賭けものになった側妃
大時計の短針は、真上に近い。
豪奢な王宮の大広間で、かつてのように男が叫んだ。
「お前が賭けるのはその側妃だ、帝王!去年奪ったその女を、天秤に掛けるが良い!」
白を基調とした月光を途切れさせるほど眩いホールは、香水と馳走の匂いで満ちている。着飾った人々が、波打つように騒めいた。まさかとかどうしてとか、ある者は驚愕を、ある者は疑問を込めて、思い思いに言葉を呟く。
その全てを一顧だにせず、深紅のドレスの女を膝に乗せた帝王は、僅かに口角を上げる。
横長の玉座に座るその男は、本当に美しかった。
黒みがかった赤髪、それより鮮烈な血の色の瞳。正装越しでも分かる鍛えられた腕は、どんな女でも触れられたい、抱きしめられたいと熱望するだろう。若いとすら呼べる年で、一昨年玉座を手に入れたはずであるのに、この場の誰よりも豪華な正装は、彼の風格に良く似合っていた。
貞淑たれと教え込まれた婦女子たちからも熱い視線を向けられる男は、それが当然であるかのように顔を寄せて、膝に横抱きにした妃に何かを囁く。
帝王がそうであるように、妃も美しかった。
夜を切り取ったような黒髪、照らす炎の揺れによって繊細に色を変える青紫の瞳。それらが彩る顔のかたちは、僅かな綻びもなく完成されている。
瀟洒なレースに飾られた真紅のドレスから覗く手や足は細く、艶かしく白い。ぴくりとも動かない無表情も相まって、人間と呼ぶよりも希代の人形師の最高傑作と言われた方が納得できるだろう。
しどけなく身を任せて、帝王にのみ視線を向けるその姿に、先程叫んだ男が歯噛みする。
男ーーー複雑な色を瞳にのせた、ライワールト王国の王は、金髪と青い目、鬼気迫る表情を衆目に晒しながら、言葉を続けた。
「まさか拒否はすまいな、帝王。今年は我がライワールトが賭けの内容も、何を賭けるかも決めるのだから。オウディアス辺境伯の娘にして我が側妃。ネレイスを賭けて、射芸を行う!」
そう続けたライワールト王国の国王に、隣に立つ茶髪の女性は表情を変える。
桃色のフリルをふんだんに使ったドレス、髪や首などいたる所に付けられた大きな宝石。少女に見紛うほど若々しいライワールト王国の王妃は、夫の言葉に目を見開いた後、憎々しげに赤いドレスの女を睨む。
憎悪を込めた視線にも、かつての夫の言葉にも、赤い瞳の帝王に凭れる女はなんの反応も示さない。
女は―――かつてライワールト王国の側妃にして、今はグランヌス帝国唯一の寵妃は、帝王クヴァルの腕の中で、ほんの少し瞳を伏せた。
∮
負け犬側妃。
それが、ネレイスに与えられた称号だった。
彼女が生まれたライワールト王国は、かつて、隣国であるグランヌス帝国と長く争いを繰り広げていた。周囲を海に囲まれ、グランヌスとのみ地続きなこの国は、言語も信じる神も同じ、国力も近いグランヌスとばかり、何百年と争っていたのである。
グランヌス帝国との国境を守護する、オウディアス辺境伯の唯一の娘。彼女がライワールト王国の王太子、ライヒム・ミハーレクの婚約者になったのは、十三の時だった。幼さに見合わず完成された美貌と優れた知性。立ち振る舞いは完璧で、実家の権力も申し分ない。
ネレイスの疵は一つだけ。
彼女が辺境伯と平民、両方の血を持つ事だけだった。
ネレイスの母は、美しい平民の娘だった。貧しさの中で辺境伯家の当主に見染められてネレイスを妊娠したが、同じ貴族の婚約者がいた辺境伯は婚姻が近くなるとあっさりと彼女を捨てた。母は失意の中ネレイスを産んで、そのまま儚くなってしまった。
だからネレイスは辺境伯家の領地の隅にある孤児院に預けられて、シスターや身寄りのない子供達と共に、貧しく慎ましく暮らしていた。
転機が訪れたのは、十二歳の時だ。
辺境伯家から王家の婚約者を出すことになって、当主とその妻の間に女児が居なかったことから、彼女はオウディアス家に連れてこられた。初めて顔を合わせた父は、ネレイスを道具としてしか見なかった。継母や腹違いの弟もネレイスを嫌ったから、彼女は新しい家で居ないものとして扱われる事になる。
今までとは桁違いに高価な衣服や食事を与えられながら、彼女は粛々と求められる役割を果たした。マナーを学び、複数の国の公用語を操れるようになり、政治に関わる全てを覚えた。
たった一年で楽器や詩歌まで造詣を深め、場合によっては教育係が教えを乞うほどに、どこに出しても感嘆されるような、完璧な令嬢になった。
楚々とした微笑みと、望まれる以上の見事な受け答え。指先の角度に至るまで、ネレイスは次期王妃として理想そのものだった。
ライヒムは美しく従順なネレイスを気に入って、ネレイスも淡々と忠実に彼を支えた。
ネレイスは彼が疲れたと愚痴を漏らした時には労りの言葉を掛け、彼の仕事の一部を肩代わりした。国の後継として賞賛されたいと望んだ時には貧しい者たちに職を与える政策を作り、王太子が考えたものとして手柄を全て差し出した。
国を動かす立場の臣下たちにも賛同されたその政策はいくつかの改善のあと実際に施行され、王太子の自尊心を大いに満たした。
同い年の二人が貴族の学園に入学する頃には、王太子は美貌を持つ将来の賢君として持て囃されて、多くの女子から憧れと恋情を向けられるようになった。
