カッサンドラのいない戦場
小さな箱だった。
軍の刻印が、浅く刻まれているだけの、簡素な金属箱。
机の上に置かれたそれを、男はしばらく見ていた。
触れようとして、やめる。
もう一度、手を伸ばして、今度は開けた。
中には、布に包まれたものがひとつ。
――軽い。
そんな感想が、先に浮かんだ。
ゆっくりと布をほどく。
出てきたのは、ナイフだった。
見慣れている。
見間違えるはずがない。
柄の部分に、細い傷がある。
訓練中に、無理にこじ開けようとして、ついたものだと、本人は笑っていた。
「……これ、まだ使えるかな」
あのとき、そう言っていた。
男は、ナイフを手に取る。
重さを確かめるように、指でなぞる。
「なあ」
口を開く。
返事は、ない。
「お前、これ……置いてくなよ」
少しだけ、間があく。
「……取りに来いよ」
静かな部屋に、声だけが残る。
当然、返事はない。
男はそれを、特に気にした様子もなく、ナイフを机に置いた。
そのまま、壁にもたれかかる。
「……遅いな」
ぽつりと呟く。
「もう、とっくに終わっててもいいだろ」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわかっていない。
いや、わかっているのかもしれない。
ただ、それを言葉にしないだけで。
机の上のナイフを、もう一度見る。
視線が、少しだけ柔らかくなる。
そのときだった。
――警報が鳴った。
短く、鋭い音。
思考を切り裂くように、鳴り響く。
男は顔を上げる。
「……またか」
ため息のような声。
だが、体はもう動いていた。
ナイフを掴む。
一瞬だけ、迷うようにそれを見て、
「……あとでな」
机に置き直した。
部屋を出る。
廊下はすでに騒がしい。
怒号と足音が交錯している。
「敵機侵入! 第二防衛ライン接触!」
「出撃準備急げ!」
「配置は――」
声は、もう耳に入っていない。
男はそのまま格納庫へ向かう。
視界の端で、誰かが何かを言っている。
止まれ、とか。
待て、とか。
そんな言葉だった気がする。
どうでもいい。
足は止まらない。
止める理由が、ない。
格納庫の扉が開く。
そこに、それはあった。
細い。
鋭い。
無駄のないシルエット。
他の機体とは明らかに違う、異様な形。
「……来てるな」
誰にともなく、呟く。
返事はない。
男は、その機体へ歩いていく。
一歩。
また一歩。
迷いはない。
そもそも、引き返すという選択肢が、最初から存在していないように。
コックピットに乗り込む。
シートに体を沈める。
起動。
視界が開ける。
機体の感覚が、神経に接続される。
――静かになる。
外の喧騒が、遠くなる。
代わりに、別の感覚が満ちてくる。
研ぎ澄まされた、一本の線のような意識。
「……行くか」
短く言う。
誰に対してでもない。
それでも、
「うん」
と、返事がした気がした。
男は、少しだけ笑った。
出撃シーケンスが進む。
「待て! お前の機体は――」
通信が入る。
途中で切る。
必要ない。
ロック解除。
カタパルト展開。
視界の先に、空が開ける。
その向こうに、敵がいる。
理由はない。
目的も、ない。
ただ、
――そこにあるから、行く。
「……すぐ行く」
誰にも届かない声で、そう言って。
機体は、射出された。
機体が空へ放り出される。
重力が一瞬だけ消え、次の瞬間、強引に引き戻される。
推進機が点火。
視界の端で、数値が跳ね上がる。
警告音。
無視。
男はスロットルをさらに押し込んだ。
加速。
空気を裂くような振動が、機体を震わせる。
「おい、待て! 速度制限――」
通信。
切る。
前を見る。
敵影。
複数。
編隊を組んでいる。
距離、まだ遠い。
だが――
