間話:【氷室正一の長い不在、あるいは迷えるパパの肖像】
ep50!!
【誰もいない子供部屋にて】
冬華と湊がパリの空の下で愛を語り合っていた頃、日本の氷室邸には、かつてないほどの「寒冷前線」が停滞していた。
主である氷室正一は、書斎で山積みになった書類を前にしながら、一向にペンを動かそうとしなかった。
「……静かすぎるな。……いや、以前から静かだったはずだが」
正一は誰もいない空間に向かって、独り言を漏らした。
時計の針が午後九時を回る。いつもなら冬華が塾から帰り、廊下を歩く微かな足音が聞こえる時間だ。彼はたまらず席を立ち、妻である志保の待つリビングへと向かった。
リビングに入るなり、正一は平静を装いながら、ソファでくつろいでいた志保に問いかけた。
「……志保。冬華から連絡はあったか?」
「ええ。さっき『今から夕食です』ってメールが来たわよ」
志保が何気なく答えると、正一の眉間には一気に深い皺が刻まれた。
「夕食だと? ……何を食べると言っていた。パリの夜道は危険だと言わなかったか? あの男(湊)は、ちゃんと冬華に防寒のコートを着せているんだろうな? あいつはカメラのことしか頭にない、猪突猛進なガキだ。冬華が冷えて風邪でも引いたら、私の会社が総力を挙げてあの男を——」
「あなた。パリは今、朝の準備中よ。時差を考えなさいな」
志保の冷静な突っ込みに、正一は「……ふん、知っている。確認しただけだ」と、わざとらしくネクタイを緩めて視線を泳がせた。
(……おかしい。何かがおかしい。
なぜ、私には連絡が来ないんだ。私は冬華の父親だぞ? 旅費を出したのは私だぞ? せめてエッフェル塔の影からでも『お父様、私は無事です』と電報の一本でも打つのが筋ではないのか。
まさか、あの男……! 冬華を巧みに言いくるめて、私の悪口を吹き込んでいるのではあるまいな。
『お父様は厳しいね、僕ならもっと自由にさせてあげるよ』……なんて甘い言葉で、私の天使(冬華)を毒しているのではないか!?
もし、もしだ。冬華が向こうの開放的な雰囲気に流されて、あんな、どこの馬の骨ともしれない男と、あ、あんなことやこんなこと……!)
正一の額に青筋が浮かぶ。
彼はスマホを取り出し、「冬華。パリの治安について警告しておく。早急に連絡せよ」という厳格な文面を打ち込んでは消し、打ち込んでは消しを繰り返していた。
一時間後。正一は再びリビングに現れた。今度は手に、大切に保管していた高級なワインボトルを持っている。
「志保。……冬華の、小さい頃のアルバムはどこだ」
「あら、納戸の奥よ。急にどうしたの?」
「……いや。あの子がパリで、どれほど成長したかを確認するために、比較対象が必要だと思っただけだ」
嘘である。ただ寂しいだけだった。
彼は結局、アルバムを引っ張り出し、三歳児の頃の冬華が公園で転んで泣いている写真を見つめて、「この頃の冬華は私がいなければ何もできなかったというのに……」と、グラスを傾けながら遠い目をして語り始めた。
「聞いてくれ志保。冬華が初めて『パパ』と呼んでくれたのは、あれは確か——」
「はいはい、三歳のクリスマスね。もう百回は聞いたわよ。あなた、明日も早いのよ? さっさと寝なさいな」
志保に冷たくあしらわれる正一。
しかし彼は、その後も冬華の部屋(主不在)に忍び込み、机の上のペン立てが少し曲がっているのを「あの子は帰ってきたら、これが直っていないと落ち着かないはずだ」と一ミリ単位で修正するという、執念深い親バカぶりを発揮していた。
(……湊。お前がもし、冬華に少しでも不自由な思いをさせていたら、成田空港で機動隊を待機させてやるからな……!)
そんな、父親の滑稽で必死な「愛の重圧」を、パリの二人が知る由もなかった。
記念すべきトータル50話目がまさかの正一会!!
しっかり遊ばせてもらいましたにゃー