婚約者であるネレイスに嫉妬が向けられる事もあったが、彼女は何も言わずに、理想の次期王妃であり続ける。王太子が多くの女子と浮き名を流すようになっても、自分こそ王妃に相応しいと考える少女達に嫌がらせをされても。
嘆きも怒りも悲しみも、何一つ口に出さずに。
王太子に、婚約破棄される時でさえ。
「ネレイス・オウディアス!お前のような平民の母を持つ者が王家に入るなど許しがたい。俺はお前との婚約を破棄し、コウン伯爵家の娘であるアンジェを正妃とする!」
そう王太子が言い放ったのは、二人が十八歳になる、学園の卒業パーティーでの事だった。
「コウン伯爵家は古くから続く家で、アンジェは正しく青き血を持っている。爵位が低くとも正妃に相応しいのは価値ある血を持つアンジェだ!しかしネレイス、お前が優れているのは確かだからな。俺や国の役に立つ事は許してやろう。 ーーー俺はアンジェ・コウンを正妃とし、ネレイス・オウディアスを、側妃として迎え入れる!」
王太子の隣では、茶髪の可愛らしい少女が満足げに彼に腕を絡み付かせていた。ピンクのドレス、大粒の宝石を使ったアクセサリー、可愛らしい容姿。学園にいた頃、よく王太子に侍っていた少女の一人だ。普段涼やかに笑んでいるネレイスの瞳が、僅かに揺れた。青紫は信じられないものを見た、と騒めく卒業生達とは違って、予定調和と言わんばかりに頷く国王や辺境伯当主を映す。
「文句はあるか、ネレイス。五年も婚約していた仲だ、反論くらいは聞いてやろう。どうしてもと言うならーーー」
「…………いいえ、殿下。分かりました。私は側妃として、この国に、その民に、全てを捧げましょう」
動揺は一瞬だった。
なおも言い募ろうとする王太子の言葉を遮って、ネレイスは笑みを浮かべた。
出来の良い、手本のように。
そうして王太子は国王になり、ネレイスはライワールト王国の側妃になった。
ネレイスには王城の離れと、国王がやるべき沢山の執務が与えられた。彼女は文句一つ言わずに引き受けて、国王夫婦が遊び暮らす裏で多くの国民を救う政策を次々と打ち出し、新しい王の素晴らしさを国中に知らしめる。
国王に何を言われても、正妃となったアンジェに砂入りの紅茶を用意されても微笑み続けるネレイスは、いつしか負け犬側妃と呼ばれるようになった。国王も辺境伯もネレイスの悪口を咎めなかったことと、つくりものと思えるほどにうつくしい女を貶すことで嗜虐心を満たしたい、という人間が男女問わずいたからだ。
国費のうちネレイス個人の予算が削られて贈られるドレスが質の低いものになっても、呼ばれた舞踏会でしゃんと立つ彼女はひたすらに美しかった。学園などでネレイスと親しくしていた者もいたが、国王に睨まれる事もあり、彼女はどのパーティに呼ばれても誰とも踊れず、嘲笑の的になっていた。
そうして、あの夜が訪れる。ちょうど一年前だった。
ライワールトの国王とグランヌスの帝王は同じ高さの椅子に座り、象牙のチェスの駒を置く。
ライワールトとグランヌス。かつては小競り合いを繰り返した2つの国には、協定がある。
数十年前に和平を結んだ時に、毎年交互に国の王が相手の国に訪れ、一つ賭けをする、と約束をしたのだ。
賭けの内容は訪れる側の王が決め、国を左右しなければなんでも賭ける事が許される。去年はライワールトの国王が最高級のワインだけを納めたワイン棚を手に入れて、一昨年はグランヌスの帝王が名馬を数頭連れて帰った。
賭けに負けた国が要求を断ったり負けたのに渡さなかったりすると、賭けを楽しむ色々な国に非難される。赤髪の帝王と金髪の国王。これから数十年と賭けをするだろう2人の勝負は双方の見目麗しさもあり、多くの国に注目されていた。
特にライワールトを初めて訪れた帝王は、関心と衆目を一心に集めていた。国王と年はそう変わらないだろうに表情は自信に溢れ、所作の全てが美しい。なによりその人並外れた美貌には、結婚して一年も経たない新婚の正妃ですら、挨拶されるとぽうと頬を染めた。
前座代わりのダンスでは、帝王は求められるままに何人かの令嬢と踊り、正妃や側妃の手も取った。友好の証とでもいうように。
その年は、帝王が賭けるものと内容を決める番だった。
注目を一身に集めるホールの中央で迷わずチェスを用意させた帝王は、盤に駒を並べながら不敵に笑う。
「賭けるものだが、……そうだな、女にしよう。今の離宮は色が足りない。花は多く咲く方が美しいだろう?ここにいる女達のうち、婚約者のいない者を連れて帰ろう」
「なっ―――わ、分かった。ならば帝王、其方が負けた暁には離宮にいる妃の誰かを貰おう。俺には正妃がいるが、側妃は一人しか居ない。選ばれた女性は、両国の橋掛けとなるだろう」
帝王の言葉に、国王は一瞬たじろいだが頷く。人を賭けるとは、と周囲、特に若い女性は騒めいた。今まで人が賭けの賞品になったことはなかった、やりすぎではないのか。そんな風に視線を彷徨わせるものもいたが、国王が是とした以上、口を挟めるものはいない。
