表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

カッサンドラのいない戦場

作者: アナグマ
掲載日:2026/03/21

小さな箱だった。

 軍の刻印が、浅く刻まれているだけの、簡素な金属箱。

 机の上に置かれたそれを、男はしばらく見ていた。

 触れようとして、やめる。

 もう一度、手を伸ばして、今度は開けた。

 中には、布に包まれたものがひとつ。

 ――軽い。

 そんな感想が、先に浮かんだ。

 ゆっくりと布をほどく。

 出てきたのは、ナイフだった。

 見慣れている。

 見間違えるはずがない。

 柄の部分に、細い傷がある。

 訓練中に、無理にこじ開けようとして、ついたものだと、本人は笑っていた。

「……これ、まだ使えるかな」

 あのとき、そう言っていた。

 男は、ナイフを手に取る。

 重さを確かめるように、指でなぞる。

「なあ」

 口を開く。

 返事は、ない。

「お前、これ……置いてくなよ」

 少しだけ、間があく。

「……取りに来いよ」

 静かな部屋に、声だけが残る。

 当然、返事はない。

 男はそれを、特に気にした様子もなく、ナイフを机に置いた。

 そのまま、壁にもたれかかる。

「……遅いな」

 ぽつりと呟く。

「もう、とっくに終わっててもいいだろ」

 誰に向けた言葉なのか、自分でもわかっていない。

 いや、わかっているのかもしれない。

 ただ、それを言葉にしないだけで。

 机の上のナイフを、もう一度見る。

 視線が、少しだけ柔らかくなる。

 そのときだった。

 ――警報が鳴った。

 短く、鋭い音。

 思考を切り裂くように、鳴り響く。

 男は顔を上げる。

「……またか」

 ため息のような声。

 だが、体はもう動いていた。

 ナイフを掴む。

 一瞬だけ、迷うようにそれを見て、

「……あとでな」

 机に置き直した。

 部屋を出る。

 廊下はすでに騒がしい。

 怒号と足音が交錯している。

「敵機侵入! 第二防衛ライン接触!」

「出撃準備急げ!」

「配置は――」

 声は、もう耳に入っていない。

 男はそのまま格納庫へ向かう。

 視界の端で、誰かが何かを言っている。

 止まれ、とか。

 待て、とか。

 そんな言葉だった気がする。

 どうでもいい。

 足は止まらない。

 止める理由が、ない。

 格納庫の扉が開く。

 そこに、それはあった。

 細い。

 鋭い。

 無駄のないシルエット。

 他の機体とは明らかに違う、異様な形。

「……来てるな」

 誰にともなく、呟く。

 返事はない。

 男は、その機体へ歩いていく。

 一歩。

 また一歩。

 迷いはない。

 そもそも、引き返すという選択肢が、最初から存在していないように。

 コックピットに乗り込む。

 シートに体を沈める。

 起動。

 視界が開ける。

 機体の感覚が、神経に接続される。

 ――静かになる。

 外の喧騒が、遠くなる。

 代わりに、別の感覚が満ちてくる。

 研ぎ澄まされた、一本の線のような意識。

「……行くか」

 短く言う。

 誰に対してでもない。

 それでも、

「うん」

 と、返事がした気がした。

 男は、少しだけ笑った。

 出撃シーケンスが進む。

「待て! お前の機体は――」

 通信が入る。

 途中で切る。

 必要ない。

 ロック解除。

 カタパルト展開。

 視界の先に、空が開ける。

 その向こうに、敵がいる。

 理由はない。

 目的も、ない。

 ただ、

 ――そこにあるから、行く。

「……すぐ行く」

 誰にも届かない声で、そう言って。

 機体は、射出された。

機体が空へ放り出される。

 重力が一瞬だけ消え、次の瞬間、強引に引き戻される。

 推進機が点火。

 視界の端で、数値が跳ね上がる。

 警告音。

 無視。

 男はスロットルをさらに押し込んだ。

 加速。

 空気を裂くような振動が、機体を震わせる。

「おい、待て! 速度制限――」

 通信。

 切る。

 前を見る。

 敵影。

 複数。

 編隊を組んでいる。

 距離、まだ遠い。

 だが――

「……見えてる」

 呟く。

 照準も取らない。

