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『氷の女王は、俺のシャッターに恋をする』  作者: 天パ猫(てんぱねこ)


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第30話:夏の終わり、約束の場所へ

出発の朝、古民家の玄関先には、夏の終わりの少し寂しげな風が吹き抜けていた。 湊と冬華の足元には、数日間の思い出が詰まったバッグと、おばあちゃん・ウメが持たせてくれた大量の野菜や果物の袋が置かれている。


「……湊くん、本当に行ってしまうのね」


冬華は、数日前とは見違えるほど柔らかい表情で、ウメの前に立っていた。 都会での完璧なマナーではなく、この家で教わった心からの会釈で頭を下げる。


「おばあ様、本当に……ありがとうございました。私、こんなに……心が温かくなったのは初めてで……。その、……帰りたくないって、ちょっと思ってしまいました」


俯き加減に、少しだけ声を震わせながら本音を漏らす冬華。そんな彼女の頭を、ウメは節くれ立った温かい手で、乱暴に、けれど慈しむように撫でた。


「何を言ってるんだ、冬華ちゃん。ここはもうあんたの家なんだから、いつでも帰ってきな。……いいかい、あんたみたいな真っ直ぐで綺麗な子は、都会の冷たい風に負けちゃいけないよ。疲れたら、またいつでも『ただいま』って言いなさい」


「……っ」


「冬になったら、今度は囲炉裏で餅を焼こう。あんた、また冬に……絶対に、来なさい。約束だよ」


冬華は、その言葉に耐えきれず、柄にもなく「ずっ……」と鼻をすすった。 「女王様」として自分を律してきた彼女の堤防が決壊し、ただの寂しがり屋な女の子が顔を出す。


「……はい。……絶対に、来ます。……お餅、食べたいです。……だから、おばあ様も、お元気で……っ」


涙を必死に堪え、鼻を赤くしながら返事をする冬華。湊はその様子を、愛おしさを込めて見守っていた。 おばあちゃんに見送られ、二人はゆっくりと駅への坂道を歩き始めた。

おばあちゃんに見送られ、村を去る列車に乗る直前、二人は初日に訪れたあの「秘密の海岸」へと立ち寄った。数日前、目の眩むような「青と白のコントラスト」で二人を圧倒した海は、今は西陽を浴びて、どこか穏やかで、そして胸が締め付けられるほど切ない表情を見せている。

冬華はサンダルを脱ぎ、波打ち際へとゆっくり歩みを進めた。寄せては返す波が彼女の白い足首を洗い、砂の感触が指の間をすり抜けていく。

「……湊くん、知ってる? 私、ここに来るまでは……海って、ただの『背景』だと思ってたの」

冬華は海を見つめたまま、独り言のように静かに話し始めた。

「モデルにとっての景色は、自分を美しく見せるための道具。光も、風も、波の音も……全部、私が『氷室冬華』であるためのパーツに過ぎなかった。でも……この数日間、あなたと一緒にこの海を見て、おばあ様の家で笑って……なんだか、自分がすごく小さくて、ちっぽけな女の子に思えてきたの」

彼女は一度言葉を切り、風に乱れた髪を耳にかけた。その横顔は、都会のスタジオで見せる完璧なラインとは違い、どこか儚く、今にも消えてしまいそうな透明感に満ちている。


(……怖い。……学校に戻ったら、またあの『誰も寄せ付けない私』に戻らなきゃいけないの?)


冬華の胸の奥で、小さな不安が波のようにせり上がっていた。 「女王」という仮面は、彼女を守る盾でもあった。けれど今、湊の隣で過ごした濃密な時間の中で、その盾はボロボロに崩れ去っている。おばあちゃんに泣き顔を見せ、湊に甘え、等身大の自分で笑った数日間。一度知ってしまった「温もり」は、独りでいることの寒さを彼女に思い出させてしまったのだ。


「……ねえ、湊くん。私……あなたにだけは、本当の私を見抜いてほしい」


冬華は、ゆっくりと湊の方へ振り返った。 夕陽が彼女の背後から差し込み、その輪郭を黄金色の光で溶かしていく。彼女の瞳には、終わってしまう夏への惜別と、湊に対する、狂おしいほどの依存心が混ざり合っていた。


「モデルの私じゃなくて、性格が少しきつくて、おばあ様にタジタジにされて……それでいて、あなたの前でしか泣けない、不器用な『私』を。……他の誰かが私を綺麗だと言っても、そんなのどうでもいい。あなたが……あなたが私の心の中を撮ってくれないと、私は、空っぽの抜け殻になっちゃう……っ」