「……見えてる」
呟く。
照準も取らない。
ロックもしない。
ただ、一直線に突っ込む。
敵編隊が、こちらに気づく。
動く。
迎撃態勢。
ミサイルが展開される。
警告音が増える。
ロックオン。
回避推奨。
すべて、無視。
「――来いよ」
機体が、さらに加速する。
限界値を越える。
警告が赤に変わる。
それでも止めない。
敵が発射する。
光が走る。
無数の軌跡が、こちらへ収束する。
回避不能な角度。
普通なら。
男は、ほんのわずかに機体を傾けた。
それだけ。
最小限の動き。
ミサイルが、機体のすぐ横をかすめていく。
爆発。
衝撃。
だが、進路は変わらない。
「――遅い」
次の瞬間、距離が消えた。
敵の一機、その正面。
相手が反応するより速く、
ブレードが抜かれる。
一閃。
装甲が裂ける。
内部が露出する。
そのまま通過。
振り返らない。
後ろで、爆発。
もう一機。
すれ違いざまに、腕を掴む。
引き寄せる。
パイルバンカー。
打ち込む。
鈍い衝撃。
貫通。
離脱。
そのまま前へ。
「な、なんだあいつ――!」
敵通信が漏れる。
混乱。
陣形が崩れる。
だが男は、聞いていない。
もう次を見ている。
次の敵。
そのさらに奥。
――もっと先。
味方機が追いつこうとする。
「深追いするな! ラインを――」
通信。
やはり切る。
意味がない。
ラインなど、最初から見ていない。
敵が距離を取ろうとする。
後退。
再編。
それを、許さない。
さらに加速。
警告音が、途切れなく鳴る。
機体フレームに負荷。
限界値、突破。
「……いいだろ」
誰に言うでもなく、呟く。
「まだ行ける」
応答はない。
――はずだった。
「無茶だよ、それ」
ふと、声がした気がした。
柔らかい声。
聞き慣れている。
男は、少しだけ笑う。
「うるさいな」
機体を傾ける。
敵の射線を、紙一重で外す。
「そっちが遅いんだろ」
さらに一機。
さらにその奥。
止まらない。
減速しない。
戦っているのではない。
――突き抜けている。
気づけば、周囲に味方はいない。
敵も、散開している。
だが関係ない。
まだ前がある。
まだ奥がある。
「……まだだろ」
呟く。
何に対してかは、わからない。
ただ、
そこに“あるはずのもの”を探すように。
さらに進もうとした、そのとき。
――直撃。
視界が揺れる。
警告が一斉に鳴る。
遅れてきた砲撃。
背部に命中。
姿勢が崩れる。
だが、
「――だから?」
機体を無理やり立て直す。
スラスターが悲鳴を上げる。
まだ動く。
なら、進む。
再加速。
だが次の瞬間、
別方向からの攻撃。
回避が間に合わない。
衝撃。
片腕が、吹き飛ぶ。
それでも、
止まらない。
「……関係ない」
ブレードを逆手に持ち替える。
残った腕で、突っ込む。
敵が、明確に距離を取る。
恐れている。
それでも、
届かない。
距離が、開く。
速度が、落ちる。
機体が、限界に達する。
出力低下。
警告。
視界が、揺れる。
「……ちっ」
初めて、舌打ち。
その瞬間を、逃さない。
集中砲火。
光が、視界を埋める。
回避不能。
直撃。
爆発。
機体が、沈む。
高度が落ちる。
制御不能。
それでも、
男は前を見ていた。
「……まだ」
手を伸ばす。
届かない距離へ。
そのまま、
意識が、途切れた。
白い天井だった。
ぼやけた視界の中で、それだけがやけに鮮明に見えた。
無機質な光。
均一な色。
どこにでもあるような、医務室の天井。
「……生きてるか?」
声がした。
男は、ゆっくりと瞬きをする。
焦点が合う。
覗き込んでいる顔が見えた。
知らない顔。
いや、見たことはあるのかもしれない。
ただ、覚えていないだけで。
「……ああ」
短く返す。
