のものだった。自分がこうなっている理由もそこにあったからだが、失敗はともかくとしてユーリも下された命には、忠実従順であった。
カレンが今やっている事は、やろうとしている事は、それを逸脱しようとしている。横道にそれる行為だ、脱線である。
俺たちのボスはそんな事を笑って見過ごしてはくれない、これはそう言う話だ。ユーリは瞳でも訴えた。しかし、そんな事は今のカレンには関係なかった。
「でもね、君もそんなこと言ってる割には、無抵抗だよね、今だって私を突き飛ばしてしまえば、それで済むことじゃないかな、私に指を持っていて欲しかったら、私を拒めばいい。でも、ユーリくんはそうしていない」
「出来るわけないだろう、手が片方こんなだからとかじゃない、お前が今すべき事の話をしているんだ。俺はお前を拒んだりはしないし、付き飛ばそうだなんてこれっぽちも思ったりしてやしない、否定もしない。だが、そんな事を言っているんじゃない世界だ、お前は早く自分の主人の所に戻るべき世界だ、それがお前のいる世界だろうが」
同時に彼自身は良く解らない恐怖感により縮み上がっており、これから始められるであろう行為について煩悶するどころではなかった。
「ねえ、勘違いしてる。私はユーリを辱めようとか思ってるんじゃない。私がしたいようにしてるだけ。それだけなんだよ。この指は指で、もうお終いなの」
そう言って、着ている服を、しゅり、しゅり、と脱いでいくカレン。スカートをほうり出したとき、ポケットに入っていたペンチも床に転がり高い金属音を立てたが、そんな事も一向にお構いなしに、カレンは生まれたままの姿をユーリの眼前に晒した。
「なんで、眼をそらすの。――やっぱり、汚い……かな」
そんな事はない。
「お前は汚くなんかないよ。そうじゃないんだ、聞けよ、頼むから」
触れたら、壊れてしまいそうなほど、儚く。ああ、やはりこの少女は天使なのであろうか。
――カレンの勘定では、やりたいようにやると言う事は、何の問題もない事だった。
だって、命令を下したとき、さっきゴーストヘッドは確かに「好きなようにやれ」と言ったのだ、そのはずだ、ならユーリの言うように忠実に従ったならば、彼女自身の本能に従う事こそがそれに当たるのである。そんなのは屁理屈だとか、どうでもいい。だから、好きなようにやるだけだ。
――いけない事だとか、思ってるのかな。私が未成年だからとか、つまらない事を気にしているんじゃないだろうか。真面目だね。かわいい。そんな事を考えながら、顔を赤くしているユーリの初々しさに、カレンは優しく微笑み返す。
「――仁義に従え」
次にユーリの口から紡がれた一言は、これだった。
仁義に従え。
「判んないよ、ユーリくん。仁義って言うけど、君はそんなもののために大事な指を失う事になってしまったんだよね。うん、ごめん、私がやったんだけども」
ごめんで済んだら仁義じゃないという世界である。解りやすい図式だ。自身もその渦中にいながら、仁義の事など解らないと、いつもそう言っている。
ユーリは親の顔に泥を塗ったままである。親と言うのはあくまでお世話になったカシラの事で、それは身寄りのないカレンも同じである。
仁義的に言えば育ててもらった恩義に彼女は報いているのである。たとい都合のいい殺人マシンとして飼っているというだけであっても。別にそれでも構わない。子飼いの部下、暗殺者、そうやって傍に置いてもらえている事に感謝するべきで、だから殺せと言われれば殺すし、死ねと言われれば、多分死ぬんだろう。そう思う事が仁義なのかもしれない。この世界で生きてきた以上、紛れなく。例外はない。
仁義って、なんだろう。そう思ったカレンの口の中の指の爪が、不意に、カレンの舌に刺さった。少し血が出てしまったのを感じた。カレンの口中で、二人の血が混ざり合った。しかしそれより早く、下に爪が刺さった痛みで、うっかり指を口から離してしまった。
ぽとり、と箸から滑り落ちたソーセージのように、ユーリの胸の上に指が落ち、ぱた、ぱた、と血をデコレーション。そのまま、指はベッドから転げ落ちてしまった。
――仁義って何だろう。
それは、愛にも似た……恐らく、それも正しいのだろう。しかし。
