第40話:【女王の帰還と、氷解の兆し】
【夏休み明けの喧騒:柔らかくなった女王様】
九月。校庭の隅で鳴き続ける蝉の声が、まだ夏が去りきっていないことを告げていた。 夏休み明けの登校日。昇降口を抜けて教室へと向かう湊と冬華の背中には、これまでにないほど強烈な視線の束が突き刺さっていた。
無理もないことだった。パリでのジャン・ルノワールとの仕事、そして世界的な有名メゾンのミューズ抜擢。成瀬結衣が戦略的に流した「パリの朝陽に照らされた奇跡の一枚」は、SNSを通じてまたたく間に拡散され、今や二人は校内どころか、業界からも注目される時の人となっていたからだ。
湊が教室の扉を開けると、騒がしかった室内が一瞬で静まり返った。 クラスメイトたちの視線は、湊のすぐ後ろを歩く冬華に釘付けになった。かつての彼女は、一分の隙もない完璧な制服の着こなしと、他者を拒絶するような冷徹な美しさを纏った「氷の女王」そのものだった。彼女が歩くだけで周囲の気温が数度下がるような、そんな近寄りがたい圧があった。
けれど、今の冬華から放たれる空気は、それとは根本から異なっていた。 背筋を伸ばした凛とした気品はそのままに、その瞳の奥には、凍てつく冬が去った後の春の光のような、穏やかで柔らかな色彩が宿っていた。
「……おはよう、みんな」
冬華が少しだけ照れくさそうに、けれど真っ直ぐにクラスメイトたちを見渡して挨拶をした。 その瞬間、教室内を支配したのは、爆弾が落ちたかのような衝撃と、その後の凄まじい歓声だった。
「えっ……い、今、氷室さんが挨拶した!? 幻聴じゃないよな!?」 「なんか……すごく綺麗になったっていうか、雰囲気が優しくなってない?」 「ちょっと、肌のツヤとかヤバくない? パリの美容法!? それとも……」
女子たちが堰を切ったように冬華の周りに駆け寄り、口々に質問を浴びせ始める。以前なら、そんな無遠慮な接近には冷ややかな視線で応えていた冬華が、今は戸惑いながらも「パリの朝はね、とても空気が冷たくて……」と、一つ一つの問いに丁寧に答えようとしていた。
その光景を、湊は自分の席から眩しそうに眺めていた。 彼女を縛っていた「氷室」という重圧、そして「完璧であらねばならない」という呪い。それらがパリの朝陽と、あの暗室での涙で溶け去ったのだと、湊は確信した。
(……冬華ちゃん、本当に変わったな)
湊は、彼女が自分以外の人間と笑い合っている姿を見て、胸の奥が熱くなるのを感じた。それと同時に、自分だけが知っていた「柔らかい彼女」を他人に知られていくことへの、小さな、けれど確かな独占欲が首をもたげる。
そんな湊の視線に気づいたのか、人だかりの中心にいた冬華が、ふっと顔を上げた。 彼女はクラスメイトとの会話を一度止め、湊と視線を合わせると、頬を微かに桜色に染めた。そして、周囲には決して悟られないように、唇の端を少しだけ持ち上げる「二人だけの内緒の合図」を彼に送った。
「(あとで、屋上にきてね)」
声にならないその唇の動きを読み取った湊の心臓が、大きく跳ねる。 世界が熱狂するミューズになっても、彼女の「真実」は自分だけのレンズの中にあり、自分の胸の中にだけある。 喧騒に満ちた九月の教室。湊は、これから始まる騒がしくも愛おしい日常への期待に、静かに口角を上げた。
教室でのあの内緒の合図。その言葉通り、湊は昼休みのチャイムが鳴ると同時に、喧騒を抜け出して屋上へと向かった。 重い鉄扉を開けると、九月のまだ熱を帯びた風が吹き抜け、フェンスの側に立つ一人の少女の髪を揺らした。
冬華は、遠くの街並みを眺めていた。 教室で見せていた「柔らかい顔」とは少し違う、湊だけに見せる、どこか無防備で穏やかな表情。湊の足音に気づくと、彼女はゆっくりと振り返り、花が綻ぶような笑みを浮かべた。
「……来たわね、湊くん」
「待たせてごめん。クラスの男子にパリの話を詳しく聞かせろって捕まっちゃって」
湊が苦笑いしながら歩み寄ると、冬華は自分の隣、フェンスとの隙間に彼を招き入れた。二人の肩が触れ合うほどの距離。教室では決して許されない、密やかな親密さがそこにはあった。
