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『氷の女王は、俺のシャッターに恋をする』  作者: 天パ猫(てんぱねこ)


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第46話:【二人の暗室:光と影のティーチング】

【沈黙の部屋:二人きりの講座】

数日後。四人での「打ち上げの打ち上げ」を週末に控え、冬華は放課後の湊の家を訪れていた。実里が塾で不在の、静かな湊の部屋には、西日が長く差し込み、浮遊する細かな埃さえも光の粒子のように輝かせている。


「……湊くん。あまり、ジロジロ見ないでちょうだい。不慣れなものを持っている自覚はあるわ」


冬華は湊のベッドの端に腰掛け、彼から手渡された一眼レフカメラを、まるで壊れやすい工芸品を扱うように両手で包み込んでいた。カーテンの隙間から漏れる黄金色の光が、彼女の長い睫毛に金色の縁取りを作り、その真剣な眼差しを際立たせている。


「ごめん、冬華ちゃんがカメラを持ってる姿があまりに新鮮でさ。……じゃあ、まずは基本の『露出の

三要素』から教えるよ。写真は、光をどう操るかがすべてなんだ」


湊は冬華の背後に回り込み、彼女の手元を覗き込むようにして、背後から包むような形でカメラに手を添えた。ふわりと冬華の髪から漂うシャンプーの香りが鼻をくすぐり、湊は一瞬言葉を詰まらせたが、冬華の身体が微かに強張ったのを感じ、居住まいを正して教え始めた。


「まず、基本はこの三つ。f値(絞り)、シャッタースピード、そしてISO感度だ。これらを組み合わせて『適正露出』、つまり理想の明るさを作るんだよ」


湊は冬華の指を誘導し、サブコマンドダイヤルに触れさせた。


「このダイヤルでf値を動かしてごらん。数値を小さくして絞りを開けば、レンズから入る光が増えて背景が綺麗にボケる。逆に数値を大きくして絞り込めば、手前から奥までピントが合う。冬華ちゃんを撮る時、僕がよく背景をぼかすのは、君という存在を背景から切り離して際立たせたいからなんだ」


「……光の量と、被写界深度の反比例の関係ね。論理的だわ。……でも、このISO感度というのは?」


「それはセンサーが光を感じる敏感さのことだよ。暗い場所では数値を上げれば明るく撮れるけど、上げすぎると画像にノイズが乗ってザラついてしまう。だから、なるべく低く保つのが基本だね。そしてWBホワイトバランス。これは光の色の補正だ。太陽光、電球、曇天……。今のこの西日の赤さを活かしたいなら『日陰』設定にすると、より暖かみが増すよ」


冬華は湊の説明を、まるで精密な数式を解くかのような集中力で聞き入っていた。


「設定を覚えたら、次は『構図』だ。ただ漫然と真ん中に置くだけじゃなく、意図を持って配置する。一番の基本は『三分割法』。画面を縦横三等分する線を引き、その交点に主役を置く。それだけで写真に物語性が生まれるんだ」


「……黄金比に基づいた配置ね。確かに視線の誘導がスムーズになるわ」

「そう。他にも、主題を強調する『日の丸構図』や、自然界の最も美しい曲線と言われる『フィボナッチ螺旋』に沿った配置……。これらを意識するだけで、写真は単なる記録から『表現』に変わる。そして、何より大事なのが光の向きだ」


湊は冬華の肩を優しく回し、窓の方を向かせた。


「今、冬華ちゃんに正面から当たっているのが『順光』。色が鮮やかに出るけど、影が消えて平面的になりやすい。逆に、窓を背にするのが『逆光』だ。髪の輪郭が光って幻想的になるけど、顔が暗くなりやすい。だから、カメラの『測光モード』をスポット測光にして、顔の明るさに合わせるんだよ」


冬華がレンズの奥に瞳を凝らす。ファインダーの中には、至近距離で見つめ返す湊の瞳が、西日を反射してキラキラと輝いていた。

「……湊くん。あなたの言う通りだわ。レンズを通すと、世界がまるで別の法則で動いているように見える。……明暗の差、色温度、そして一瞬の配置。……香織さんは、この複雑な計算を、感覚だけでこなしていたのね」


冬華はファインダーから目を離さず、震える声で続けた。


「私、もっと知りたい。あなたがどんな計算で、どんな感情で、私を切り取ってきたのか。……そして今度は私が、この数学的な美しさの中に、あなたへの『独占欲』を込めて現像して見せるわ」

湊は、冬華のその強烈な学習意欲と、写真への情熱に圧倒されながらも、心からの喜びを感じていた。

二人で同じ機材を操り、同じ光を語り合う。

その時間は、どんな言葉よりも深く、二人の魂を一つの「作品」として現像していくようだった。


「……湊くん」 冬華はファインダーを覗いたまま、ポツリと漏らした。


「香織さんは、このレンズを通して、ずっとあなたを見ていたのね。……ピントを合わせ、シャッターを切るたびに、あなたの心に触れていた。……それが、たまらなく癪なの」


冬華はカメラを下ろし、湊を真っ直ぐに見上げた。西日に照らされた彼女の瞳は、切実な熱を帯びている。


「数学的に完璧な構図なら、私にも作れる。けれど、香織さんが撮ったあの写真のような『体温』は、どうすれば写るのかしら。……教えて、湊くん。私、彼女が撮ったあなたよりも、もっと深いところにあるあなたを、私の手で現像したいの」