――こんなおかしな、愛ってあるのかな。
ゆーりくんは、きっと、私を恨むのかもしれない、
でも、私がゆーりくんの事を、今こうして、かわいい、いや、愛しい、恋しいと感じてしまったのは、彼の指をちょん切った時だった。
そっか。歪んでるね、私。
どうしよう、このまま君の初めてまで奪ってしまう。
――ううん、無理やりはだめ、それじゃあ、仁義が通らないよ。どうしよう。どうしたらいいんだろう。なにがなんだか判らなくなってきた。
ふとユーリの胸に、血ではない何かが落ちた。雫。
――ああ、同じだ、私も泣いてるんだ、今。
なにがなんだかわからなくなって、仕舞には涙をこぼしてしまっている。ぐちゃぐちゃだ。
ユーリは左手でそっと、カレンの涙をすくい取って、それを自身の口へ持っていき、舐めた。何でそんな事をしたのか、彼も良く解らなかった。よく解らないことばっかりで、何だか笑いが込み上げてきた。
涙なんて、おいしくないでしょ、カレンが笑ってそう言うと、ユーリも笑って、俺の指の方がおいしくないだろう、そう言った。
カレンは、私を許してくれるのかな、と聞こうと考えた。しかし、その口はユーリの唇に塞がれて、何も言えなかった。
ユーリくん、なんでだろう、私なんでか涙が止まらない。わかんないよ、何だろうこれ。
俺に聞いたって解るわけない。
二人の、初めてのキス。それは二人の血が混ざった味だった。酷い味だ、しかしやっぱりか。
――俺たちらしいっちゃあらしい。こんなものなのだろう、つまりはそう言う事だ。考えたってしょうがない。
◆◇◆◇◆◇◆
人と通じ合えるというのが、どういう事か。
こうして、裸で抱き合ってみて何だか初めて実感するような気がする。
そのままだ、肌と肌が触れ合うって言ったらいいのかな。あまり言葉を選べない。
激しく動いたら、ユーリの右手はこの有様である、辛いだろうと思うのだが、そんな事はお構いなしに二人は求めあった。やるときはやる、ユーリはそう言う男なのだ。
そうだった、今までは、この二人は組んで仕事をすることが多かったのである。しかし今回はユーリがソロデビュー、単独で仕事を任されるという至って大事なタイミングで、結局しくじってしまったわけである。
その事を思うとカレン自身も、今更ながらにふと、いつもユーリが傍にいてくれたから頑張れていた気がする、今思うと本当にそんな気がするのである。だから、そう。
同じ。
――ユーリくんも、私と同じ、私が傍にいないと、全然だめ。
今までは鈍くさいけど、ここぞと言う時に頼りになる相棒って感じだった。けれども、離れて仕事をするようになって、一人で頑張って、そうしてやっと一人前になれるって時に、へまをしたユーリくん。
――以前はいつも、組んで仕事をしていた相棒に、指を持ってこさせると言うのは、残酷なことなのか、どうなのか。これもいわゆる仁義と言うものの為せる事か。カシラ、ゴーストヘッドなりの、情けのようなものだったのか。
しかし、他の奴にやらせていたらユーリは今頃、本当にどうなっていたか解らないような気もする。うっかり利き手の指を切ってしまったカレンは、責任を感じているけれど、ユーリは左腕だけでカレンを支えながら、そうして優しく抱きしめるのだった。
――強い。ユーリくんは、こんなにたくましい。そして、お茶目でかわいい。かわいい。どうしよう、このまま親の顔に泥を塗ったままで、二人で逃げてしまおうかな。
それは、だめだよね。それは良くないよね、やっぱり、しっかり今まで通り恩返しをしなきゃって言うのが、仁義なんだよね。
仁義を欠いちゃ、やっていけない。そういう世界なんだよね。
ユーリの左手が、カレンの長い前髪をすくいあげて、そっと耳に掛けた。
こうして顔を見せてくれなきゃ、楽しくないんだけどな。
そんな事を言って、指をからめてくる。
――かわいい、ユーリくん、なんだよなんだよ、さっきまで泣いてたかわいいユーリくんは、どこへ行ってしまったのかな。すごく男前だぞ。ベッドの下に落っこちた指と一緒に、泣き虫ユーリくんもどっか行っちゃったのかな。
……二人はどれくらい、裸で抱き合っていたのかよく解らなかった。
しかしカレンはやっぱり、仕事を続けようと思って、ベッドを降りた。床には、ユーリの指が転がっている。