「いいのよ。……それより、さっきの教室。少し驚いちゃった」
冬華は、自分の細い指先をフェンスに絡めながら、どこか遠くを見るような瞳で言った。
「私があんな風に、誰かと笑い合ったり、文化祭の出し物に賛成したりするなんて……以前の私なら、考えられなかった。……全部、湊くんのおかげね」
「僕だけの力じゃないよ。冬華ちゃん自身が、一歩踏み出そうとしたからだ」
湊の言葉に、冬華は首を振った。
「いいえ。あなたがパリのあの朝、私の醜い震えも、剥き出しの心も全部受け止めて、『美しい』って言ってくれたから。……あの一枚があったから、私は自分を許せたの。完璧じゃなくても、こうして誰かの隣にいていいんだって」
そう言うと、冬華は湊のシャツの裾を、そっと、壊れ物を扱うような手つきで掴んだ。 パリでのあの日以来、彼女は以前よりも素直に、自分の「熱」を湊に伝えるようになっていた。
「……湊くん。私ね、文化祭が楽しみなの。……あなたと一緒に、みんなを驚かせたい。……そして、その後で……」
冬華は言葉を切り、湊の顔をじっと見上げた。潤んだ瞳が、屋上の強い日差しを反射してキラキラと輝く。
「……その後で、また二人だけで、誰もいない場所で……写真を撮ってほしい。……モデルとしてじゃなく、あなたの……その……」
「あなたの?」
湊が聞き返すと、冬華は耳まで真っ赤にして、彼の胸に額を押し当てた。
「……言わせないで。……鈍感な湊くんなんて、大嫌い」
小さな声で毒づきながらも、彼女は繋いだ手を離そうとはしなかった。 かつては孤独を象徴していた学校の屋上が、今は二人にとって、パリのセーヌ川と同じくらい、大切な「現像」の場所になっていた。
遠くで予鈴のチャイムが鳴り響く。 「……行きましょう。午後の授業が始まるわ」
冬華はパッと表情を「女王」のものに切り替えた。けれど、湊の手を握るその指先だけは、まだ甘えるように微かな熱を帯びたままだった。
放課後のホームルーム。黒板の前には、文化祭の出し物を決めるための混沌とした光景が広がっていた。 以前の冬華なら、こうした「群れる行事」には一切興味を示さず、窓の外を眺めて終わるのを待っていたはずだった。しかし、今の彼女はクラスメイトたちの喧騒を、どこか楽しそうに、慈しむような瞳で見守っている。
「はいはい! 学祭といえば王道! 焼きそばかたこ焼きでしょ!」 「いやいや、準備が楽なスーパーボールすくいとヨーヨー釣りの縁日セットがいいって!」 「もっと可愛く綿菓子とかどう? インスタ映えするし!」
最初は平和に出ていた意見も、時間が経つにつれて男子生徒たちの悪ノリに拍車がかかり始めた。
「普通じゃつまんねーよ! 『氷室様を拝む会』とかどうだ?」 「それならいっそ、キャバクラとかホストクラブ風にしようぜ! 氷室さんがナンバーワンで、湊が黒服!」 「相席喫茶とか、合コン会場とかさ……。あ、お化け屋敷風の合コン会場っていうのは?」
「あんたたち、不純すぎるわよ!」と女子委員長が声を荒らげるが、教室の熱気は収まらない。そんな喧騒の中、一人の男子生徒が冗談半分に声を上げた。
「……っていうかさ、本物のパリ帰りがいんだからさ、本場のカフェやればいいじゃん。『カフェ・ド・パリ』! 湊が撮った氷室さんの写真を壁一面に飾ってさ!」
その瞬間、教室内が水を打ったように静まり返った。 パリ、ジャン・ルノワール、そして世界。その圧倒的な単語の響きに、誰もが「それはさすがにレベルが高すぎる」と尻込みした。だが、その沈黙を破ったのは、他ならぬ冬華だった。
「……いいわね、それ。やりましょう」
冬華が凛とした声で賛成すると、クラスメイトたちは一斉に彼女を振り返った。
「えっ、氷室さん、いいの? 自分の写真とか飾るの恥ずかしくない?」
「恥ずかしいなんて、一度も思ったことはないわ。……それに、湊くんが撮ってくれたあの街の空気、みんなにも見てもらいたいもの」
冬華は少しだけ頬を染めながらも、真っ直ぐに委員長を見つめた。その言葉には、かつての孤高なプライドではなく、自分の大切な世界を共有したいという、クラスメイトへの信頼が混じっていた。