この年若いグランヌスの王は父である前王を斃して玉座を得たという、初めての賭けで人を、それも妃を賭けるなど噂に違わぬ冷酷さ、それともこの場にそんなに好みの娘が居たのかーーー。ぽつぽつと、ざわめきに混じってそんな言葉が聞こえた。青ざめる娘が大半なものの、誰がこの美しい人の心を射止めたのか、と頬を染める者もいる。簡単に一人の人生を左右しようとしているのに、あまりに帝王が美しいせいで、婚約者のいる淑女の中にすら、連れ帰られる女性に選ばれたいと願う者もいた。
勝負は始まった。
駒は淀みなく動き、盤から弾かれて、黒のキングが追い詰められていく。とうとうクイーンが退場し、国王の額にしわが寄る。
「チェックメイト。…………それでは妃を貰って帰ろう。そこの青紫の瞳の、美しい側妃を」
最後に駒を動かしたのは、帝王だった。
確かに婚約者の居ない者、と帝王は言った。言ったが、まさか側妃を望むとは。言い放たれた言葉に、周囲はにわかに騒めく。特に焦った様子を見せたのは国王で、普段賞賛を受ける容貌は一瞬で真っ赤に染まっていた。
「なにを……何を言っている、ネレイスは俺の側妃だ。しかも、国を揺るがすようなものは賭けない約定だろう!帰れ!もうお前と二度と、賭けなどしない!」
「かまいませんよ、陛下」
怒鳴るような叫びに言葉を返したのは、帝王に名指しされた側妃本人だった。
流行りを外したドレスの裾を揺らして二人のテーブルに歩み寄り、形の良い唇がゆっくりと弧を描く。普段と何も変わらない、この状況に全く不釣り合いな薄い笑み。
「望まれるならまいりましょう。私は、陛下の慈悲で側妃にして頂いただけの女ですから」
そう言って、彼女は身に付けていた髪留めを床に落とす。小さな宝石の付いたネックレスや、一国の妃が身に付けるにしては安物の耳飾りも。軽い音が、磨き抜かれた床で鳴る。
最後にサイン一つで側妃となった日に与えられた、金の指輪に触れてーーーその薬指を、一回り大きな手が包んだ。
「それを外すのは夫の役目だろう?すぐに新しい、似合うものを贈ってやる。さて、帰れと言ったな国王。新しい妃を連れて、望み通り俺はグランヌスに戻ろう。……ネレイスと言ったか?お前程美しい女は珍しい。存分に可愛がってやろう」
嗤いながら、帝王は指輪を外した。駒と同じようにチェス盤の隣に置いて、ネレイスの肩を抱く。
もはや言葉を失った国王を置いて、グランヌスの一行は帰路についた。
∮
グランヌスに着いてすぐ、丁重に、けれど慎重に審問を受けた。吐く言葉の全てを信用することは出来ないが、ライワールトを攻める為に使える情報も持っているだろう。どうやって吐かせるかと、役人たちの瞳は語っていた。やはりグランヌスはずっと、ライワールトを侵略する機会を伺っていたのだ。
1週間ちかくにわたる追及の後は後宮の中心から離れた、その分ランクの低い部屋を与えられた。異国の女にいい部屋を与えるのは他の側妃が気分を害すると、慮ってのものだろう。
国王の前では可愛がると言ったが、帝王は敵国の女を寵愛するつもりなど、さらさらなかったらしい。
「クヴァル様、敵国の女と一夜を過ごすなど正気の沙汰ではありませぬ!あの忌々しい辺境伯の娘です、いつ寝首を掻かれるか……。抱くなら女は全裸で待たせ、帯剣した兵をすぐ側に置いてくだされ。怪しい動きをするなら即刻首を飛ばすのが宜しいかと。ああ、しかし本当に腹立たしい!いっそ今からでも首だけにしてライワールトに―――」
「黙れ、お前はいつも話が長い。女を抱く時に他人を置く趣味もない。………もう良い、下がれ」
夜分に部屋の前でそんな話をするのも、牽制に違いない。
扉越し、歯軋りの音もこらえずに、宰相らしい老人がこの場を離れる荒い足音が聞こえる。彼の孫娘もまた、この離宮にいるのだったか。
数秒の後、扉が開いた。
「お通りをお待ち―――」
「世辞はいい。聞こえていただろう?ネレイス・オウディアス。賞品にお前を選んだのは、妃を奪われた男の顔を見たかっただけだ」
瞬きのたび、くまのない目の下にかかるまつげが、やけに目についた。
ゆっくりとした言葉。演技がかった冷笑ですら様になるこの国の王が、目の前で悠然と笑う。この国に来て1週間、久しく顔を見なかったのに。
ひどく、ひどく整った顔―――ランクが低いとは言ったものの、平民の一家であれば数十年裕福に暮らせるであろう調度品ばかりが並べられた部屋だ。天蓋付きのベッドに、深い飴色のチェストに置かれた金の燭台。白磁の香炉に花と駒鳥を描いた絵画。ライワールトで用意されていた家具より質のいいそれら一切を見劣りさせてしまう、そんな容姿。
切れ長の瞳に高い鼻、薄く形のいい唇。頭ひとつ高いところにあるそれらを見上げれば、襟首に掛かろうかという長さの黒赤の髪も揺れる。
浮かべた笑みを思わず消して、その容姿に感心した。体躯にも優れて、この顔に武力や権力も備えているとは。多くを持ち、何度も物事を思い通りに進めてきた、そんな自信が表情からもうかがえた。
炎、花、宝石。形容する言葉は数あれど、それでも鮮血が一番しっくりくる。そんな瞳が細まる。
「この国はどうだ、側妃。向けられる目は、与えられるものは、母国とどちらがマシだ?」
皮肉に、唇が弧を描いた。
