かわいいなまえだとおもうけど
名前欄に『下』まで書いて、首を傾げた。
どうにも気にくわない。三画目の点の位置がよくないのかな。
私は消しゴムで『下』を擦り、もう一度書き直す。うん、やっぱ変。バランス悪いんだよなあ。字って、どうやったら綺麗になるんだろう。
気にくわない事には気にくわないけど、とりあえず最後までいってみよう。
『下山麻弥』
書き終えると、顔を顰めてシャーペンを放った。なんとまあ、字面の悪いこと悪いこと。それに加えて語感も悪い。シモヤママヤ。カタカナにしても無駄である。
「せめて上山。もしくは中山」
小さく呟いて、欄外に上山中山下山と書き連ねてみる。あ、気持ち悪くなってきた。これが噂のゲシュタルト崩壊か。
全部消してしまってから、私は窓の外を見やった。太陽の光がきらきらと木々の葉っぱに反射して、なんて眩しい昼下がり。机の上の真っ白なレポート用紙も眩しいけれど。
この貴重な昼休みに、なぜ私が教室でぽつんと机に向かっているかというのも、この忌々しいレポート用紙のせいである。今日の放課後までが締め切りの欠点者課題。あえなく欠点を取った生徒達の為に、救済措置としてあるのだと先生は私の目を真っ直ぐに見詰めた。彼女の熱い視線に答えるべく、せめてこれ位提出しなくてはいけないのだ。
よって私は、みんなが存分に昼休みを謳歌している中、せっせと日本史のレポートを書いている。いや、書こうとしている。
一つため息を吐いて、シャーペンを握り直した。
人が人生で最も多く書く言葉は、自分の名前だという。
しかしながら、私は十四年間生きてきて、未だに自分の名前が苦手だ。とにかくバランスが悪い。自分で書いたのも、機械が映し出したのも、両親が書いてくれたのも。どれも、どうにも、アンバランスだ。
自分の名前を、書いては消して書いては消して。これを現実逃避と呼ばず、なんと呼ぶだろう。
「下山さん」
ふいに背後から声を掛けられた。思わずびくりと飛び上がる。
「な、ななに!」
振り返ると、後ろの席の栗原君が分厚い眼鏡の奥で目をぱちくりさせていた。まさか、今の私の行動を見てたのか。おかしな奴だ、と笑う気か。
一瞬疑ってしまったけど、どうやら違うらしい。
「あの……、これ」
差し出されたのは図書返却の催促用紙だった。ああ、彼は図書委員だっけ。
返却期限切れの本を直ちに返却するように、とワープロで書かれた用紙に、延滞している本の名前と私の名前が手書きで記入してあった。
私は記憶を探り、気まぐれで借りたはいいものの放置していた本に思い当たった。そっか、あの本昨日が返却日だったんだ。完全に忘れてた。
「うわー、ごめん!」
「いや、明日にでも持ってきてくれたらいいよ」
栗原君はにっこり笑った。いい人だなあ栗原君。私は前へ向き直り、もう一度催促用紙を眺める。――と同時に、がばりと勢いよく再び振り返った。今度は大きく目を見張っている栗原君。
「これ、栗原君が書いたの?」
「う、うん」
私は尊敬の眼差しを彼に向けた。
栗原君が書いた『下山麻弥』は、素晴らしいバランスだった。私が追い求めてきた理想が、今まさに、ここにある。
無意識に声が弾む。
「私、昔っから字が下手でね、特に自分の名前が苦手で苦手で。――あ、栗原君って下の名前なんだっけ」
「しゅんすけ、だけど」
「そっか、秋生まれに相応しい良い名前だ」
「俺、誕生日五月だけど……」
「語感もいいよね。クリハラシュンスケ。それに比べて私はシモヤママヤだよ。マ行が幅を利かせすぎてるもん」
「……可愛い名前だと思うけど」
「まあそれはいいとして」
「あ、いいんだ」
栗原君は僅かに苦笑した。
私は彼の書いた『下山麻弥』を指し示し、
「栗原君の字、すごい好き。自分の名前こんなに気に入ったの、初めてだもん」
それから彼の手を取って、
「ありがとう!」
満面の笑みで言い放った後、やってしまったとすぐに気付けたのは、栗原君の顔がみたこともない程赤く染まったからだった。
沈黙が流れ、予鈴が鳴った。
「じゃ、じゃあ、本は明日持ってくるから……」
ぎこちない動きで手を放し彼に背を向け、シャーペンをやたらとノックした。
芯を出し過ぎたシャーペンでレポート用紙に名前を記入する。相変わらず汚い字の『下山麻弥』。けれどほんの少しだけ、いつもより可愛い名前に見えるのは、どうしてだろう。
栗原君の台詞が、今更になって脳内をぐるぐると占拠した。
――可愛い名前だと思うけど。かわいいなまえだとおもうけど。
心臓の音と彼の声が混ざり合って、どちらもなかなか消えそうにない。
いつのまにか握りしめていたらしく皺の寄ってしまった催促用紙を広げて、栗原君が書いた自分の名前を指先でなぞる。
また延滞したら、彼が書いてくれるのかな。ぼんやり考えて、考えた自分に頭突きを喰らわせたくなって、机に頭をぶつけた。