それだけで、周囲の空気が少し緩む。
「よかった……」
「奇跡だぞ、お前……」
「機体、ほぼ全損だぞ」
声がいくつも重なる。
安堵。
呆れ。
興奮。
いろんな感情が混ざっている。
男は、ゆっくりと上体を起こした。
体が軋む。
だが、気にしない。
「どこまで行った?」
最初に出た言葉は、それだった。
一瞬、空気が止まる。
「……は?」
「侵入距離だ」
淡々とした声。
「どこまで行けた」
誰もすぐには答えない。
代わりに、別の言葉が返ってくる。
「いや、それよりお前……」
「よく生きて――」
「で」
遮る。
感情のない声で。
「どこまでだ」
沈黙。
視線が交差する。
困惑が、はっきりと場に広がる。
やがて、一人が口を開いた。
「……敵前線は抜いた」
「中間ラインの、かなり奥まで行ってる」
「ただ、その先は――」
「止められたか」
男が言う。
確認ではない。
事実の整理。
「……ああ」
短い肯定。
それで十分だった。
男は、視線を落とす。
自分の手を見る。
わずかに震えている。
怪我のせいか。
それとも別の理由か。
「……まだ、足りないな」
ぽつりと呟く。
誰に聞かせるでもなく。
「は?」
思わず、誰かが声を漏らす。
「いやいやいや、十分だろ……!」
「お前、単機であそこまで――」
「違う」
即答。
「届いてない」
それだけ言って、ベッドから足を下ろす。
「おい、待て! 安静――」
制止。
聞かない。
立ち上がる。
少しふらつくが、そのまま歩き出す。
「どこ行く気だ!」
「整備」
短く返す。
「機体、まだ使えるか」
今度は、誰もすぐに答えられなかった。
「……無理だ」
やがて出た言葉。
「フレーム歪んでる。駆動系も半分死んでる」
「修復にどれだけかかるか――」
「どれくらいだ」
被せる。
「時間だ」
苛立ちすらない声で。
「どれくらいで、動く」
整備兵が言葉に詰まる。
「……最短でも、数日」
「……そうか」
それだけ。
男は、それ以上何も言わない。
怒りも、落胆もない。
ただ、
「……遅いな」
小さく呟く。
その一言だけが、妙に重く落ちた。
医務室を出る。
誰も止められない。
止める理由が、言葉にならない。
廊下を歩く。
足音だけが響く。
やがて、自室の前で止まる。
ドアを開ける。
中は、出たときのままだった。
机。
椅子。
そして、
ナイフ。
男は、ゆっくりとそれに近づく。
手に取る。
少しだけ、安心したように息を吐く。
「……悪い」
ぽつりと。
「思ったより、遠いな」
返事はない。
それでも、構わない。
「でも」
ナイフを軽く回す。
手に馴染む感覚。
「行けるだろ」
ほんのわずかに、口元が緩む。
「まだ」
沈黙。
静かな部屋。
そのはずなのに、
「……無茶しすぎ」
声がした気がした。
男は、笑う。
「知ってる」
即答だった。
「でも、それしかないだろ」
ナイフを机に置く。
今度は、すぐ手の届く位置に。
ベッドに倒れ込む。
天井を見る。
白い。
何もない。
「……なあ」
目を閉じる。
「そこにいるんだろ」
静かな声。
「だったら」
少しだけ、間を置いて。
「待ってろよ」
呼吸が、ゆっくりになる。
「すぐ行く」
その言葉だけが、やけに自然だった。
眠りに落ちる直前、
ほんの一瞬だけ、
「……うん」
と、返事があった気がした。
格納庫は、いつもより騒がしかった。
人が多い。
整備兵だけじゃない。
見慣れない制服の人間もいる。
記録用の端末を持って、何かを話している。
「……来たぞ」
誰かが小さく言う。
視線が集まる。
男は、それに気づいていない。
いや、気づいているが、気にしていない。
そのまま、自分の機体の前まで歩く。
無残な状態だった。
装甲は剥がれ、フレームは歪み、片腕はない。
