第34話:【高度一万メートルの迷い子、花の都へ】
出発当日の羽田空港。朝日が差し込む出発ロビーに、冬華はいつになく落ち着かない様子で立っていた。オーバーサイズの白いコートに深く帽子を被り、大きなサングラスで顔を隠しているが、その手はしっかりと湊のコートの袖を掴んでいる。
「……湊くん。私、忘れ物してないかしら。パスポートはあるし、おばあ様から貰ったお守りも……あうっ」
「はい、落ち着きなさいな。冬華ちゃん、そんなに怯えてたら、パリのモデルたちに舐められちゃうわよ?」
背後から凛とした声が響く。完璧なパンツスーツに身を包んだ成瀬結衣が、颯爽と歩いてきた。彼女の指先には、三人の搭乗券が挟まれている。
「いい、今回の旅のルールを確認するわよ。移動中、公の場では、あなたはあくまで『日本のトップモデル』。湊、あんたは『その専属カメラマン』。ベタベタするのはホテルの部屋の中だけにしてちょうだい。……もっとも、私が隣の部屋でしっかり監視するけれどね?」
「……ううっ、結衣さん、意地悪です……」
冬華は顔を真っ赤にして湊の影に隠れた。保護者兼、最強の防波堤としての結衣の存在感は、出発前から二人を圧倒していた。
離陸から数時間。静寂に包まれたファーストクラスのキャビンは、時折聞こえるエンジンの低い唸りと、厚い雲を突き抜ける微かな振動に満たされていました。 冬華は、人生で初めて体験するファーストクラスの豪華なシートに身を沈めていましたが、リラックスしているとは言い難い様子でした。彼女は、隣に座る湊の腕をそっと、けれど離さないように抱きかかえたまま、周囲の様子を窺っています。
「……湊くん、あの方、さっきからずっと怒っているわ。なんだか……怖いわね」
冬華が不安げに視線を送った先——湊の通路を挟んだ隣の席には、およそこの格調高い空間には不釣り合いな、ド派手な原色のアロハシャツを着た老人が座っていました。頭には芸術家を気取ったような黒いベレー帽。恰幅の良い体格を窮屈そうにシートに預けている彼は、機内食が運ばれてくるたびに、忙しなく立ち働くCAさんを呼び止めては、独特の理論をぶちまけていたのです。
「ノン、ノン! Mademoiselle(お嬢さん)、このソースの煮込みは甘すぎる! 命の響きが足りないよ!」 「このチーズを見てごらん、まだ眠っているじゃないか! 私の口に入る準備ができていない、非礼極まるチーズだ!」
フランス語混じりの怪しげな日本語でまくし立てる老人の声に、CAさんは困り果てたような微笑みを浮かべるばかり。冬華は湊の影に隠れるようにして、その様子をハラハラと見守っていました。しかし、冬華の囁き声が老人の鋭い聴覚に触れたのか、彼は不意にこちらをギロリと振り返ったのです。
濃いサングラス越しでもわかる、射抜くような鋭い眼光。
「お嬢さん、君は先ほどから私のディナーを邪魔しているよ。美しい沈黙こそが最高のスパイスだというのに……ん? 待てよ……」
老人は不機嫌そうに鼻先までサングラスをずらすと、そこにある「何か」を確かめるように、冬華の顔をまじまじと見つめました。その圧倒的な圧迫感に、冬華は思わず湊の二の腕をギュッと抱きしめ、小刻みに震えながらも、奥手な彼女なりに精一杯の声を振り絞りました。
「……な、なんですか? 私、何か失礼なことを……っ」
老人は数秒間、彫刻の細部を検分する鑑定士のような冷徹な視線で冬華を凝視していましたが、やがて「ふむ……」と深く頷きました。
「その骨格、肌の質感、そして何よりその瞳の奥にある高潔な『寒色』。……悪くない、いや、非常に興味深いマテリアルだ。……だが、隣の少年」
急に矛先を向けられた湊は、驚きで背筋を伸ばしました。
「君の彼女への触れ方は何だ。まるでお菓子を壊すのを恐れる子供のようじゃないか。それでは彼女の持つ真の熱量は引き出せない。もっと大胆に、彼女という存在を光で灼き尽くすような勢いで当たりたまえ」
「えっ……あ、はい……? すみません、ええと……」
湊が面食らっていると、老人は満足げに鼻を鳴らし、「まあいい。食後のフォアグラが来るまでは、私もこのチーズ同様に眠ることにする」と言い捨て、勝手にアイマスクを装着して眠り込んでしまいました。