冬華の声が微かに震え、その大きな瞳から、一粒の涙が頬を伝って砂浜に落ちた。 それは「女王」の涙ではなく、ただ、好きな人の一番近くにいたいと願う、等身大の少女の告白だった。


彼女は、自分から湊の元へ歩み寄り、そのシャツの胸元をぎゅっと掴んだ。


「……お願い、湊くん。新学期が始まって、私がまた教室でツンとした顔をしていたら……こっそり、私にだけ聞こえる声で『冬華』って呼んで? ……それだけで、私はまた、あなたの前だけの私に戻れるから」

「……ああ。約束するよ。何度でも呼ぶし、何度でも……君の本当の姿を撮り続ける」


湊の言葉に、冬華は安心したようにふにゃりと眉を下げ、彼の胸に額を預けた。 波の音が、二人の間の沈黙を優しく埋めていく。 この海は、もうただの「背景」ではなかった。 二人の心が剥き出しになり、重なり合った、一生忘れることのできない「聖域」になったのだ。


秘密の海岸に、オレンジ色を帯びた優しい光が降り注ぐ。


湊の胸に額を預けていた冬華が、ゆっくりと顔を上げた。その瞳は先ほど流した涙のせいで潤み、睫毛にはまだ小さな真珠のような滴が残っている。


「……湊くん。最後にもう一度だけ、私を撮って」


彼女は、自分から一歩、また一歩と湊から離れ、波打ち際で足を止めた。


白のワンピースの裾が、海風に吹かれて不規則に揺れている。彼女は乱れた髪を直そうともせず、鼻の頭を少し赤くしたまま、はにかむような、それでいてどこか泣きだしそうな顔で湊を見つめた。


「……いつもなら、完璧な私を撮ってほしいって言うわ。でも……今は、この『かっこ悪い私』を記録してほしいの」


湊は、重くなったカメラをゆっくりと持ち上げた。


ファインダーを覗くと、そこに写っているのは、学校で見せる冷徹な「氷の女王」でも、プロのモデルとしての「氷室冬華」でもなかった。


レンズの向こうにいるのは、おばあちゃんとの別れに鼻をすすり、湊との時間の終わりに怯え、それでも懸命に「好き」という感情を伝えようとしている、ただ一人の、無防備で奥手な女の子だった。


(……ああ、なんて綺麗なんだろう)


湊の指が、シャッターボタンの上で微かに震える。


これまで何千枚と彼女を撮ってきた。光を計算し、角度を練り、彼女の美しさを最大限に引き出してきた。けれど、この瞬間ほど「彼女の魂」が剥き出しになっていることはなかった。


「……準備はいい? 湊くん」


冬華は、少しだけ照れくさそうに肩をすくめ、はにかんだ。


その表情は、出会ったばかりの頃の「触れたら切れる刃」のような鋭さは微塵もなく、ただ愛する人に自分を委ねる、柔らかい「祈り」に似ていた。


「……いくよ、冬華ちゃん」


湊は息を止めた。

世界から音が消え、ただ潮騒の音と、二人の鼓動だけが重なり合う。

冬華は、溢れそうになる涙を堪えるように、けれど最高に幸せそうな微笑みを浮かべた。


――カシャッ。


シャッター音が響き、ミラーが跳ね上がるその一瞬。

湊の網膜には、夕陽に溶け込むような、黄金色の光を纏った彼女の「真実」が焼き付いた。

それは、どんな一流カメラマンも、どんな高価な機材も決して捉えることのできない、湊という少年に心を開ききった少女の、一瞬の、けれど永遠の輝き。


「……撮れたわね」


冬華は、撮影が終わった瞬間に「あうっ」と顔を両手で覆い、その場に屈み込んでしまった。


「……やっぱり恥ずかしい! 今の、絶対に変な顔してたわ! 目は赤いし、鼻も……ううっ、見ちゃダメ、現像しちゃダメよ!」

「あはは、遅いよ。もう撮っちゃった。……最高に可愛かったよ、冬華ちゃん」

「可愛くないっ!……でも、いいわ。……あなたが撮ったんだもの。……その不格好な私、一生、あなたの心の中に閉じ込めておいて」

冬華は指の間からチラリと湊を見上げ、また幸せそうに瞳を細めた。

カメラを下ろした湊の手に、冬華が自分の手をそっと重ねる。

夏の終わりの、少し寂しくて、けれどこの上なく満たされた風が、二人の間を通り抜けていった。


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