願望
絵を描こうと思った。
スケッチは嫌いではない。ファントム製の硬めの鉛筆が好きだ。紙の上を滑らせるときは勿論、ナイフで削る時間さえ愛おしい。
人物画は不得手だ。風景画を好んでいる。特に、蓮の咲き乱れる池を描くのが好ましい。
毎日、毎日、目の前の蓮は変化を続けている。
どうせこの地は退屈だ。
眠る他は、時折書類に目を通し、時折署名をしたり、文の返事を書く程度で、その他のことは大抵魔術で片付いてしまう。
いや、書名さえ自動書記で終わらせることもある。
とにかく、一日の大半は寝台で眠っている。
稀に起きている時間くらいは有意義に活用したいものだ。
別に国が嫌いなわけではない。愛国心はそこそこあるほうだとは感じている。
しかし、長生きをしすぎた。
日々が退屈だ。眠りの中で見る夢こそが現実であったらと願いたくなるほど、今の私の現実は、変化が乏しく退屈だ。
芸術家というものは刺激を求めなければいけない。
そして、若き芸術家に刺激を与えなければいけない。
私は他の伯爵とは違い、あまりこの地を離れることは出来ない。だから一層退屈を感じてしまうのかもしれない。
紙の上に鉛筆を走らせる。
もう、何千回描いたか分からない蓮の池。しかし、一度として同じ表情はなかった。
ただ、見たそのままの蓮を描く事には少し飽いた。時折極端に色を変えて描いたこともあったが、それでも私は満たされることがない。
そして思う。この蓮の池に、女が浮いていたらどうだろうかと。
絵の良いところは、あるままのものを留めるのではなく、描くものの自由な発想を反映できる点だろうか。
頭に浮かんだ光景を、描き足していく。
白い肌の女。長い艶やかな黒髪を水で濡らし、身体を池に沈めていく。
昏々と眠る娘の重い瞼と長い睫毛。
ああ、この娘はあの少女だ。
私の願望は今、はっきりと自覚できた。
私は望んでいる。あの娘が、玻璃がこの池に、蓮に絡まれて沈んでいく姿を眺めたいと。
どうも私には嗜虐願望でもあるらしい。こればかりは兄弟で似てしまった部分かも知れぬな。
尤も、我が弟は痛めつけられることも好きなようだが。
出来上がった下絵を確認する。悪くない出来だ。
城に戻り水彩で色を付けよう。
近頃は布に直接描ける塗料もあるらしいが、生憎私の手元にはない。手に入れば是非に上着に蓮を描きたいものだ。
どうもあの商人はこの地にはあまり足を踏み入れたくないらしい。
しかし、そろそろ絵の具も尽きそうだ。
「仕方が無い、王都へ行くか」
画材を買うためだけに王都まで出かけるというのは妙な話だが、商人が寄り付かなくなっているのであれば仕方が無い。
今、私に必要なものは芸術だ。
そして、玻璃だ。
そうだ。これも何かの運命だ。王都で、彼女と会う絶好の機会だ。
そう思った瞬間、はっきりと頭が目覚める。
急ぎ支度をせねば。
馬を用意しよう。
なんということだ。
私は今、新品の絵の具を初めて使うとき以上に喜びを感じている。
初めて使う色と出会ったとき以上の感動をどこかで感じている。
きっとそれは、私の世界を鮮やかにする、あの娘の存在を感じたからだろう。