 ロックもしない。

 ただ、一直線に突っ込む。

 敵編隊が、こちらに気づく。

 動く。

 迎撃態勢。

 ミサイルが展開される。

 警告音が増える。

 ロックオン。

 回避推奨。

 すべて、無視。

「――来いよ」

 機体が、さらに加速する。

 限界値を越える。

 警告が赤に変わる。

 それでも止めない。

 敵が発射する。

 光が走る。

 無数の軌跡が、こちらへ収束する。

 回避不能な角度。

 普通なら。

 男は、ほんのわずかに機体を傾けた。

 それだけ。

 最小限の動き。

 ミサイルが、機体のすぐ横をかすめていく。

 爆発。

 衝撃。

 だが、進路は変わらない。

「――遅い」

 次の瞬間、距離が消えた。

 敵の一機、その正面。

 相手が反応するより速く、

 ブレードが抜かれる。

 一閃。

 装甲が裂ける。

 内部が露出する。

 そのまま通過。

 振り返らない。

 後ろで、爆発。

 もう一機。

 すれ違いざまに、腕を掴む。

 引き寄せる。

 パイルバンカー。

 打ち込む。

 鈍い衝撃。

 貫通。

 離脱。

 そのまま前へ。

「な、なんだあいつ――!」

 敵通信が漏れる。

 混乱。

 陣形が崩れる。

 だが男は、聞いていない。

 もう次を見ている。

 次の敵。

 そのさらに奥。

 ――もっと先。

 味方機が追いつこうとする。

「深追いするな! ラインを――」

 通信。

 やはり切る。

 意味がない。

 ラインなど、最初から見ていない。

 敵が距離を取ろうとする。

 後退。

 再編。

 それを、許さない。

 さらに加速。

 警告音が、途切れなく鳴る。

 機体フレームに負荷。

 限界値、突破。

「……いいだろ」

 誰に言うでもなく、呟く。

「まだ行ける」

 応答はない。

 ――はずだった。

「無茶だよ、それ」

 ふと、声がした気がした。

 柔らかい声。

 聞き慣れている。

 男は、少しだけ笑う。

「うるさいな」

 機体を傾ける。

 敵の射線を、紙一重で外す。

「そっちが遅いんだろ」

 さらに一機。

 さらにその奥。

 止まらない。

 減速しない。

 戦っているのではない。

 ――突き抜けている。

 気づけば、周囲に味方はいない。

 敵も、散開している。

 だが関係ない。

 まだ前がある。

 まだ奥がある。

「……まだだろ」

 呟く。

 何に対してかは、わからない。

 ただ、

 そこに“あるはずのもの”を探すように。

 さらに進もうとした、そのとき。

 ――直撃。

 視界が揺れる。

 警告が一斉に鳴る。

 遅れてきた砲撃。

 背部に命中。

 姿勢が崩れる。

 だが、

「――だから?」

 機体を無理やり立て直す。

 スラスターが悲鳴を上げる。

 まだ動く。

 なら、進む。

 再加速。

 だが次の瞬間、

 別方向からの攻撃。

 回避が間に合わない。

 衝撃。

 片腕が、吹き飛ぶ。

 それでも、

 止まらない。

「……関係ない」

 ブレードを逆手に持ち替える。

 残った腕で、突っ込む。

 敵が、明確に距離を取る。

 恐れている。

 それでも、

 届かない。

 距離が、開く。

 速度が、落ちる。

 機体が、限界に達する。

 出力低下。

 警告。

 視界が、揺れる。

「……ちっ」

 初めて、舌打ち。

 その瞬間を、逃さない。

 集中砲火。

 光が、視界を埋める。

 回避不能。

 直撃。

 爆発。

 機体が、沈む。

 高度が落ちる。

 制御不能。

 それでも、

 男は前を見ていた。

「……まだ」

 手を伸ばす。

 届かない距離へ。

 そのまま、

 意識が、途切れた。

白い天井だった。

 ぼやけた視界の中で、それだけがやけに鮮明に見えた。

 無機質な光。

 均一な色。

 どこにでもあるような、医務室の天井。

「……生きてるか?」

 声がした。

 男は、ゆっくりと瞬きをする。

 焦点が合う。

 覗き込んでいる顔が見えた。

 知らない顔。

 いや、見たことはあるのかもしれない。

 ただ、覚えていないだけで。

「……ああ」

 短く返す。