焼け焦げた跡が、戦闘の激しさをそのまま残している。
「……まだいけるか」
呟く。
機体に触れる。
まるで、生き物の状態を確かめるみたいに。
「おい」
後ろから声。
振り返る。
見慣れない男が立っていた。
階級章だけがやけに目立つ。
「君が、あの機体のパイロットだな」
「……ああ」
短く返す。
「少し話を聞かせてもらえるか」
「無理だ」
即答だった。
一瞬、周囲の空気が固まる。
「……理由を聞いても?」
「整備が先だ」
それだけ言って、視線を機体に戻す。
「次はいつ出せる」
整備兵の一人に向けて。
質問の形をしているが、ほとんど確認に近い。
「……さっきも言っただろ、数日――」
「短縮できないか」
被せる。
「部品の流用でもなんでもいい」
「動けばいい」
整備兵が顔をしかめる。
「無茶言うな……」
「無茶はしてない」
淡々とした声。
「時間の話をしてるだけだ」
周囲の人間が、言葉を失う。
そこに、さっきの男が割って入る。
「君は、自分が何をしたのか理解しているのか?」
少し強い口調。
男は、ゆっくりとそちらを見る。
「侵入距離、撃破数、敵陣への圧力」
「すべてが異常だ」
「単機で戦局を動かしかねないレベルだぞ」
熱を帯びた言葉。
評価。
興奮。
期待。
それらすべてを込めて、言っている。
だが、
「で」
男は、短く返した。
空気が、また止まる。
「……で、とは?」
「それで、どこまで行ける」
男の目は、まっすぐだった。
「次は、どこまで前に出れる」
評価には、一切興味がない。
求めているのは、それだけ。
「……君は」
言葉が詰まる。
「生き残ることを考えていないのか?」
少しだけ、苛立ちが混ざる。
当然の問いだった。
だが、
「考えてる」
男は、あっさり答える。
「生きてないと、行けないからな」
それは、正しい。
正しいはずなのに、
どこか、決定的にズレている。
「……どこにだ」
思わず、問いが出る。
男は、少しだけ首を傾けた。
考えるように。
言葉を探すように。
だが、
「……さあ」
結局、そう答えた。
「でも、あるだろ」
視線が、遠くを見る。
「この先に」
誰も、何も言えない。
そのとき、
「ねえ」
不意に、柔らかい声がした気がした。
男だけが、わずかに反応する。
「ほんとに、そこにあるの?」
その声に、
男は、ほんの少しだけ笑った。
「あるだろ」
即答だった。
「じゃなきゃ、困る」
誰もいない方向に向かっての返答。
周囲の人間は、それを聞いていない。
ただ、
「……なんだ?」
「今、誰と――」
ざわめきが広がる。
男は、もうそれを気にしていない。
再び、機体に手を置く。
「動け」
小さく呟く。
「まだ、行けるだろ」
それは機体に向けた言葉か。
それとも、
別の何かに向けたものか。
誰にもわからない。
数日後。
簡易ブリーフィングルーム。
スクリーンには、戦況図が映し出されている。
「現在、この戦域は膠着状態にある」
「だが、一部で奇妙な報告が上がっている」
指揮官が、データを切り替える。
赤いライン。
不自然に、奥まで伸びている。
「単機による深度侵入」
「複数回確認」
ざわめき。
それが誰のものか、全員が知っている。
「さらに――」
別のデータ。
断片的な通信記録。
『……この戦域、まだ落ちてないらしい』
『どこかで、防衛線があるとか』
ノイズ混じりの音声。
誰が発したものか、不明。
「この情報の真偽は不明だ」
「だが、もし事実であれば――」
少しだけ、間を置く。
「突破する価値はある」
視線が、一斉に男へ向く。
期待。
圧力。
命令。
様々なものが乗った視線。
「……どうする」
問われる。
男は、少しだけ黙った。
考えているように見える。
だが実際は、
