貴方は今誰を想っている?
貴方の目に……。
私は映っていますか?
アラストルと居るのは嫌いじゃない。
むしろ好きだと玻璃は思っている。
今日だってアラストルの部屋に行ったら、お菓子くれたし、絵本まで用意してくれていた。
仕事があるから暇ならそれでも読んでいろということらしい。
「アラストル」
「何だ?」
「時の魔女、絵本にまでなってるんだね」
「ああ。昔からだ」
アラストルの言う『昔からだ』という言葉を玻璃は嫌いだった。
「どうせ、リリアンが好きだった、でしょ?」
「…ああ」
私はリリアンじゃない。
そう言いたいのに、なかなか言えない。
アラストルをシルバだと思い込みたかった自分が居るように、アラストルも自分をリリアンだと思い込みたいのは痛いほど解る。
そう、表面上は『アラストル』という個人としてみているけれど、心のどこかでは『シルバ』としてみてしまうんだ。
そう思うと玻璃は哀しくなった。
シルバが私をリリアンと呼ぶ……。
それは悪夢のようだ。
だけど、今目の前に居るのはアラストルであってシルバではない。
「…つまらない御伽噺。蘭に直接話を聞いたほうが楽しい」
「そうかぁ? けど、絵は悪くねぇだろ?」
水彩タッチの淡い絵。
確かにアラストルにしては趣味は悪くないと思う。
だけどもこの絵は嫌い。
「この絵本、嫌い」
「何でだ?」
「クロツグミが自ら首を切り落とそうとする場面が無いもの。時の魔女は言ってたよ。絵本じゃ本人たちの苦悩は伝わらないって」
ただの御伽噺になっちゃうって。
そう告げるとアラストルはため息を吐く。
「…文句が多いな。特に今日は」
何かあったのか? と訊ねられる。
「別に…仕事も無くて暇なだけ」
今の状況をきっと『ニート』とかって言うんだ。
確か意味はダメ人間だっけ。
「お前のマスターに頼めばいくらでも仕事貰えるんじゃねぇのかぁ?」
お前たちには甘いからな。あの男はと言うアラストルに苛立つ。
「貰えないよ」
「そうか」
「…いい、ジルに遊んでもらってくる」
そう言って玻璃は窓枠に足を乗せる。
「おい、出るなら窓じゃなくて玄関から出ろ。危ねぇだろ?」
「危なくない。慣れてる」
そう言ってもアラストルは怪我するだの女なんだからだの言う。
「…私はリリアンじゃない」
思わず玻璃はそう言った。
「……悪い…つい、癖でな」
「…別に……」
こんなことを言いたかったわけじゃない。
玻璃は思う。
本当は今日はアラストルに新しく覚えた手品を見てもらおうと思っていた。
昨日描いた絵も見せようと思った。
だけど、そんなことはどうでもよくなった。
貴方は今、誰をその瞳に映してるの?
そう考えると、途端に怖くなって、アラストルが止めるのも聞かずに窓から飛び出した。
飛び出したはいいけど、行く当ても無かった。
生憎の雨。
こんな日はジルは絶対に外に出ない。
仕事があっても部下に押し付けてきっと部屋に篭って書類仕事をしてるんだ。
そんなことを考えながら、噴水の淵 によじ登って、玻璃はただ、雨に打たれた。
ここでリリアンが死んだんだ……。
シルバと一緒に……。
蘇る記憶。
小さな少女が真っ赤に染まったあの日、銀の剣士が一人消えた。
「シルバ……また、一人ぼっちかな…」
アラストルにあんなことを言っちゃったからもう、アラストルのところには戻れない。
それにマスターのところだって、今日はもう誰も居ないから戻れない。
どこに行ったらいいの?
玻璃は途端に怖くなった。
私には行き場が無い……。
「アラストル……」
自分の狭い交友関係に嫌気が差した。
頼れる人間がたったの三人しか居ないのだ。
いや、いざとなればリリムにも頼れる。
彼女の元へ行けば、柔らかいタオルと温かいココアを出してくれるのはすぐに想像がつく。
だけども玻璃は彼女の元へは行きたくなかった。
だってリリムは玻璃を『リリアン』と呼ぶから。
「みんなリリアン、リリアンって、私はリリアンじゃない…」
誰も『玻璃』を必要としない。
私は必要ないんだ。
恐怖が玻璃を包む。
このまま雨が私を消してくれればいいのにと玻璃は思った。
何時間雨に打たれただろうか。
もう既に、玻璃は時間どころか感覚すら失っていた。
このまま眠ったら噴水の中に落ちて溺れ死ぬんだろうななどとぼんやりと考えながら、ただただ、雨に打たれていた。
そんなときだ。
「玻璃!」
この声は誰だっただろう。
酷く懐かしい気がする。
「アラストル?」
違う。
アラストルが呼ぶはずが無い。
きっとこの声はシルバだ。
そう自分に言い聞かせたとき、強く抱きしめられる。
「馬鹿! 何やってるんだよ! 心配かけるな…」
衝撃に驚いて、少し遅れて見上げると、ずぶ濡れの銀髪があった。
そこで泣き出しそうな顔をしているのはシルバではなくアラストルだった。
「…ど……して?」
アラストルは来るはずない。
だって、『玻璃』は必要じゃないから……。
「ほら、帰るぞ」
そう言ってアラストルは玻璃を抱きかかえる。
「お前、捨て猫みたいだな」
「…アラストルも野良猫みたいだよ」
二人揃ってずぶ濡れでなにやってるんだろう……。
「風邪ひくぞぉ?」