 それだけで、周囲の空気が少し緩む。

「よかった……」

「奇跡だぞ、お前……」

「機体、ほぼ全損だぞ」

 声がいくつも重なる。

 安堵。

 呆れ。

 興奮。

 いろんな感情が混ざっている。

 男は、ゆっくりと上体を起こした。

 体が軋む。

 だが、気にしない。

「どこまで行った?」

 最初に出た言葉は、それだった。

 一瞬、空気が止まる。

「……は?」

「侵入距離だ」

 淡々とした声。

「どこまで行けた」

 誰もすぐには答えない。

 代わりに、別の言葉が返ってくる。

「いや、それよりお前……」

「よく生きて――」

「で」

 遮る。

 感情のない声で。

「どこまでだ」

 沈黙。

 視線が交差する。

 困惑が、はっきりと場に広がる。

 やがて、一人が口を開いた。

「……敵前線は抜いた」

「中間ラインの、かなり奥まで行ってる」

「ただ、その先は――」

「止められたか」

 男が言う。

 確認ではない。

 事実の整理。

「……ああ」

 短い肯定。

 それで十分だった。

 男は、視線を落とす。

 自分の手を見る。

 わずかに震えている。

 怪我のせいか。

 それとも別の理由か。

「……まだ、足りないな」

 ぽつりと呟く。

 誰に聞かせるでもなく。

「は?」

 思わず、誰かが声を漏らす。

「いやいやいや、十分だろ……!」

「お前、単機であそこまで――」

「違う」

 即答。

「届いてない」

 それだけ言って、ベッドから足を下ろす。

「おい、待て! 安静――」

 制止。

 聞かない。

 立ち上がる。

 少しふらつくが、そのまま歩き出す。

「どこ行く気だ!」

「整備」

 短く返す。

「機体、まだ使えるか」

 今度は、誰もすぐに答えられなかった。

「……無理だ」

 やがて出た言葉。

「フレーム歪んでる。駆動系も半分死んでる」

「修復にどれだけかかるか――」

「どれくらいだ」

 被せる。

「時間だ」

 苛立ちすらない声で。

「どれくらいで、動く」

 整備兵が言葉に詰まる。

「……最短でも、数日」

「……そうか」

 それだけ。

 男は、それ以上何も言わない。

 怒りも、落胆もない。

 ただ、

「……遅いな」

 小さく呟く。

 その一言だけが、妙に重く落ちた。

 医務室を出る。

 誰も止められない。

 止める理由が、言葉にならない。

 廊下を歩く。

 足音だけが響く。

 やがて、自室の前で止まる。

 ドアを開ける。

 中は、出たときのままだった。

 机。

 椅子。

 そして、

 ナイフ。

 男は、ゆっくりとそれに近づく。

 手に取る。

 少しだけ、安心したように息を吐く。

「……悪い」

 ぽつりと。

「思ったより、遠いな」

 返事はない。

 それでも、構わない。

「でも」

 ナイフを軽く回す。

 手に馴染む感覚。

「行けるだろ」

 ほんのわずかに、口元が緩む。

「まだ」

 沈黙。

 静かな部屋。

 そのはずなのに、

「……無茶しすぎ」

 声がした気がした。

 男は、笑う。

「知ってる」

 即答だった。

「でも、それしかないだろ」

 ナイフを机に置く。

 今度は、すぐ手の届く位置に。

 ベッドに倒れ込む。

 天井を見る。

 白い。

 何もない。

「……なあ」

 目を閉じる。

「そこにいるんだろ」

 静かな声。

「だったら」

 少しだけ、間を置いて。

「待ってろよ」

 呼吸が、ゆっくりになる。

「すぐ行く」

 その言葉だけが、やけに自然だった。

 眠りに落ちる直前、

 ほんの一瞬だけ、

「……うん」

 と、返事があった気がした。

格納庫は、いつもより騒がしかった。

 人が多い。

 整備兵だけじゃない。

 見慣れない制服の人間もいる。

 記録用の端末を持って、何かを話している。

「……来たぞ」

 誰かが小さく言う。

 視線が集まる。

 男は、それに気づいていない。

 いや、気づいているが、気にしていない。

 そのまま、自分の機体の前まで歩く。

 無残な状態だった。

 装甲は剥がれ、フレームは歪み、片腕はない。

 焼け焦げた跡が、戦闘の激しさをそのまま残している。

「……まだいけるか」

 呟く。