もう決まっている。
「行く」
即答。
「単独で」
周囲がざわめく。
「待て、許可は――」
「いらない」
遮る。
「間に合わなくなる」
それだけ。
誰も、強く否定できない。
理由が、わからないから。
ただ、
止めなければいけない気がするのに、
止める言葉が、見つからない。
男は立ち上がる。
「準備する」
それだけ言って、部屋を出る。
残された人間たちは、
ただ、沈黙するしかなかった。
発進準備は、異様なほど静かだった。
誰も大声を出さない。
誰も軽口を叩かない。
ただ、必要な確認だけが、低い声で交わされる。
整備は終わっている。
完全ではない。
だが、動く。
それで十分だった。
「……本当に行くのか」
整備兵の一人が、ぽつりと漏らす。
男は、答えない。
コックピットに乗り込む。
ハーネスを締める。
接続。
視界が開ける。
機体の状態が流れ込んでくる。
不完全。
歪み。
出力制限。
すべて、認識する。
その上で、
「……問題ない」
短く言う。
「問題しかねえだろ……」
小さな呟き。
だが、もう聞いていない。
「最終確認!」
管制の声。
「帰還ラインはここまでだ!」
スクリーンに、境界線が表示される。
その先は、未確認領域。
通信不安定。
支援不可。
回収不能。
「越えた場合、自己責任となる!」
当然の宣告。
男は、それを一瞥する。
ほんの一瞬。
「……ああ」
それだけ。
興味はない。
「最終判断を問う! 出撃するか!」
間。
普通なら、考える。
リスク。
成功率。
生存率。
だが、
「出る」
即答。
迷いは、存在しない。
カタパルトが展開される。
ロック。
カウントが始まる。
3。
2。
1。
その瞬間、
「ねえ」
声がした。
いつもの、柔らかい声。
「帰ってこれるの?」
男は、少しだけ笑った。
「帰る必要あるか?」
即答。
「そっか」
どこか、寂しそうな響き。
それでも、
「……気をつけて」
その一言だけが、やけに鮮明に残る。
「――行く」
射出。
空が、開ける。
加速。
風が、機体を叩く。
一直線。
迷いなく、前へ。
味方機は、いない。
支援もない。
通信も、徐々に不安定になる。
それでも、
止まらない。
やがて、
スクリーンに表示されていたラインが近づく。
帰還ライン。
ここを越えれば、戻れない。
常識的には。
男は、それを見ていた。
ほんの数秒。
何かを考えるように。
あるいは、
何も考えていないのかもしれない。
「……なあ」
小さく呟く。
「この先だろ」
誰に向けた言葉かは、明らかだった。
返事はない。
それでも、
「あるんだろ」
確かめるように、もう一度。
沈黙。
静かな空。
その中で、
「……わかんないよ」
弱い声がした気がした。
男は、少しだけ目を細める。
「そうか」
否定しない。
怒りもしない。
ただ、
「じゃあ、見に行く」
それだけ言って、
スロットルを押し込んだ。
加速。
境界線が、目前に迫る。
警告表示が点灯する。
帰還不能ライン接近。
越境警告。
通信切断予測。
すべて、無視。
そして、
――越えた。
その瞬間、
世界が変わる。
通信が途切れる。
ノイズ。
無音。
完全な孤立。
レーダーも不安定になる。
味方の反応は、消えた。
完全に、一機だけ。
だが、
「……静かだな」
男は、どこか満足したように呟いた。
余計なものが、すべて消えた感覚。
純粋に、“前”だけが残る。
視界の先。
遠くに、影が見える。
煙。
残骸。
そして、
――何もない空間。
防衛線があるはずの位置。
だが、
「……は?」
初めて、声に戸惑いが混ざる。
加速を緩める。
近づく。
さらに、近づく。
そこには、
何もなかった。
崩壊した残骸。
焼けた地表。
戦闘の痕跡だけが、無数に残っている。