「アラストルだって」
「お前とは鍛え方が違うんだよ」
彼は微かに笑うが、どこか怒っているような気がした。
「アラストル、怒ってる?」
「当然だ」
少し苛立った口調。
これはわざとだと玻璃は思った。
「俺は、いつ来ても良いとは言ったが、窓から飛び降りていいとも、雨の中ずぶ濡れになっていてもいいとも、心配かけていいとも言っていない。心配掛けるな。探しただろ…」
彼は早口に、そして力なく言った。
「……ごめんなさい…」
「いや……あまり心配掛けるな…禿げたらどうする」
その言葉に玻璃は思わず笑う。
「大丈夫。アラストルは禿げてもアラストルだから」
「はぁ?」
「きっと禿げても大好きだよ。アラストルのこと」
だって、雨の中わざわざ『玻璃』を探しに来てくれた。
「馬鹿なこと言ってなくていいから降りろ。自分で歩け」
「…嫌」
「はぁ?」
アラストルは玻璃を睨む。
だけど、玻璃は気付かないふりをした。
「足がじんじんするの」
冷たいでしょ? とわざとらしく言う。
本当はただもう少しだけアラストルの腕の中で、確かに存在していることを実感したいだけだった。
「ったく……お前はリリアンより甘えん坊だな。ガキ」
「煩い三十路。シルバより口うるさい」
「そう言っている間にお前もすぐ三十代になるんだぞ?」
「その頃にはアラストルは棺桶に片足突っ込んでるどころか全身入ってるかもね」
玻璃が言うとアラストルは笑う。
「そのときは道連れにしてやるよ」
「べつにいいけど。アラストルが居なくなったらきっとこのクレッシェンテは酷く退屈だよ」
だって雨が多いもの。と玻璃は言う。
「俺が居ないと退屈か」
「うん。だって、雨の日に構ってくれるのはアラストルだけだから」
初めて会ったのも雨だったねと玻璃が言うとアラストルは小さくああと。
「お前は雨女なんじゃねぇのかぁ?」
「アラストルが雨男だと思う。だってアラストルに会う前はこんなに雨に遭わなかった」
「俺だってお前に会うまでは…って俺たちが揃うと雨かぁ?」
そういや前に二人で植物園に行ったときは記録に残る集中豪雨になったなと彼は言う。
「…祟られてる?」
「…かもな」
二人で顔を見合わせて笑う。
その頃にはもう、アラストルの自宅の前だった。
部屋に戻るとまず、ストーブに火を点ける。
石炭独特の臭いが部屋に充満する。
「ほら、これで髪を拭け」
アラストルがタオルを二枚取り出し、そのうちの一枚を玻璃に投げる。
「ありがとう」
「ったく…だから雨はめんどくせぇ。髪が乾くのに何時間かかるんだぁ?」
玻璃もアラストルも髪を絞れるほどずぶ濡れだった。
「おい、そのまま座るな。ベッドが濡れるだろ」
「…床に座る元気も無い……」
そう言って、玻璃は長椅子に座り、靴を脱ぐ。
「お前な…元から遠慮が無いのも知っていたが、とりあえず言ってく。人の家でいきなり靴を脱ぐのは非常識だぞ?」
「日ノ本では靴を脱がない方がおかしいって言われたでしょう?」
「ああ」
「でも、こんな濡れた靴、どこでだって履いていたくないわ」
そう言って玻璃はストーブの前に靴を置いて乾かそうとする。
アラストルはそんな玻璃の隣に腰を下ろした。
「おい、もうちょっとこっち来い」
「ん?」
「まだ濡れてる」
そう言って彼はタオルで玻璃の頭をごしごしと擦るように拭く。
「ふふっ、こういうの久しぶり」
「なんだぁ? シルバにもされたのか?」
「こういうのはよくマスターにされた」
「ほぅ、あいつがか?」
「うん。泥まみれになって帰ると、問答無用でプールに突き落とされてそのままお風呂に直行させられるの」
玻璃が言うととんでもない家庭で育ったなと彼は言う。
「お前も、髪が長いんだからもう少し気をつけろ」
「別に気にならない」
「べたつくだろ?」
そう言いながら、アラストルは丁寧に編みこまれていた玻璃の髪を解く。
「うわ…まだ水が出てくる…タオルもう一枚必要だな」
「……勝手に解かないでよ」
「悪い。だが、乾かねぇだろ? 結ったままじゃ」
彼は棚から一枚タオルを引き出し、再び玻璃の髪を丁寧に拭く。
「結構長いな」
「十年以上切ってないから。時々朔夜が揃えてくれるけど」
もうちょっと伸ばしてみようかと思ってると玻璃が告げる。
「いつまで伸ばす気だ?」
「飽きるまで」
「ショートも似合うんじゃねぇか?」
「絶対嫌」
「何でだよ」
アラストルが玻璃の顔を覗き込む。
「……だって…」
「ん?」
「短くしたらリリアンと一緒になっちゃう……」
そしたらアラストルがわからなくなるでしょ?
玻璃は俯く。
「馬鹿か。もう、お前を間違えたりしねぇよ」
「え?」
驚いた。
「いくら似てても、玻璃は玻璃だろ?」
優しく抱きしめてくれる腕に安心する。
「今、俺の目に映っているのは間違いなく玻璃のはずだが?」
アラストルの言葉に玻璃は嬉しくなった。
「ありがとう」
「ん?」
「ずっと怖かった。いらないって言われるのが…」
彼は何も言わずに玻璃の背中を優しく撫でる。
「やっぱり、雨が好きかも」
だって、貴方に出会えたから。
私の目に、映っているのは貴方だから……。
出会えてよかった。
心から思うよ。