この国に来る前に私が彼について散々調べたように、彼も私について調べさせたらしい。負け犬側妃、とさんざん蔑まれていた過去を。正妃の座を奪われ、執務をこなす道具として扱われ、手柄は全て国王のものになるなど国を恨んでいるに違いない。だから敵国でやり直しを求めて夫を裏切った悪女、といった所だろうか。
余裕を隠さない瞳に、軽薄な冷酷さがうかがえた。侮辱に激高するのか、屈辱にゆがむ顔を晒すのか、媚びを売るのか。水面に石を投げて波紋を確かめるように、淡々と観察されている。
「……あなたに選んでいただけたことを、とても嬉しく思います。たった一目で、あなたに焦がれてしまったのです」
わらう。
例えばかつての夫に頬を寄せられた茶髪の少女。恋をした女の顔はあんなだろうか、と思い返して真似ながら、胸に手を当てて、目の前の冷酷を、それでいいと笑う。
警戒されて当然だ。探られるのは、彼が私の腹の内を知らないからなのだから。
この離宮にいる数十もの女と同じように、私も私のためにこの男の妃となった。あの舞踏会でダンスに誘われたとき、演奏家達が壮大に楽器を爪弾くなか、この後の賭けで私を連れ帰って頂けませんかと彼にしか聞こえない声で囁いた。
彼がライヒムに裏切りを伝えていれば、連れ帰るどころか、ライワールトにおける私の立ち位置は大きく変化していただろう。けれど彼は両国の平和ではなく、国王の屈辱を選んだ。
顎をとられて上を向く。
「顔を見たこともない男にとは、随分なことだな。ほかの男から寵を得たら、自分を顧みなかった王を見返せるとでも?―――まあいい」
力強い腕だった。言葉とは裏腹にゆっくりと、天蓋付きのベッドに押し倒される。
「怖いか。この顔と身体にも関わらず、ライヒムはお前に手を出さなかったらしいな。処女だから痛みが怖い、覚悟する時間が欲しいというなら、今晩はやめてやろうか?」
余りに丁寧な手つきだったから、覆いかぶさる男に反応するのが、数瞬遅れた。照明を遮るように、驚くほど美しい顔が目の前にある。腕に触れる掌は熱いけれど、瞳に浮かんだ色は嘲笑に近かった。
彼の言う通り、拒絶すれば抱かれることはないのだろう。彼の訪れを、この腕を熱望する女は宮に何十人もいるのだから。頷いたなら他に行ってくれるに違いない。代わりに今晩どころか、2度と私の元を訪れることもないのだろうけれど。
軽く抑えられた腕を外す。そうして肩に手を回し、ゆっくりとまた笑う。目の前の男への慕情など欠片もなくとも、滲ませられるように、慕わし気な声を作って。
「いいえ、どうか、慈悲を。―――グランヌスの帝王、クヴァル様。貴方が望むものを、私は差し出せます」
信用など、欠片もされていない。国の機密は触れられないようになっていたし、どこにいて何をしようとも監視の目はついて回った。連れてきた侍女などいなかったから、新しく私付きになった侍女の目も、決して好意的とは言えなかった。
けれど、それで充分だった。
この国に来る前、グランヌスとその周辺の国については、ライワールトで得られる知識の限りを頭に入れていた。
女を閉じ込めるための、大きな大きな、無駄に金が掛かった豪勢な庭。
色狂いと評される先王の時代、グランヌスの後宮にはいまの3倍近い女がいたらしい。女同士の小競り合いを面白がった先王の意向もあって、寵愛争いは熾烈を極めた。30人以上いた先王の子も暗殺やら謀略に立場を追われて数を減らし、母の身分は高くはないが最も優秀だった第9王子―――、帝王にして私の今の夫、クヴァル・レヴェスターが去年、帝位を手に入れた。
好みの容姿の女であれば既婚者でも後宮に放りこんだ先帝ほど色好みではないが、見目麗しい新王の寵愛を求める女は、先帝のそれより多い。
今の後宮で小さな諍いは時折起こっていて、突然連れ帰られた隣国の女に向けられるほかの妃の視線は、決して好意的なものではなかった。
例えば、この後宮の権力は2人の有力者の娘が2分していること。2人は酷く仲が悪いこと。
皮肉や嫌味を耳にする機会は多いが、その程度はライワールトでもありふれていた。言葉一つ、仕草一つからも察するものはある。数度茶会に招かれれば、妃それぞれの立ち位置や、誰が誰を敵視しているかを読み取れた。
得られる情報をつなぎ合わせて、うまく振舞わなくてはいけない。ライワールトでは出来なかったから。
帝王が私の元を訪れることは、半月に一度も無かった。夜明け近くに顔を見るときは、甘い香水を纏わせることも、その背に爪痕も多かった。妬けるか、と問われれば頷いた。たとえ何も感じていなくとも、彼に焦がれて国を裏切ったことになっている。
「寵愛を望むのは私だけではないと、分かってはいるのですが……」
ほんの少し瞳を伏せて、不興は買わない程度に嫉妬を言葉に滲ませる。お前ほど美しい女もいないがな、と頭を撫でられて、間違ってはいないのだと息をつく。言葉と裏腹に冷めた目を向ける男に、同じく薄っぺらな睦言を重ねる。
滑稽でも、互いに馬鹿馬鹿しいと思っていたとしても、楽しませなければいけない。見下されようが嫌われてはいけない。憎まれてもいけない。彼がそうしようと思えば、簡単にこの首は胴と離れることになるのだから。
