できればそのままでいてもらいたいもの
「珍しいね、お姉ちゃんがそういう番組見るなんて」
風呂上りの妹は髪を拭きながらリビングへとやってきた。母に似た妹は、一般的に可愛いと言われる顔立ちをしていて、要領がいい。校則を無視してつけているネックレスは、祖父のくれたお年玉で買ったもので、妹なのに私の倍の金額を貰っていた。祖父は私を毛嫌いするかわりに、妹を可愛がっている。
私が今見ているのは、年に一度はあるボランティア番組だ。なぜ、二十四時間以上も続けてやる意味がわからないのだが、もう何年も続いている。すでに残り三時間を切って、やつれた司会者がぐだぐだのトークをやっていた。
私の目的は、それではなく後ろに控えた人たちである。ラストに向けて、各地からアーティストが歌をうたって〆に入る趣向らしい。妹もまた、私と同じくそれを目的としていて、隣でドライヤーをかけながら待っている。熱風が当たって気持ち悪いので、私はソファの端っこに移動する。
母は学生時代の友人たちと食事らしく、料理はお手伝いさんが作ってくれたもののだ。父は書斎で仕事中だ。
「お父さんの食事持って行けって」
妹がドライヤーを置くと、メモ紙を見せる。お手伝いさんの書いた字だ。
「私やんないから、お姉ちゃんやってよね」
妹は自分では稼ぐこともできないのに一方的に父を嫌っている。もっとかっこいいお父さんがよかった、あんなの恥ずかしいとまで言う。私は、勝手に嫌えばいいと思う。妹が父に冷たい態度をとればとるほど、父が私だけの父になってくれる気がするからだ。いっそ、妹の父親が別だったら私は泣いて喜ぶだろう。
私は、レンジで温めなおした食事を持っていく。内容はビーフシチューに胚芽パン、グリーンサラダ、ドレッシングは和風だ。私は、ついでに棚の下に置いてある缶ジュースを一本とる。トマトジュースだ。私はまだ味覚が子どもなのでわからないが、父にとってビールのようなものらしい。グラスとレモンの輪切りを皿にのせて持っていく。
二階の書斎のドアをノックすると、「どうぞ」とかすれた声が聞こえた。書斎の中はきれいに整理された本棚と大きな水槽に熱帯魚、それに父が座る大きな机がある。
私が、机の空きスペースにトレイを置く。仕事で疲れた父は何も言わずに私の頭を撫でる。少し髭が伸びていて、唇が薄くて、目が細い、そんな爬虫類みたいな父だけれど、私は好きである。たとえ、自分がヘビのような顔だと言われてもどうとも思わない。遺伝子鑑定をしなくとも、父が父である理由であるのでむしろ嬉しいくらいだ。
父は机の横に置いた本を指さした。持っていけということらしい。父は本を書く人だが、読む人でもある。私は父が書く本も読む本も好きで、私の知識の多くがその本らによって与えられたものであろう。
私は、父の仕事がまだ途中であるのを見て、与えられた本を持って部屋を出ることにした。本当はずっとこの部屋にいたいのだが、それは仕事の邪魔になる。父は私を邪険にしないけれど、私がいると気が散ることは間違いないのだ。優しいけどそれだけ繊細な人なのだ。なんであんな派手好きな母と結婚したのか不思議に思うくらいだ。
私は、部屋を出る前に水槽ごしに父を見る。水槽を挟んでみると、まるで父がガラスケースに閉じ込められているように見える。私は父がとても好きなのでずっと一緒にいたいけれど、ガラスケースに閉じ込めるわけにはいかない。ガラスケースに閉じ込めてしまえば、祖父のいやみや母のわがままや妹の理不尽に嫌う扱いからも守ってあげられそうだけど、それでは私が父に撫でてもらえなくなる。
ガラスケースに詰め込むのは、もっと別なものがふさわしいと思った。
本を持ってリビングに戻るとテレビはちょうど私が見たかった場面だった。三人組のアイドルグループのトーク中だった。その中に桜木優はいた。妹は、そのグループの違うメンバーにご執心のため、甲高い声を上げながらテレビにかじりついている。
私はソファに座り、彼の様子をしっかり見る。とてもきれいな彼は、むしろ無個性ともいえた。他の二人のメンバーにどんどんアナウンサーが質問をするのに対して、彼にだけはあまりしない気がする。整い過ぎた彼は、むしろいじりにくい存在なのだろう。調べたらモデル上がりのアイドルとのことだが、どう考えても間違っているのではないかと私は思った。なるとすれば、アイドルではなく俳優のほうが似合っている。
生中継だからだろうか、トークは皆たどたどしい。それすら、あばたにえくぼだろうか、妹は噛んだ姿を見て「かわいー」と笑っている。
私は、桜木優がそわそわと視線を走らせているのを見た。なにかを気にしているようだったが、それはトークが終了するとともに終わり、歌って踊る時間になる。ハードな動きは大変だが、声はよく出ていた。たぶん録音を流しているんだろうな、と思った。
「これ、この近くでやってんだ。文化会館だよね、これ」
妹はステージに見覚えがあることに気が付いた。たしかにステージを扇状に取り囲む形をした客席は見覚えがあった。
「うわっ、今から出待ちしたら会えるかな? ホテルこの近くにとってるよね?」
時間を考えると小学生が外に出る時間ではない。バスもないし、タクシーは高い。妹もそれくらいわかっているらしく、
「もうママがいたら連れてってくれるのに」