「……変な人だったわね。……驚いちゃった」
冬華は、ようやく去っていった緊張感に「ふぅ……」と小さくため息をつき、湊の腕に押し付けていた体を少しだけ離しました。けれど、すぐに先ほどの老人の言葉を思い出したのか、首筋まで林檎のように赤く染め上げます。
「……でも、湊くん。大胆に、なんて……あんな人の言うこと、真に受けちゃダメよ? ここは機内なんだから……そんなことされたら、私、恥ずかしくて飛び降りちゃうわ……っ」
冬華は顔を隠すように湊の肩に深く頭を預けました。その小さな呟きと、伝わってくる彼女の体温。湊は、眠りについた不思議な老人の言葉を反芻しながら、隣で心細げに自分を頼る少女の髪を、優しく撫で続けました。
やがて、冬華も長旅の疲れからか、心地よいエンジンの揺れに身を任せて眠りに落ちていきました。
十数時間の長いフライトを経て、巨大な鉄の鳥はようやくシャルル・ド・ゴール空港の滑走路にその足を降ろしました。
飛行機のハッチが開いた瞬間、機内の乾燥した空気とは明らかに違う、湿り気を帯びた異国の風が流れ込んできます。湊たちがゲートを一歩踏み出した先に待っていたのは、目まぐるしいほどの「パリ」の洗礼でした。
「……わっ、すごい……。本当に、本当にパリに来ちゃったのね……」
冬華は、溢れかえる情報の洪水に圧倒され、完全に湊の背中にピタリと張り付いていました。
耳に飛び込んでくるのは、歌うような、けれど激しく情熱的なフランス語の奔流。鼻腔をくすぐるのは、石鹸の清潔な香りと、誰のものとも知れない何種類もの香水が混ざり合った、この街独特の芳香です。
「Pardon !(失礼!)」「Excusez-moi !(すみません!)」
大股で歩く彫りの深い顔立ちのビジネスマンや、色鮮やかなストールを巻いたマダムたちが、挨拶を交わしながら湊たちの横をすり抜けていきます。今までテレビや雑誌の向こう側、あるいはスタジオのセットの中にしかなかった「世界」が、今、容赦なく彼女を包み込んでいました。
「湊くん、……お願い、絶対に離さないでね。……絶対よ。私、もしここで手を離されたら、この人混みに飲み込まれて、もう二度と日本に帰れないような気がするわ……っ」
冬華は湊のジャケットの裾を指が白くなるほど強く握りしめ、不安げに周囲を見渡しました。その瞳は、異国の刺激に怯える小動物のように揺れています。
「大丈夫だよ、冬華ちゃん。迷子にならないように、僕がずっと手を繋いでいるから。君が嫌だって言っても離さないよ」
湊がその小さな手を、包み込むようにギュッと握り返すと、冬華はようやく少しだけ安堵したように「……うん。信じてる、から」と小さく頷きました。
そんな二人の、甘く、けれど張り詰めた空気を切り裂くように、前を歩いていた成瀬結衣が振り返りました。カツ、カツ、と石畳を叩くような高いヒールの音を響かせながら、彼女は颯爽と歩き出します。
「はい、二人とも。見惚れている暇なんてないわよ。出口にはもう、メゾンからの迎えが来ているはずなんだから。……あ、そうそう」
結衣はふと思い出したように足を止め、肩越しに不敵な笑みを浮かべました。
「さっきの機内で隣にいた、あの変なアロハのじいさん。あんたたち、気づかなかったの?」
「えっ……あの、チーズに怒っていた方ですか?」
湊が聞き返すと、結衣は「ふふっ」と優雅に、けれどどこか意地悪く笑いました。
「そうよ。あの人こそ、今回冬華ちゃんを指名した老舗メゾン『L』の頂点に君臨する、伝説的な専属アーティスティック・ディレクター、ムッシュ・ベルナールよ。ルノワールとも古い付き合いの、ファッション界の生きる伝説ね」
「「ええええっ!?」」
二人の驚愕の叫びが、高い天井の空港ロビーに木霊しました。冬華は顔を青くして、自分の失礼な振る舞いがなかったか必死に記憶を辿り始めます。
「あ、あの人が……? 私、湊くんに抱きついて変な顔を見せちゃったんじゃ……」
「あら、彼は『大胆に光を当てろ』って言ったんでしょう? 合格点なんじゃないかしら」
結衣は楽しそうにウィンクすると、二人を残して出口へと向かいます。どうやら、本当の意味での「審査」は、すでに高度一万メートルの空の上から始まっていたようです。