 機体に触れる。

 まるで、生き物の状態を確かめるみたいに。

「おい」

 後ろから声。

 振り返る。

 見慣れない男が立っていた。

 階級章だけがやけに目立つ。

「君が、あの機体のパイロットだな」

「……ああ」

 短く返す。

「少し話を聞かせてもらえるか」

「無理だ」

 即答だった。

 一瞬、周囲の空気が固まる。

「……理由を聞いても?」

「整備が先だ」

 それだけ言って、視線を機体に戻す。

「次はいつ出せる」

 整備兵の一人に向けて。

 質問の形をしているが、ほとんど確認に近い。

「……さっきも言っただろ、数日――」

「短縮できないか」

 被せる。

「部品の流用でもなんでもいい」

「動けばいい」

 整備兵が顔をしかめる。

「無茶言うな……」

「無茶はしてない」

 淡々とした声。

「時間の話をしてるだけだ」

 周囲の人間が、言葉を失う。

 そこに、さっきの男が割って入る。

「君は、自分が何をしたのか理解しているのか?」

 少し強い口調。

 男は、ゆっくりとそちらを見る。

「侵入距離、撃破数、敵陣への圧力」

「すべてが異常だ」

「単機で戦局を動かしかねないレベルだぞ」

 熱を帯びた言葉。

 評価。

 興奮。

 期待。

 それらすべてを込めて、言っている。

 だが、

「で」

 男は、短く返した。

 空気が、また止まる。

「……で、とは?」

「それで、どこまで行ける」

 男の目は、まっすぐだった。

「次は、どこまで前に出れる」

 評価には、一切興味がない。

 求めているのは、それだけ。

「……君は」

 言葉が詰まる。

「生き残ることを考えていないのか?」

 少しだけ、苛立ちが混ざる。

 当然の問いだった。

 だが、

「考えてる」

 男は、あっさり答える。

「生きてないと、行けないからな」

 それは、正しい。

 正しいはずなのに、

 どこか、決定的にズレている。

「……どこにだ」

 思わず、問いが出る。

 男は、少しだけ首を傾けた。

 考えるように。

 言葉を探すように。

 だが、

「……さあ」

 結局、そう答えた。

「でも、あるだろ」

 視線が、遠くを見る。

「この先に」

 誰も、何も言えない。

 そのとき、

「ねえ」

 不意に、柔らかい声がした気がした。

 男だけが、わずかに反応する。

「ほんとに、そこにあるの?」

 その声に、

 男は、ほんの少しだけ笑った。

「あるだろ」

 即答だった。

「じゃなきゃ、困る」

 誰もいない方向に向かっての返答。

 周囲の人間は、それを聞いていない。

 ただ、

「……なんだ?」

「今、誰と――」

 ざわめきが広がる。

 男は、もうそれを気にしていない。

 再び、機体に手を置く。

「動け」

 小さく呟く。

「まだ、行けるだろ」

 それは機体に向けた言葉か。

 それとも、

 別の何かに向けたものか。

 誰にもわからない。

 数日後。

 簡易ブリーフィングルーム。

 スクリーンには、戦況図が映し出されている。

「現在、この戦域は膠着状態にある」

「だが、一部で奇妙な報告が上がっている」

 指揮官が、データを切り替える。

 赤いライン。

 不自然に、奥まで伸びている。

「単機による深度侵入」

「複数回確認」

 ざわめき。

 それが誰のものか、全員が知っている。

「さらに――」

 別のデータ。

 断片的な通信記録。

『……この戦域、まだ落ちてないらしい』

『どこかで、防衛線があるとか』

 ノイズ混じりの音声。

 誰が発したものか、不明。

「この情報の真偽は不明だ」

「だが、もし事実であれば――」

 少しだけ、間を置く。

「突破する価値はある」

 視線が、一斉に男へ向く。

 期待。

 圧力。

 命令。

 様々なものが乗った視線。

「……どうする」

 問われる。

 男は、少しだけ黙った。

 考えているように見える。

 だが実際は、

 もう決まっている。

「行く」

 即答。

「単独で」

 周囲がざわめく。

「待て、許可は――」

「いらない」

 遮る。

「間に合わなくなる」

 それだけ。

 誰も、強く否定できない。

 理由が、わからないから。

 ただ、