そうして月が二度満ちて欠けた夜、彼は剣を携えて、私の部屋を訪れた。
風のつよい夜だった。木の葉が窓を打つのか、乾いた音がひっきりなしにかすれて鳴っていた。
「どうした?目を見開いて。俺はただ、慣れぬ異国に不安がる妃を慰めに来ただけなのに。それとも、そうでない方がよかったか?」
「……いいえ。お通りを、お待ちしていました」
剣の柄から離れない指から、ゆっくりと視線を逸らす。
はは、と彼は吐息だけで返事をした。いくつもの指輪で飾られた手に、いつかのように顎を掬われる。2月経っても与えられたときと家具の配置も小物の数もほとんど変わっていない部屋に、全くなじまない男だった。
「とてもそうは見えんがな。何の用だと顏に書いてある。……つい先日、後宮で起きた諍いは知っているな?後宮では最高位の2人の妃、財務大臣の娘とレスティカ公爵家のレリエーラが長く争っていたが、ベツェリ……財務大臣の娘の不貞が公になった。姦通は首を落とすべき罪だが、大臣は爵位と領を国に返上し、平民となることで娘の助命を嘆願し、受け入れられた。これから後宮は、レリエーラが唯一の最高位の妃となる」
頷く。ここ数日、後宮はその話で持ちきりだった。
―――本当に、仲の悪い2人だった。年が近く家同士も険悪、2人ともこの国の正妃になれと育てられたのだから当然かもしれないが。他の女を帝王の前から排除したいベツェリ妃と、振る舞いを管理する代わりに低位の妃でもある程度の融通を利かせていたレリエーラ妃は、性格も意向も、まるで反対だったのだ。
数多く側妃を迎えても正妃のいない目の前の男の隣の座は彼女たちが一番近くて、私がこの後宮の妃になった時にはすでに、宮を2分する派閥も出来上がっていた。
「存じています。お二人とも招待していただいたお茶会でしか、言葉を交わしたことはありませんでしたが」
「惚けるのか?白々しい……ベツェリの不貞、それが公になるように仕組んだのは、お前だろう」
愉快そうに彼は言った。いくつもの指輪が付いた手が腰に回され、抱擁と変わらない距離まで身体が触れ合う。楽しそうな血の色が、爛々と私を見据えている。この2月薄っぺらな会話しかなかったのに、睦言を囁かれるよりずっと、愉快気な顔だった。
「ベツェリと通じていた男は普段庭園の離塔で逢引きを行っていたが、改築のために離塔が閉鎖され、別のところで会わなければいけなくなった。単純な女は離宮の一室で事に及ぼうとして、レリエーラの侍女にそれを見られてしまった」
塔の改装を促したのはお前だろう。まだ離宮に入ってたったの2月なのに、と吐息交じりの笑い声。
内心で、舌を打った。視線が揺れないよう瞬きで誤魔化しながらも、ああ本当に優秀だと指の腹をする。
監視がつけられていたし、どこで誰と何を話したかは筒抜けだっただろう。それでも報告から事実を繋げられたのは、この男の優秀さによるものに他ならなかった。
「何のことでしょう?」
「責めているのではない。これでも感心しているんだ、ベツェリは嫉妬深く、面倒な女だった。いなくなって随分と風通しが良くなった。……それで、興味がわいた。お前はなにを、どうやった?」
窓の外は暗い。唇を噛みそうになってやめた。最初の晩に観たものと同じ、酷薄な瞳。
彼は最初からベツェリの不貞を知っていたのだ、と思い至る。けれど最高位の妃の裏切りを、対応する必要がないと切り捨てて泳がせていた。今も彼女を追い落としたものの方が、興をそそったからここにいる。
それだって私個人への興味というよりは、新しい玩具を確かめに来た、といったところだろうか。
ああ全くこんなに優秀だとは、と首を傾げて口の端を吊り上げる。扱いづらくてかなわない。本当に予想外で、けれどまだ想定内だ。
「なにも。ただ庭園のバラを眺める茶会に招待していただいた際に、母国の思い出話をしただけです。王城の庭園にも離塔があり、そのバルコニーから見下ろす眺めよりも見事なものはなかったと」
瞳を逸らす。窓の外には、まだつぼみもできていない生垣が広がっている。
この後宮には広い薔薇の庭園があり、その隅には4階建ての離塔があった。塔の最上階には庭園を一望できる大窓もあり、薔薇の盛りにはそこで茶会も行われるらしい。
1月ほど前呼ばれた茶会でライワールトの薔薇はここまで見事ではないでしょう、と妃の1人に話を振られた時に、薔薇の美しさはともかく窓越しにしか薔薇を見られないのですね、と返事をした。
庭園の広さや品種はこの国に劣りますが、庭園を見下ろせる塔がライワールトにもありました。薔薇を楽しむための塔だったので最上階にはバルコニーがあり、塔の意匠も含めて硝子越しではない眺めはとても見事なものでしたよ、と応えたのだ。
惨めにも捨てた祖国の話をする他国の女への反発か、硝子越しではないバルコニーからの眺めに惹かれるものがあったのか。丁度お茶会に出席していたことさらに薔薇を愛する妃がそれを聞いて、次の薔薇の季節までに離塔を改築したいと言い出した。
それからも、例えばベツェリ妃の不貞相手の夜警の日が変更になったとか、レリエーラ妃が読みたい本が丁度他の妃の手に渡っていて侍女が受け取りに行くことになったなどの偶然が重なって、ベツェリ妃の不貞は明らかになってしまった。