だが、
防衛線は、存在しない。
誰もいない。
もう、とっくに終わっている。
風の音だけが、空を流れている。
「……なんだよ、それ」
ぽつりと。
理解が追いつかない。
「……ここだろ」
確認するように、呟く。
「ここに、いるんだろ」
返事はない。
当然だ。
最初から、そんなものはなかったのだから。
それでも、
「……おい」
少しだけ、声が荒くなる。
「ふざけんなよ」
初めての感情。
怒りに近いもの。
「……いるって、言っただろ」
誰に向けた言葉なのか。
自分でも、わかっているはずなのに。
そのとき、
レーダーに反応。
単機。
こちらに向かってくる。
高速。
迷いのない軌道。
男は、ゆっくりと顔を上げる。
視線の先。
遠くの空に、一つの影。
まっすぐ、こちらへ向かってくる。
「……なんだ」
呟く。
その影は、近づく。
加速。
止まらない。
まるで、
――自分と同じように。
男は、無意識にブレードに手をかけた。
理由はない。
ただ、
理解してしまったから。
「……ああ」
小さく、息を吐く。
その表情に、初めて“納得”が浮かぶ。
「そっちか」
機体を、わずかに前へ出す。
迎え撃つでもなく、
逃げるでもなく、
ただ、
――ぶつかる位置へ。
影が、はっきりと形を持つ。
人型。
武装。
損傷。
そして、
迷いのない軌道。
男は、静かに呟いた。
「……いたな」
その言葉は、
ようやく“何かを見つけた”ような響きを持っていた。
距離が、消える。
互いに減速しない。
回避もしない。
一直線。
――衝突。
金属が軋む。
衝撃が、機体を揺らす。
だが、
止まらない。
すれ違いざまに、刃が振るわれる。
火花。
装甲が裂ける。
互いに損傷。
それでも、
引かない。
即座に反転。
再加速。
また、ぶつかる。
同じ動き。
同じ間合い。
同じ判断。
「……は」
男が、わずかに笑う。
「ほんとに、同じだな」
返事はない。
だが、
相手の機体もまた、同じように加速してくる。
距離が詰まる。
今度は、掴み合い。
腕が絡む。
関節が軋む。
出力を押し付け合う。
どちらも、退かない。
ブレードが振り下ろされる。
受ける。
弾く。
蹴り飛ばす。
距離を作る。
即座に詰める。
呼吸のように、戦闘が続く。
その中で、
ほんの一瞬、
通信が繋がる。
ノイズ混じりの回線。
音声。
「……なんで」
女の声だった。
掠れている。
だが、はっきりとした意思がある。
「なんで、そこにいる」
男は、一瞬だけ目を細める。
「そっちこそ」
短く返す。
「そこに何がある」
間。
わずかな沈黙。
次の瞬間、
再び衝突。
答えは、返ってこない。
代わりに、攻撃が来る。
激しい。
無駄がない。
そして、
どこか、焦っている。
「……いるんだろ」
女の声。
斬撃の合間に、漏れる。
「ここに、まだ」
ブレードが擦れる。
火花。
距離が近すぎる。
「……さあな」
男は、淡々と答える。
「いないかもしれない」
蹴り。
衝撃。
離れる。
すぐに詰める。
「……ふざけるな!」
女の声が、初めて強くなる。
「いるに決まってる!」
突進。
無理な角度。
防御を捨てた一撃。
男は、それを受ける。
装甲が裂ける。
だが、
構わない。
「じゃあ、探せよ」
静かな声。
「俺もそうしてる」
その一言で、
女の動きが、ほんのわずかに鈍る。
理解。
あるいは、
共鳴。
その隙を、逃さない。
パイルバンカー。
至近距離。
打ち込む。
鈍い衝撃。
貫通。
だが、
浅い。
決定打にはならない。
女の機体が、後退する。
煙。
火花。
それでも、
まだ動く。
「……ああ」
女が、息を吐く。
「そっか」
小さく。
「お前も、か」
その言葉で、
すべてが、繋がる。