 止めなければいけない気がするのに、

 止める言葉が、見つからない。

 男は立ち上がる。

「準備する」

 それだけ言って、部屋を出る。

 残された人間たちは、

 ただ、沈黙するしかなかった。

発進準備は、異様なほど静かだった。

 誰も大声を出さない。

 誰も軽口を叩かない。

 ただ、必要な確認だけが、低い声で交わされる。

 整備は終わっている。

 完全ではない。

 だが、動く。

 それで十分だった。

「……本当に行くのか」

 整備兵の一人が、ぽつりと漏らす。

 男は、答えない。

 コックピットに乗り込む。

 ハーネスを締める。

 接続。

 視界が開ける。

 機体の状態が流れ込んでくる。

 不完全。

 歪み。

 出力制限。

 すべて、認識する。

 その上で、

「……問題ない」

 短く言う。

「問題しかねえだろ……」

 小さな呟き。

 だが、もう聞いていない。

「最終確認!」

 管制の声。

「帰還ラインはここまでだ!」

 スクリーンに、境界線が表示される。

 その先は、未確認領域。

 通信不安定。

 支援不可。

 回収不能。

「越えた場合、自己責任となる!」

 当然の宣告。

 男は、それを一瞥する。

 ほんの一瞬。

「……ああ」

 それだけ。

 興味はない。

「最終判断を問う! 出撃するか!」

 間。

 普通なら、考える。

 リスク。

 成功率。

 生存率。

 だが、

「出る」

 即答。

 迷いは、存在しない。

 カタパルトが展開される。

 ロック。

 カウントが始まる。

 3。

 2。

 1。

 その瞬間、

「ねえ」

 声がした。

 いつもの、柔らかい声。

「帰ってこれるの?」

 男は、少しだけ笑った。

「帰る必要あるか?」

 即答。

「そっか」

 どこか、寂しそうな響き。

 それでも、

「……気をつけて」

 その一言だけが、やけに鮮明に残る。

「――行く」

 射出。

 空が、開ける。

 加速。

 風が、機体を叩く。

 一直線。

 迷いなく、前へ。

 味方機は、いない。

 支援もない。

 通信も、徐々に不安定になる。

 それでも、

 止まらない。

 やがて、

 スクリーンに表示されていたラインが近づく。

 帰還ライン。

 ここを越えれば、戻れない。

 常識的には。

 男は、それを見ていた。

 ほんの数秒。

 何かを考えるように。

 あるいは、

 何も考えていないのかもしれない。

「……なあ」

 小さく呟く。

「この先だろ」

 誰に向けた言葉かは、明らかだった。

 返事はない。

 それでも、

「あるんだろ」

 確かめるように、もう一度。

 沈黙。

 静かな空。

 その中で、

「……わかんないよ」

 弱い声がした気がした。

 男は、少しだけ目を細める。

「そうか」

 否定しない。

 怒りもしない。

 ただ、

「じゃあ、見に行く」

 それだけ言って、

 スロットルを押し込んだ。

 加速。

 境界線が、目前に迫る。

 警告表示が点灯する。

 帰還不能ライン接近。

 越境警告。

 通信切断予測。

 すべて、無視。

 そして、

 ――越えた。

 その瞬間、

 世界が変わる。

 通信が途切れる。

 ノイズ。

 無音。

 完全な孤立。

 レーダーも不安定になる。

 味方の反応は、消えた。

 完全に、一機だけ。

 だが、

「……静かだな」

 男は、どこか満足したように呟いた。

 余計なものが、すべて消えた感覚。

 純粋に、“前”だけが残る。

 視界の先。

 遠くに、影が見える。

 煙。

 残骸。

 そして、

 ――何もない空間。

 防衛線があるはずの位置。

 だが、

「……は?」

 初めて、声に戸惑いが混ざる。

 加速を緩める。

 近づく。

 さらに、近づく。

 そこには、

 何もなかった。

 崩壊した残骸。

 焼けた地表。

 戦闘の痕跡だけが、無数に残っている。

 だが、

 防衛線は、存在しない。

 誰もいない。

 もう、とっくに終わっている。

 風の音だけが、空を流れている。

「……なんだよ、それ」

 ぽつりと。

 理解が追いつかない。