「なるほどな。そもそも、どうやって不貞に気が付いた?お前の言う通り、茶会くらいでしか関わっていなかっただろう」
責めてはいない、感心している、の言葉に嘘はないらしい。端正な顔は変わらず、楽しげに歪んでいた。
「香りです。あなたがよく使うものと同じ香りが、1月ほど前のお茶会の、昼時のベツェリ妃からしました。あなたと同じ香水を使う者などこの離宮にはいないのに。その前の晩はあなたは彼女の元を訪れなかったとも聞きました。なので誰と触れ合いついた香りなのかと思っただけです」
べツェリ妃が特定の相手とだけする目配せや、女たちの間で流れる噂話。他にもいろいろあったけれど、一番はそれだった。
ベツェリ妃の浮気相手は、後宮に出入りする騎士だった。目の前の彼よりも明るいけれど赤毛で、見目麗しい、体格も髪の長さも同じくらいの美丈夫。
代わりだったのだろう。ベツェリ妃は帝王を愛していた。他の妃への態度は嫉妬ゆえで、それでも彼が自分だけを見てくれないことに苦しみ、似た男に同じ香水を与えて自分を愛させることで寂しさを紛らわせた。彼女がいなくなって清々した、と言い放った目の前の男に焦がれていたのだ。
なるほどな、と彼は簡単に剣を放りなげてベッドに沈む。その手のひらに指を重ねた。機嫌よさげに唇が落ちて、お前は面白いな、と囁く言葉にも、笑みを浮かべる。
今晩彼女は後宮からいなくなる。最後の夜すら帝王に選ばれない女を憐れみ、口角をあげた。
彼女が愚かで、本当に助かった。
∮
言葉を交わす。グランヌスについても、他国についても。
新しく輸入を考えている新興国の絹織物、雨の少ない地域で育つ作物。先王への忠誠から翻意を示す家臣まで。
淡々と夜は繰り返された。隣国なこともあって、気候も言語も宗教も同じ国だ。宿敵とも腐れ縁とも言えるグランヌスについては、ライワールトに居たことから他のどの国よりも知っていた。公務や国の仕事をしていた頃は、参考にしたところも多い。ライワールトで国王の公務の大半を受け持っていた、その知識は大いに役に立った。意外にも彼の口から直接ライワールトについて、例えば軍備や辺境伯の武力など、戦争の為の話がのぼることはなかった。可愛い妃の1人に血なまぐさい話は出来ないだろう?と言われて、言葉の軽さを内心嘲りながらも、なんと優しい、と頬を染めてみせる。
ベツェリ妃の一件以外大きな事件も起こしていないのに、帝王が私の元を訪れる回数は、週に1度、週に2度と増えていった。
叩けばこざかしい返事をする玩具、くらいに気に入られているのかと思っていたけれど、単に話し相手でも欲しかったのだろうか。クヴァル・レヴェスターは帝位を手に入れる際、父である先代王を斃している。臣下を統制するためだけに側妃を取り続けている男にとって、毛色の違うペットくらいには思われているのかもしれない。
どうしてお前が、と他の側妃や一部の役人からは敵意のこもった眼を向けられたが、一向にかまわなかった。
いままでは入ることが許されない資料庫の、閲覧の許可も出た。未だ信用されていないことも、試されている最中であることも良く理解している。けれど少しずつでも、自由にできることが増えたのは喜ばしかった。知識はどんなものでも欲しい。
「ライワールトから文が届いた。奪われた妃を返せ、とな。対価として用意されたものの目録を見るか?なかなかに豪華だぞ」
気が付けばこの国に来て、半年ほどが経っていた。彼とは机に向かい合い、茶器を挟んで言葉を交わすこともあれば、早々にベッドに向かうこともあった。今日も帝王は閨を訪れ、けれど用意した茶に口を付けるより早く懐から紙を取り出す。渡された書状はかつていた国の王直筆のもので、彼の言う通り、大量の宝石や交易品の一部の関税を融通する代わりに私の身柄を戻せ、というものだった。
丁度一番下まで目を通したあたりで良かったな、と彼は片手を揺らす。
「嫌われているのかと思っていたが、この紙一枚程度には必要とされているらしい。戻ってもいいぞ?そうして散々な目に遭ったと国王に泣いて縋れば、ライワールトでもかつてより恵まれた暮らしが出来るかもしれない」
「1度裏切っておきながら、次などないでしょう。国王が是と言っても、周囲が許しません。何よりいま、私はあなたの妃です」
軽い口調に、返事は決まっていた。
さっぱりと落ち着いた、お互い雑談を交わすような、簡単なやり取り。ならこれは必要ないな、と呟いて彼は手元に戻った紙を破る。テーブルの下、床にこぼれた紙片が革靴に踏みにじられた。
話はそれで終わりらしい。悠々と彼は茶に口を付ける。私が淹れたものに口を付けるようになったのは、いつからだっただろうか。
向けられる視線、話すときの口調の変化。張られた壁が薄くなるように、少しずつ距離が近づいている実感があった。私に気を許すなんて、支配したがっている敵国の女なのに正気か、とは思うけれど、この部屋を訪れる回数が増えることも含めて事実なのだから仕方がない。
おそらく、この男には腹心と呼べるものが居ないのだ。それに気がついたのは、いつだっただろうか?