おそらくは、まだ間に合う。
これを病院にもっていけば、ユーリの指は、まだ使いものになるのだ。
「ユーリくん、手術して指くっつけてもらおうか」
「いや、そのままでいい」
ユーリはきっぱりとそう言った。
「右手の小指一本ないくらい、どうってことない。たとえ片腕だって、いつでもお前を抱きしめる事くらいはできるだろ」
「…………ゆーりくん、君は本当に馬鹿だなぁ」
「ああ、俺もそう思う」
「ベッドから降りるんじゃないよぉ、私が上、君は下なんだから。そこで寝ていればいいんだよー。そしたら、私は指を届けて、またここに戻ってくる。そうしたら、もう一回抱いてあげるぞ」
「ああ、行ってらっしゃい……」
もう、ユーリも何が何だかわからなくなっていた。何やってるんだろうな、これ。子供の御使いのようである。届けモノは指であるが、あながち間違ってもいない気がする。さっきまで死ぬ覚悟を決め部屋にいたのに、ほんとに何だこれ。
カレンは部屋を後にして、玄関へと去っていく。
「もう少しゆっくりしていったらいいんじゃないかしら」
ユーリの母親は、まるで友人が遊びに来ていたかのような呼び止め方をしたが、やっぱりこれはこういう人なんだろう。そう言えば、遊びに来たとカレンは言ったのだったが。
「あ、ごめんなさい、お母さん、どうかお気づかいなく。ちょっと指を届けてくるだけなんで、あと、息子さんを私に下さい」
「ええ、どうぞ。あの通りの愚息ですけど」
母はあっけらかんとして言った。これもこの人なりの愛である。勘違いしてはいけない。彼女は女手一つでユーリを育ててきた真の母であるのだから。
しかし、母が気に留めていた問題はそこではなかった。カレンは全裸のまま外へ出ていこうとしたのを、改めて引きとめて、彼女に服を着せてくれた。
「わあ、ありがとう、なんか私じゃないみたい」
「良く似合ってるわよ、それね、私が昔来てた服で悪いんだけど。それじゃあ行ってらっしゃい」
――お母さんも、ユーリくんの仕事の事は知っているし、どういう事になっているか事情も知っているらしかった。
そうだね、私が家に来た時点で、すんなりとユーリくんの部屋まで教えてくれた時点で、お母さんがどういう人なのか察しておくべきだったんだね。
私は改めてお母さんにお礼を言うと、そのまま家を後にして、事務所に戻った。
◆◇◆◇◆◇◆
しかし、そこに彼女が戻るべき人はいなかった。
まったく、この世はどういう具合のものなのか。カレンには、何もかもがわからなくなってしまった。
いったい、どうしたらいい。
まずカレンの見知らぬ男たちが何人か、部屋に井戸端のように陣取っており、何事かとその中を見てみれば。
とりあえず、わき目も振らずに逃げてきたけれど、――うちのカシラが、組織を裏切るなんて有り得ない話だよ。
私を育ててくれたカシラは、そんな事をするような人じゃないよ。
指を持って来い、それがカレンの聞いたカシラの最後の言葉だった。それも仁義の為せる事なのか。仕事をへまして顔を出さないユーリの、指を持って来いと言ったゴーストヘッドは、それで場が収まるなら、と苦心してそう言ったのであろう。
そう言う人だった、本当は、ユーリの首を引き千切ってでも持って来いと、そう言えたら楽だったんだろう。何を隠そう、ユーリの事も息子のように思っていたんだから。
しかし、どうしたらいいのだろう。
――カシラが本当におカシラだけになってしまったという冗談みたいなこの状況である。そもそも、彼らは大きな組織の末端に過ぎない。だから、カレンのような部下たちは粛清の対象外っていうのが救いだけど。要するに、頭だけ抜いておけば、手向かう馬鹿はその下から根こそぎ腐り落ちていくという事だ。どうせ闇の世界である。地上に目を出すことなく、野垂れ死にするほかない。
嗚呼、首一つで問題が解決するって言うのが、仁義の世界だとしたら、明日をも知れないこの世界、カシラは何を思って生きてきたんだろう。
――私が、ゆーりくんと抱き合っている間に、全てが起こってしまった。
なら、私が、もっと早くユーリくんの指を事務所へ持って来ていたら、もしかしたらカシラを守るために、私は闘って、そして死んでいたのかもしれない。