「……ここだろ」

 確認するように、呟く。

「ここに、いるんだろ」

 返事はない。

 当然だ。

 最初から、そんなものはなかったのだから。

 それでも、

「……おい」

 少しだけ、声が荒くなる。

「ふざけんなよ」

 初めての感情。

 怒りに近いもの。

「……いるって、言っただろ」

 誰に向けた言葉なのか。

 自分でも、わかっているはずなのに。

 そのとき、

 レーダーに反応。

 単機。

 こちらに向かってくる。

 高速。

 迷いのない軌道。

 男は、ゆっくりと顔を上げる。

 視線の先。

 遠くの空に、一つの影。

 まっすぐ、こちらへ向かってくる。

「……なんだ」

 呟く。

 その影は、近づく。

 加速。

 止まらない。

 まるで、

 ――自分と同じように。

 男は、無意識にブレードに手をかけた。

 理由はない。

 ただ、

 理解してしまったから。

「……ああ」

 小さく、息を吐く。

 その表情に、初めて“納得”が浮かぶ。

「そっちか」

 機体を、わずかに前へ出す。

 迎え撃つでもなく、

 逃げるでもなく、

 ただ、

 ――ぶつかる位置へ。

 影が、はっきりと形を持つ。

 人型。

 武装。

 損傷。

 そして、

 迷いのない軌道。

 男は、静かに呟いた。

「……いたな」

 その言葉は、

 ようやく“何かを見つけた”ような響きを持っていた。

距離が、消える。

 互いに減速しない。

 回避もしない。

 一直線。

 ――衝突。

 金属が軋む。

 衝撃が、機体を揺らす。

 だが、

 止まらない。

 すれ違いざまに、刃が振るわれる。

 火花。

 装甲が裂ける。

 互いに損傷。

 それでも、

 引かない。

 即座に反転。

 再加速。

 また、ぶつかる。

 同じ動き。

 同じ間合い。

 同じ判断。

「……は」

 男が、わずかに笑う。

「ほんとに、同じだな」

 返事はない。

 だが、

 相手の機体もまた、同じように加速してくる。

 距離が詰まる。

 今度は、掴み合い。

 腕が絡む。

 関節が軋む。

 出力を押し付け合う。

 どちらも、退かない。

 ブレードが振り下ろされる。

 受ける。

 弾く。

 蹴り飛ばす。

 距離を作る。

 即座に詰める。

 呼吸のように、戦闘が続く。

 その中で、

 ほんの一瞬、

 通信が繋がる。

 ノイズ混じりの回線。

 音声。

「……なんで」

 女の声だった。

 掠れている。

 だが、はっきりとした意思がある。

「なんで、そこにいる」

 男は、一瞬だけ目を細める。

「そっちこそ」

 短く返す。

「そこに何がある」

 間。

 わずかな沈黙。

 次の瞬間、

 再び衝突。

 答えは、返ってこない。

 代わりに、攻撃が来る。

 激しい。

 無駄がない。

 そして、

 どこか、焦っている。

「……いるんだろ」

 女の声。

 斬撃の合間に、漏れる。

「ここに、まだ」

 ブレードが擦れる。

 火花。

 距離が近すぎる。

「……さあな」

 男は、淡々と答える。

「いないかもしれない」

 蹴り。

 衝撃。

 離れる。

 すぐに詰める。

「……ふざけるな!」

 女の声が、初めて強くなる。

「いるに決まってる!」

 突進。

 無理な角度。

 防御を捨てた一撃。

 男は、それを受ける。

 装甲が裂ける。

 だが、

 構わない。

「じゃあ、探せよ」

 静かな声。

「俺もそうしてる」

 その一言で、

 女の動きが、ほんのわずかに鈍る。

 理解。

 あるいは、

 共鳴。

 その隙を、逃さない。

 パイルバンカー。

 至近距離。

 打ち込む。

 鈍い衝撃。

 貫通。

 だが、

 浅い。

 決定打にはならない。

 女の機体が、後退する。

 煙。

 火花。

 それでも、

 まだ動く。

「……ああ」

 女が、息を吐く。

「そっか」

 小さく。

「お前も、か」

 その言葉で、

 すべてが、繋がる。

 男は、ゆっくりと息を吐いた。

「……ああ」

 短く、返す。

 それだけで、十分だった。

 次の瞬間、

 同時に動く。

 最後の突撃。