帝国にも宰相はいる。王に意見や陳情を出すものも。けれど彼個人を諫める者はいない。父王を斃したことが関係しているのだろうか。ライワールトでは王子に乳兄弟がいたが、彼はそれを、自らの手で殺したらしい。
「裏切ったからな」
夜明け近くに寝物語らしいものをした時、彼が漏らしたのは、それだけだった。
ライワールトでライヒムの婚約者だったころ、王は孤独なのですと散々教えられた。だからこそ良く仕え、すべてを捧げなさいと何千回も繰り返された。こんな敵国の人間を拠り所とするほど、彼が孤独であるならば。
「……この国に迎えていただいて、あなたには本当に感謝しています。どうかこのまま、お傍にいさせてください」
とくべつ、柔らかい声を選んだ。
信用されるのはいいことだ。彼の言葉一つで戦争がはじまり、多くの人間が死ぬのだから。
誰よりも近くにいたい。そうならなければいいと願っているけれども、必要があれば、彼を手にかけられるくらいに。
その日クヴァルが持ち込んだのは、いつかの賭け事をした夜と同じ、チェスの盤と駒だった。
この間与えられたばかりの、最高級品の茶器を退かして相対する。手加減はするなと最初に言われていたから、思うがままに駒を動かした。黒い駒が盤で躍るたび、自分の薬指の付け根がしろく光る。約束は約束だからと、後宮に入った日に見せられたなかで選んだ、青紫の石の付いた銀のそれ。高価な石ではないけれど迷わず選んだ指輪を、着けないのかと催促されたのはいつの事だったか。
盤面は終盤、指し手もよどみない手つきも、彼がこの遊戯にかなり慣れているのだと分かる。同じペースで次を選びながら、脳内の駒を巡らせる。
「あの国王より、余程駒の動かし方も理解している。……彼奴と指したことはあるか?圧勝だっただろう」
「1度も。分けですら認め難いと、そう思われる方でしたから」
「愚かな奴だ。ものの価値も理解しない。……あんな無能が王であるなど、許しがたいと思わないのか?」
指が空を切った。帝王はやけに静かな、赤い瞳をしていた。
「……さあ?それを私が考えるなど、恐れ多いことですから」
明確に戦争を思わせる言葉はない。けれどライワールトを憎く思わないのかと彼が問うのは、何度目だろうか。息を吐く。
「帝王、あなたはライワールトを欲してはいないでしょう。それなのにどうして、あの国の支配を望むのですか?」
最高位の妃に裏切られようが怒りもせず、私の対価としてライワールトに提示された目録をつまらなさそうに破り捨て、笑いながら臣下の翻意を語る。そんな彼をずっと、疑問に思っていた。
彼が残虐であるならばまた違った。血に狂って戦に愉しみを見出すような人間なら、より多くを支配したいと望む傲慢な人間なら、こんなことは聞かなかった。
気まぐれに、言葉一つで何万人も殺せる男。妃も家臣も見下し、誰にも情を向けない男。蔑む言葉とは裏腹に、彼が他人について話すとき表情に浮かべるのは退屈ばかりだった。財にも他国の支配にだって、彼が意欲を見せたことは1度もなかった。
「……それが帝国の王だからだ。グランヌスは支配し、侵略する国。それを否定するような腑抜けは寝首を掻かれる。お前には、分からないだろうがな」
もう終わりだ、と呟きながら彼は自身のキングを倒して、私の腕を引く。柔らかなリネンに座らせて、勝手に膝に頭を置きながらゆっくり瞳を閉じる。
随分と無防備な、と黒赤の髪を撫でた。そうしようとはまだ思わないけれど、彼を殺そうとするなら、容易く手にかけることができるだろう。気を抜いている振りかもしれないけれど。
部屋を見回す。最初から必要な品は揃えられていたけれど、いつの間にか調度品が増えている。侍女も1人から5人に増え、柔らかな物腰の、礼儀正しい者ばかりになった。
帝王は敵国から連れ帰った女を気に入っている、というのはもう、後宮の常識になっていた。気に入らないと憤る者や私にすり寄る者、反応は多くあるけれどどうでもいい。
頭を撫でていた手が、ふいに重ねられて、握り込まれる。
「………新しい指輪を贈ろうか。お前が望むなら、どんなものでも」
「いいえ。私はこれが良いのです」
「つまらんな。ドレスでも宝石でも、なんでも良いというのに」
もう十分頂いていますからと青紫の石に触れる。約束のために並べられた指輪の中から、迷わず選んだそれ。瞳の色と同じものか、という言葉には頷いたけれど本当は違った。これより小さくくすんだ石を、それ1つを施したロザリオを握ったあの人の掌を、今もありありと思い出せる。
「かつて与えられた指輪と、どちらが好きだ?」
一度、瞬いた。
「俺ばかり話すのは不公平だろう。お前も話せ。……この指輪と、ライワールトで国王に与えられた指輪、天秤にかけるならどちらを選ぶ?」
お前は賢い。後宮の誰よりも。けれど演技は下手だなと、男の喉が低く鳴った。そうして、お互い猫をかぶるのもそろそろ飽きただろう、と笑う。
「ネレイス、散々慕っているとのたまっても、お前は俺を愛したことなどないだろう。俺の寵を得られて嬉しいというなら、少しは贈り物に喜ぶそぶりを見せるべきだ。けれど母国を恨んでも、見返したいわけでも、よりいい暮らしをしたいわけでもない。なら、
―――お前は、どうしてライワールトを裏切った?」
誤魔化すのは簡単だった。納得させられる自信は、全くないけれど。
潮時だな、と瞳を伏せる。年に一度しかない機会を使って連れ帰った、国を裏切った異国の女。この国を訪れて早々に高位の妃を蹴落として、けれどその後は大人しくしている女。探りを入れられていると感じることは、なんどもあった。1度だって、彼に嘘を吐いたことはないのだけれど。
ずっと彼の瞳に浮かんでいるのは、気に入った妃への愛情などではなく、未知への好奇心だった。
全く、いやになるほど、私に似た男だ。