そう思うと、なんだかよく解らない、また、良く解らない感情に私は支配されて、涙が再びあふれてきた。
違う、違う。
さっきの涙と、全然違う。こんなのってないよ。私は逃げるしかなかった。
カシラの首を見てしまったその時。私は怒りという種類の感情に支配されかけた。でも、きっとそれは、カシラが望んでいた事じゃなかったんだろう。私は武器を何も持っていなかった。ペンチは、彼の部屋で服を脱いだ時に転がり落ちて、そのまま置いてきてしまったし。それに、この服だ。せっかくユーリくんのお母さんが着せてくれた、かわいい服を、血で汚す事もない。
――どうしよう。逃げるしかなかった。悲しい。口惜しい。寂しい。
カレンの心は目まぐるしく揺らいだ。今まで知らなかった感情と言う迸る奔流に、押しつぶされそうになっている。どうしよう。カレンは、カシラの事も大好きだったのだ。彼が喜ぶ顔が見たくて、今まで。
ただ、走った。来た道を走った。一心不乱に。そして辿り着いた。もはや危険はない。
カレンはユーリの家に戻ると、急いでユーリをたたき起こして、病院へ連れて行った。事情を知ったユーリも、カシラが何を考えてカレンを自分の元に寄越したのか、もしかしたらという思いもあって、申し訳なさに涙が出てきた。やはり、カシラのために死ぬべきだったんじゃないだろうか、自分も。
さすがに、そろそろ限界かもしれないと思っていた。指を切断してから、かなり時間がたっている。しかし、たまたま移植手術のプロという良く解らないドクターがその病院に滞在していたらしい。何だか奇縁を感じるというか、もちろん、そもそもが黒い病院なのである。
このような、きっと事故なんかではないだろう怪我をしても、理由も聞かずに手当、治療してくれる人たちなのである。院長は、ゴーストヘッドの事をよく知っている人物だった。そうしてユーリの指は、奇跡的に綺麗に指としての役割を取り戻す事に成功した。神経も繋がって、少し傷は残ってしまうけれど、そのうち元通り使えるようになるらしかった。入院もしなくていいらしく、ならばとユーリはすぐにリハビリに取り組んだ。本当に元通り動くようになるまで、そう時間はかからないだろう。
◆◇◆◇◆◇◆
カレンは、ユーリと結婚することにした。
でもカレンには戸籍が存在しないから、正式な結婚はすることが出来ない。
――なんだか、切なかった。カシラは、私を娘として育ててくれたわけじゃなかったのかな。そんな寂しさも感じながら、後日、カシラの実家へ遺品を整理しに行った。彼らがいた町から随分と離れていた。あの病院の院長先生が、一緒に連れてきてくれたのだ。
そうして、ユーリとカレンと院長先生の三人でカシラの部屋を調べていたら、意外な事がわかった。院長先生は、金庫に書かれていた暗号を解いてそれを開ける事が出来た。もともと、彼にしか解らないような暗号だったらしい。中から出てきたのは、カレンの幼い頃の写真がたくさん詰まったアルバムだった。もちろん、カレン自身にそんな思い出があったわけではないが、写真を眺めるうちに、その場の全員が涙をこらえる事が出来ず、愁嘆場となってしまった。
しかし、最後のページまでカレンがアルバムをめくると、そこには一通の手紙が残されていた。
遺書……と言う訳ではなかった。しかし、そこにはかなり前に、カレンを養子にしていたことが記されていた。
カレンには、ちゃんと名前があった。そこには、親であるゴーストヘッドの名前も。
――私はちゃんと娘になれていたんだ。
後日、カシラのお墓の前で、ユーリとカレンは手を合わせていた。二人は、カシラの実家で新しく生活を始めていた。ユーリの母親も一緒である。
「ねえ、私たち、結婚したよ。院長先生が保証人。先生の勧めで、新しくこっちの病院でお世話になる事になったんだ。おかしいよね、私たちが病院勤めなんて、あはは」
「まったくだよ。それにしても良い街だなぁ、ここは」
しばらくはお墓の前で談笑していた二人だったが、ふと立ちあがり、お墓へ頭を下げた。そして静かに、二人は言った。
――お父さん、ありがとう。
一応、こいつらがいるのは〈架空の国〉なのです。なぜか日本みたいな〈戸籍制度〉があります。どこにもない国。