と、理不尽に怒り出した。父には頼んでも無駄だとわかっているし、頼みたくもないのだろう。歌を聞き終わると、私はもう用はないとお風呂に入ることにした。彼の声は見かけのとおり美しいものであったが、美しいだけのそれだった。字がうまくても文章が下手な人がいるように、彼は声が美しくても歌が上手いわけではなかった。
テレビ画面の彼は、アイドルの桜木優であり、私が求めている芸術品とは違った。やはり、映像ではなく生身をきれいに固めないといけないと思った。
そのためには材料も知識もまだまだ足りなかった。
「はあい、冲方さん」
明るい声で話しかけてきたのは、姫野だ。放課後、ホームルームも終わり、部活動をやっていない私は帰るだけだった。面倒な奴にからまれたと私は思った。
返事の代わりに細い目をさらに細めてみると、姫野はにっこりと笑い、副担任を指さした。副担任は面倒くさそうにプリントをぴらぴらさせている。どうせ明日も来るはずのない金本のプリントだ。いつも持って行っている生徒が今日は休みだから困っているのだろう。生徒ならともかく、副担任であれば郵便受けにプリントを入れて終わりというわけにはいかず、娘のことでぴりぴりした彼女の親に挨拶の一つでも入れないといけない。
「一緒に持っていかない? 私、あの子の家知っているから」
実に面倒なことをいう姫野に笑われると私は、動きたくもないのに足が教卓へと動いていた。逆らえない動きだった。姫野は見えない力で私を動かしたようにしか思えなかった。
「先生、私たちが持っていきますね」
姫野がそう言いながら私の手を掴み、先生の持っているプリントをつかませる。私は姫野に逆らうほどの力はなかった。
「持って行ってくれるのか? 冲方」
私がプリントを受け取ったことで、先生が笑う。面倒事を押し付けられてうれしいらしい。私が首を横に振る前に、「まかせたぞ」と職員室に戻っていった。正直、私が彼女にされたことを知らないのか、それとも知っていてわざとやっているのかわからない。ただ、担任の不在によって気楽な副担任から押し上げられた若輩教師は、今与えられた仕事だけでも手が足りないのだろうか、と思った。
「さあ、行きましょ」
姫野はにっこり笑うと、天然パーマを揺らしながら言った。
私は図書室によりたいと思っていたのに彼女に付き合う羽目になった。
姫野は金川の家につくまでひたすら話し続けた。あそこのお店のクレープは美味しいとか、秋物の服が欲しいけど買ってもらえないとか、実にありきたりな話だった。私には興味がわかず、こくりこくりと首を振るだけで目はずっと違う方向を向いていた。
周りにはいつものように実体のない影のない人たちが歩いている。皆、仕事場に自宅に向かっているのか帰っているのか、それともただ歩き回っているのか。姫野はたまに顔見知りがいるらしく手を振って挨拶していた。
「あの橋の向こうだよ」
姫野が指さすところは、閑静な高級住宅街だった。小高い丘になっており、少し趣向を凝らした家々が、適度な間隔で並んでいる。なるほど、この雰囲気は、副担任の少し無責任で俗にいうチャラ男と言われがちな容姿には似合わないだろう。
橋を渡っていると、昨日の雨で川は増水していた。橋には看板が立っており、『泳ぐな』と書いてあった。こんな川で泳ぐような輩がいるようには思えないが、事故はそれなりに多いらしく今年の夏も溺死者がいたらしい。
姫野は体重を感じさせない動きで歩いていくが、運動が得意でない私には坂道はきつい。うつむきながらてくてくと歩いていく。
「ここの家よ」
比較的、大きな家だ。小学校が私立といっていたが、それなりに金持ちだと想像していたがその通りだった。
私はさっさとプリントを郵便受けに入れて帰ろうと思ったが、姫野が私の手を掴んで呼び鈴をおした。
「お届けに参りましたー」
カメラがかちゃかちゃと動くの中で、姫野は満面の笑みを浮かべてカメラに密着する。
しばらくすると、
「お引き取りください、顔も見たくありません」
中年の女の声が聞こえた。金本の母だろう。その後ろで、ヒステリックな声が聞こえた。断片的に聞こえるそれは「殺される」と言っていたようだった。
私は郵便受けにプリントをつっこむと、帰ることにした。
姫野はくすくすと笑いながらくるくる回る。
なにがおかしいかといえば、先ほどインターフォンの向こうから聞こえてきた声だという。
「おかしくない? 『殺される』とか大げさすぎ。じゃあ、自分はなにやってきたっていうのよ」
笑い声はくすくすからケラケラに変わる。ふんわりと軽い動きで、橋の前まで来ると、欄干の上に飛び乗った。平均台の上にいるように、両手を広げてバランスを取りながら歩いていく。私はそれをただ見ているだけで、そんなことよりも早く帰って図書館に行きたかった。
けれど、強引な姫野は私を連れまわそうとする。面倒な相手にとりつかれたものだ。
「ああいうのが、一番怖いよ。追い詰められたら一体なにするかわからないから。後ろからぐさってやられるかもよ。それとも、首でも絞められるかしら?」
姫野が笑い混じりにいう言葉から、私は桜木優のことを思い出した。昨日はこの付近で収録していた。近くのホテルに泊まっているとしたら、駅前の三ツ星が妥当だろうか。もう夕方だし、彼も売れっ子なのでホテルにいるとは思えない。だけど、ここから家まで帰る途中にあるので、のぞいてみても悪くないと思った。
ケラケラ笑いながらまっすぐ歩いていく姫野を無視して、私は駅前に続くルートに進んだ。