男は、ゆっくりと息を吐いた。
「……ああ」
短く、返す。
それだけで、十分だった。
次の瞬間、
同時に動く。
最後の突撃。
もう、迷いはない。
互いに、理解している。
終わることも、
止まれないことも。
衝突。
限界を越えた出力。
機体が悲鳴を上げる。
フレームが砕ける。
関節が吹き飛ぶ。
爆発。
視界が白く染まる。
そして、
静寂。
砂煙の中。
機体の残骸が、地面に転がっている。
動かない。
もう、戦えない。
その中から、
二つの影が、這い出る。
人間。
血にまみれ、
傷だらけで、
それでも立つ。
距離は、数メートル。
互いに、ナイフを握っている。
同じだ。
本当に、
何もかも。
「……まだ、やるか」
男が言う。
女は、少しだけ笑った。
「当たり前だろ」
震える声。
それでも、前に出る。
一歩。
また一歩。
足取りは重い。
だが、止まらない。
男も、同じように歩く。
距離が、縮まる。
もう、逃げ場はない。
互いに、それを理解している。
それでも、
止まらない。
踏み込む。
ナイフが振るわれる。
受ける。
弾く。
遅い。
だが、重い。
一撃ごとに、命が削れる。
呼吸が乱れる。
視界が揺れる。
それでも、
続ける。
「……なあ」
男が、ふと口を開く。
斬り結びながら。
「そいつ」
女の動きが、一瞬だけ止まる。
「まだ、生きてると思ってるのか」
沈黙。
風の音だけが、間を埋める。
次の瞬間、
女の刃が、荒れる。
「……うるさい」
低い声。
「黙れ」
感情が、滲む。
「いないって、言うな」
男は、それを受けながら、
静かに言う。
「言ってない」
女の動きが、わずかに止まる。
「わからないだけだ」
その一言で、
空気が変わる。
否定でも、肯定でもない。
ただの事実。
だからこそ、
逃げ場がない。
「……じゃあ」
女の声が、震える。
「なんで、ここに来た」
問い。
核心。
男は、少しだけ考える。
そして、
「さあ」
いつも通りの答え。
だが、
「でも」
続ける。
「進まないと、いなくなる気がした」
女が、目を見開く。
「止まったら、終わる」
それは、
あまりにも同じだった。
女の手が、止まる。
完全に、動きが止まる。
ナイフを握ったまま、
ただ、立ち尽くす。
男は、踏み込む。
ナイフを振り上げる。
――止まる。
目の前。
女の顔が、見える。
涙で歪んでいる。
必死に、何かを繋ぎ止めようとしている顔。
その表情を見て、
男は、
理解する。
「……なんでそんな顔してる」
静かな声。
問いではない。
確認。
そして、
「……ああ」
すべてが繋がる。
「お前も、か」
ナイフが、止まったまま。
腕が、動かない。
ほんの一瞬、
“人間”に戻る。
その瞬間、
女の体が、動く。
反射。
あるいは、本能。
ナイフが、突き出される。
深く。
確実に。
男の胸へ。
感触。
遅れて、痛み。
男は、少しだけ目を見開く。
「……ああ」
声が漏れる。
驚きではない。
納得に近い。
力が抜ける。
ナイフが、手から落ちる。
膝が、崩れる。
視界が、揺れる。
女が、何か言っている。
聞こえない。
ただ、
別の声がする。
「……やっと、止まったね」
あの声。
柔らかい声。
ずっと聞いていた声。
男は、少しだけ笑う。
「……ああ」
空を見る。
何もない空。
それでも、
どこか、満たされたような感覚。
「……いたな」
小さく呟く。
それが、
誰に向けた言葉なのか、
もう、自分でもわからないまま。
視界が、白くなる。
音が、遠ざかる。
すべてが、消えていく。
最後に残ったのは、
ほんの少しだけ、温かい感覚だった。
これを元にどんどん内容を肉付けしていきたいと思っております。良ければたくさんご意見を聞かせてください。