 もう、迷いはない。

 互いに、理解している。

 終わることも、

 止まれないことも。

 衝突。

 限界を越えた出力。

 機体が悲鳴を上げる。

 フレームが砕ける。

 関節が吹き飛ぶ。

 爆発。

 視界が白く染まる。

 そして、

 静寂。

 砂煙の中。

 機体の残骸が、地面に転がっている。

 動かない。

 もう、戦えない。

 その中から、

 二つの影が、這い出る。

 人間。

 血にまみれ、

 傷だらけで、

 それでも立つ。

 距離は、数メートル。

 互いに、ナイフを握っている。

 同じだ。

 本当に、

 何もかも。

「……まだ、やるか」

 男が言う。

 女は、少しだけ笑った。

「当たり前だろ」

 震える声。

 それでも、前に出る。

 一歩。

 また一歩。

 足取りは重い。

 だが、止まらない。

 男も、同じように歩く。

 距離が、縮まる。

 もう、逃げ場はない。

 互いに、それを理解している。

 それでも、

 止まらない。

 踏み込む。

 ナイフが振るわれる。

 受ける。

 弾く。

 遅い。

 だが、重い。

 一撃ごとに、命が削れる。

 呼吸が乱れる。

 視界が揺れる。

 それでも、

 続ける。

「……なあ」

 男が、ふと口を開く。

 斬り結びながら。

「そいつ」

 女の動きが、一瞬だけ止まる。

「まだ、生きてると思ってるのか」

 沈黙。

 風の音だけが、間を埋める。

 次の瞬間、

 女の刃が、荒れる。

「……うるさい」

 低い声。

「黙れ」

 感情が、滲む。

「いないって、言うな」

 男は、それを受けながら、

 静かに言う。

「言ってない」

 女の動きが、わずかに止まる。

「わからないだけだ」

 その一言で、

 空気が変わる。

 否定でも、肯定でもない。

 ただの事実。

 だからこそ、

 逃げ場がない。

「……じゃあ」

 女の声が、震える。

「なんで、ここに来た」

 問い。

 核心。

 男は、少しだけ考える。

 そして、

「さあ」

 いつも通りの答え。

 だが、

「でも」

 続ける。

「進まないと、いなくなる気がした」

 女が、目を見開く。

「止まったら、終わる」

 それは、

 あまりにも同じだった。

 女の手が、止まる。

 完全に、動きが止まる。

 ナイフを握ったまま、

 ただ、立ち尽くす。

 男は、踏み込む。

 ナイフを振り上げる。

 ――止まる。

 目の前。

 女の顔が、見える。

 涙で歪んでいる。

 必死に、何かを繋ぎ止めようとしている顔。

 その表情を見て、

 男は、

 理解する。

「……なんでそんな顔してる」

 静かな声。

 問いではない。

 確認。

 そして、

「……ああ」

 すべてが繋がる。

「お前も、か」

 ナイフが、止まったまま。

 腕が、動かない。

 ほんの一瞬、

 “人間”に戻る。

 その瞬間、

 女の体が、動く。

 反射。

 あるいは、本能。

 ナイフが、突き出される。

 深く。

 確実に。

 男の胸へ。

 感触。

 遅れて、痛み。

 男は、少しだけ目を見開く。

「……ああ」

 声が漏れる。

 驚きではない。

 納得に近い。

 力が抜ける。

 ナイフが、手から落ちる。

 膝が、崩れる。

 視界が、揺れる。

 女が、何か言っている。

 聞こえない。

 ただ、

 別の声がする。

「……やっと、止まったね」

 あの声。

 柔らかい声。

 ずっと聞いていた声。

 男は、少しだけ笑う。

「……ああ」

 空を見る。

 何もない空。

 それでも、

 どこか、満たされたような感覚。

「……いたな」

 小さく呟く。

 それが、

 誰に向けた言葉なのか、

 もう、自分でもわからないまま。

 視界が、白くなる。

 音が、遠ざかる。

 すべてが、消えていく。

 最後に残ったのは、

 ほんの少しだけ、温かい感覚だった。

これを元にどんどん内容を肉付けしていきたいと思っております。良ければたくさんご意見を聞かせてください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