「決定ね! 出し物は『カフェ・ド・パリ』。衣装担当は……もちろん、氷室さんにお願いしていいかしら?」
「ええ、喜んで。……やるからには、本物のパリを見せてあげる」
冬華の力強い言葉に、教室中が「おおおっ!」という地鳴りのような歓声に包まれた。
——二人きりの準備室
放課後の喧騒が遠くの廊下から響く中、衣装準備室の重い扉が閉まると、世界は一変して静寂に包まれた。 室内には使い古されたミシンの油の匂いと、新しく運び込まれた布地の清潔な香りが混ざり合って漂っている。西日に照らされた埃の粒子が、窓際でダンスを踊っていた。
「さあ、湊くん。脱いで」
「……えっ?」
冬華の唐突な言葉に、湊は思わず裏返った声を上げた。冬華は手にメジャーを巻き付けたまま、呆れたように小さく溜息をついた。
「上着の話よ。ジャケットの上からじゃ、正確なサイズが測れないでしょ。……それとも、私が脱がせてあげましょうか?」
いたずらっぽく目を細める彼女に気圧され、湊は大人しく制服の上着を脱ぎ、シャツ一枚の姿になった。冬華が「失礼するわね」と一歩踏み込む。その瞬間、二人の距離は、互いの心音すら聞こえそうなほどにまで縮まった。
(……やっぱり、少し緊張してる)
メジャーを湊の首筋に回しながら、冬華は自分の指先が微かに震えるのを感じた。 パリでの撮影を経て、彼とは魂の深いところで繋がった確信がある。けれど、こうして明るい教室の片隅で、日常の制服姿の彼に触れるのは、また別の特別な鼓動を呼び起こしていた。
(湊くんの肩、意外とがっしりしてる。……いつもカメラを構えて、私を追いかけてくれているこの腕が、本当はこんなに逞しいんだ……)
冬華はわざと事務的な態度を装いながら、湊の襟元に指を滑らせた。シャツの薄い生地越しに伝わってくる彼の体温が、彼女の指先を甘く痺れさせる。彼女は、彼が自分を真っ直ぐに見つめている視線を意識せずにはいられなかった。
「……湊くん、前を見て。動かれると正確に測れないわ」
「……努力はしてるんだけど、無理だよ」
湊は、目の前で自分の胸元に視線を落としている冬華を、まともに見ることができずにいた。 俯いた彼女の長い睫毛が、西日に透けて黄金色に輝いている。採寸のために近づくたび、彼女の髪から漂う、パリのホテルで嗅いだあの甘い香りが鼻をくすぐり、湊の思考を真っ白に染め上げた。
(冬華ちゃん、さっきからわざとやってるんじゃないか……?)
彼女の指先が、ボタンの隙間から時折肌に触れる。そのたびに火花が散るような衝撃が走り、湊は必死に呼吸を整えた。レンズというフィルターがない剥き出しの距離感は、彼にとってどんな極限の撮影現場よりも過酷で、そして至福の時間だった。
(こんなに近くに、僕を信じてくれている彼女がいる。……文化祭の衣装なんて理由で、こんなに独占していいのかな)
「……ねえ、湊くん。何でお顔を背けるの?」
冬華が不意に顔を上げ、湊の瞳を覗き込んだ。彼女の顔は、あと数センチで唇が触れ合うほどの位置にあった。 冬華は、湊の戸惑いを見透かしたように、満足げな笑みを浮かべた。
「……私のこと、ちゃんと見て。撮影の時みたいに。……今の私は、モデルの氷室冬華じゃない。……あなたの執事を作ろうとしている、ただのクラスメイトの女の子よ?」
そう言って、冬華は湊の胸板にそっと掌を当てた。ドクドクと速く打つ彼の鼓動が、彼女の手のひらを通じて伝わってくる。
「……心臓、すごくうるさいわよ?」
「……冬華ちゃんのせいだよ」
湊が観念してそう答えると、冬華は顔を真っ赤にして、逃げるように彼の背中に回り込んだ。
「……、……わかってるわよ。……責任、取りなさいね。当日、世界で一番かっこいい私の執事になってもらうんだから」
背後から聞こえる彼女の震える声に、湊は静かに口角を上げた。 二人の世界が、少しずつ教室全体へと広がっていく。けれど、この準備室という密室で現像される甘い時間は、誰にも邪魔させない、二人だけの「秘密の露出」だった。