湊は、冬華のその強烈な独占欲を愛おしく感じ、彼女の頬に優しく手を添えた。


「冬華ちゃん。……写真は、撮り手の心が鏡みたいに映るんだ。香織には、香織の視点がある。でも、今の僕を一番近くで、一番深く知っているのは君だよ。……君が僕に向けるその熱量こそが、どんな技術よりも最高の『光』になるんだ」


湊は冬華の指を、シャッターボタンの上にそっと重ねた。


練習相手モデルは僕だ。……君の好きなように、僕を切り取って」


湊の部屋に差し込む西日は、刻一刻とその色を濃くし、深いオレンジ色から燃えるような朱色へと変化していた。埃が光の粒となって舞う静寂の中、湊は冬華の指の上に自分の指を重ね、カメラのホールドを正した。


「……じゃあ、冬華ちゃん。そのままファインダーを覗いて。僕の右目のあたりに、測光ポイントを合わせて」


冬華は促されるままに、小さな窓の奥へ瞳を凝らした。

レンズ越しに見る世界は、肉眼で見るよりもずっと輪郭が際立って見えた。数分前に教わったばかりの理屈が、今、彼女の視界の中で具体的な「像」として結実していく。


(……ああ、そうか。これが湊くんの見ていた景色なのね)

冬華の心臓が、トクンと高く跳ねた。


ファインダーの中には、西日を背負い、逆光のハレーションの中で柔らかく輪郭を溶かした湊がいた。

f値を極限まで開放したことで、背景にある本棚や勉強机は美しい琥珀色の光の中に霧散し、ただ一人の少年だけが、鮮明な「真実」として浮き彫りになっている。


冬華は、自分の指先が微かに震えているのに気づいた。それは機械への不慣れからくる緊張ではなく、他者の魂の領域に、カメラという鋭利な装置を介して土足で踏み込んでいくような、畏怖に近い興奮だった。


(……湊くん。あなたは、こんなにも剥き出しの光の中に私を置いていたの? こんなにも狂おしいほどに、私という存在だけを肯定するような眼差しで、シャッターを切っていたのね……)


冬華は、かつて香織が撮った写真に感じた嫉妬の意味を、ようやく真に理解した。香織は技術を知っていたのではない。湊の瞳の奥にある、この「無垢なまでの献身」の正体を、レンズ越しに暴き出していたのだ。


湊は、冬華がファインダー越しに自分を凝視したまま動かなくなったのを感じ、微笑んだ。

「冬華ちゃん。息、止まってるよ。……大丈夫、僕はどこにも行かない。君が一番『これだ』と思う瞬間まで、ずっと待ってるから」


湊のその声が、冬華の迷いを断ち切った。


(……私が見つける。他の誰でもない、私の指先で、この瞬間のあなたを永遠に閉じ込めてみせる)

冬華は意識的に深く、熱い息を吐き出した。教わった通り、三分割法の交点に湊の瞳を置こうとするが、緊張でカメラが僅かに揺れる。完璧主義の彼女にしては珍しく、指先が不器用な迷いを見せていた。それでも、彼女は胸を締め付けるような独占欲を指先に込め、夢中でシャッターを切った。


カシャッ。


指先に伝わる、一眼レフ特有の重厚なミラーの衝撃。

静かな部屋に響いたその音は、冬華にとって、湊の心の深淵を撃ち抜いた銃声のようにも、あるいは新しい命が産声を上げた瞬間のようにも聞こえた。


「……撮れたわ」


冬華はカメラを下ろし、モニターを確認するのも忘れて湊を見つめた。

湊は、冬華の瞳がこれまで見たことがないほど潤み、情熱に燃えているのを見て、自分の胸の奥が熱く疼くのを感じた。


湊は、彼女の手からカメラを受け取ると、プレビューボタンを押した。


そこに写っていたのは、プロのような完璧な一枚ではなかった。


ピントは僅かに甘く、構図も教えた三分割法から少しだけズレている。しかし、その「不器用なズレ」こそが、彼女がいかに必死に、余裕をなくして自分を見つめていたかの証左だった。西日の残光の中で、これ以上ないほど甘く、同時にどこか切なげな表情で微笑む自分。湊自身でさえ、自分がこんなにも「誰か

を愛している顔」をしているとは知らなかった。


「……どうかしら、湊くん。合格……かしら? 少し、手元が狂ってしまったけれど……」


冬華は不安げに、けれど確かな期待を込めて湊を覗き込む。湊は、その写真に宿る、技術を超えた「愛」の重さに胸を打たれ、言葉を絞り出すようにして答えた。


「合格どころじゃないよ。……僕、自分を撮られてこんなに鳥肌が立ったのは初めてだ。この少し甘いピントが、かえって今の僕たちの距離を感じさせる。……冬華ちゃん、君は最高に才能のある、……そして最高に恐しいカメラマンだね」


冬華はそれを聞いて、誇らしげに、そして悪戯っぽく口角を上げた。


「当然よ。あなたの教え子が、誰よりもあなたを独占したいと願っている『氷室冬華』なんですもの。……でも、次はもっと上手く撮ってみせるわ。このカメラで、あなたのすべてを暴くために」

二人の間に流れる時間は、もはや師匠と弟子のものではなく、表現という名の愛を交わし合う共犯者のそれへと変わっていた。


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