彼の退屈を、私はよく知っている。優れているという毒を、他者と同じ視点を持てない孤独を。けれど、どうあっても同じにはなれない。
交渉に必要なのは、相手が何を望むのか知ることだ。探り合って腹の底を知りたがって、されど立場は最高権力者たる帝王と両手足の指を超える数いる側妃の1人で、つり合うものではない。
喉が鳴る。柄にもなく緊張していて―――けれど、期待もあった。
「………ご存じでしょうが、私はライワールトの辺境伯当主と、平民の間に生まれました。私を育てた孤児院は、オウディアス領の端、この国とライワールトの境の、山脈にあります」
∮
「母の顔は知りません。物心つく前から親の代わりに育ててくれたシスターと血の繋がらない兄姉が居たので、知りたいと思うこともありませんでした。目を離せず、山羊の乳が必要な赤子は、彼らにとって大きな負担になったでしょう。それでもあの人たちは、男に捨てられ、失意と体調の悪化から子を育てられなくなった母の代わりに、私を育ててくれた」
「それ、は、知っているが。貧しい院だったと」
唐突に始まった昔話に、怪訝そうな顔をされる。とびきり整った顔の抜けた表情に、笑みがこぼれた。
「本当に。国から孤児院をつくれと命じられ、運営している事実があるだけで良いと、辺境伯が使われなくなった教会にシスターを一人放り込んだだけの院でした。彼女の努力がなければ早々に潰れるか、人売りの寝ぐらになっていたでしょう。彼女は善良で、気高い人でした。食べるものが少ない時は迷わず子供に自分の分を与え、身が凍るほど寒い朝は、水が冷たいからと率先して洗い物をしていた。大きい子供はそんなあの人に、洗い物は自分たちがやるからとエプロンの裾を引いて、それでも彼女の手は、いつもあかぎれだらけでした。あんなに美しい手を、私は知らない。これからどれだけ生きたとしても、知ることはないでしょう」
「……お前、そんな顔をするのか」
どんな顔ですか、と問う代わりに目を細める。久しぶり、あるいは初めてちゃんと彼女の、あの人の話が出来る喜びがあった。
愛しい彼ら、いとしい故郷。
例えば、孤児院の隣に植えられたシザンサの木。乾かせば保存がきいてお腹の薬になるからと、実がなると小さな子供と一粒ずつ摘んだ思い出。苦いけれど葉が柔らかな季節には、それも食べられること。
或いは、夕焼け空の下の雪合戦。非日常にはしゃぐ子供達は手が悴むまで雪玉を投げて、誰も絶対に負けを認めなかったから、勝敗は一向に付かなかった。風邪を引く前に戻ってねと血の繋がらない年嵩の子供に注意されて、隙間風の吹く玄関に戻ると、冷えた頬を両手で包まれた暖かさ。
本も紙も手に入らなかった中で、誰よりも話を作るのが上手かった同じ部屋のあの子。皆で集まって一文ずつ繋げて物語を作ろうとして、とんでもない結末になってしまって笑い転げた月の明るい夜。
朝焼けの鮮やかさ、木登りして見上げた空の青さと太陽の近さ、夕暮れの琥珀色、世界を埋め尽くすような銀の星空と一筋の流星。
「貧しい院でした。辺境伯からの、領からの支援はなく、近くに住む人への手伝いや働き始めた兄姉たちが、援助をしてくれました。服はお下がりを何度も繕って皆で着回したし、水以外でお腹いっぱいになる事は滅多になかった。……けれど、幸せでした」
本当に、心の底から幸福でした。
震える声で、呟いた。
彼の指が、薬指に触れる。赤の瞳は指輪ではなく、ついた青紫の石を見ていた。
「……いつも、お金に困っている院でした。換えられる価値のある物は少ししかなかった。その中でシスターが唯一手放さなかったのが、青紫の石のついたロザリオでした。これよりずっと小さくてくすんだ石でしたが、ロザリオを握るあの人の向こうに、神はいた」
何を考えている、と彼は聞いた。その答えだ。
神が、祈りが人を救うというのなら。あの人が私の神だ。あの場所だけが家だった。
「なら、お前にとって、辺境伯は」
低い声。髪が、肩を滑り落ちた。
「……父に引き取られた日のことは、今も鮮明に覚えています。昨日と何も変わらない1日と、思っていました」
掴まれた髪と、伸ばせ、と低く落とされた声。それが父親である男から向けられた最初だった。
∮
連絡もなく現れた、とても大きく豪華な馬車。扉から現れた黒髪の男は何事かと集まった子供たちをぐるりと見まわして、孤児院の玄関前に立つ私に気が付くと大股でこちらに来た。ひどく冷めた、値踏みするような視線。
次いで現れた男性2人はこの娘か、とかたがいに言葉を交わして、着いて来い、の一言だけで私の腕を引く。馬車に連れ込まれる、と足に力を込めた瞬間、ネレイスに何をするのとエプロンを付けたまま弟妹の間を掻き分けて、夕食の準備の途中だったシスターが来た。
彼らはこの領の領主と、その臣下であるらしい。そうして領主は、オウディアス辺境伯は、私の父だと男は話した。10年以上前、彼は気まぐれに領の平民の女に手を出し捨てた。女は子を孕んで、産んだらこの孤児院に捨てた。それが私であると。
「認知を求めないならどうでもいいと捨て置いていたが、事情が変わった。我が家から王家の妻を出すことが決まったが、実子にも親戚にも適した年頃の娘がいない。あれは母こそ平民だがオウディアスの血を引いている。あの顔なら、教養さえ身につけさせれば王子も満足するだろう」
だから私を、オウディアス辺境伯の養女にする―――。応接室などないこの院の、それでも一番整えられた部屋で、父であるらしい男がシスターに言い放ったのを、部屋の外で盗み聞いた。
それであの子は幸せになれるの、とシスターは聞いた。
名誉なことだ、幸福かなんて馬鹿らしい、と男は答えた。
あの子を、あの子の母親を愛していたの。名前を憶えている?と、彼女はまた聞いた。
どうでもいい、と男は答えた。
もう夕暮れだから、明日私を連れていく。逆らうなら孤児院を潰す。ほかの子供も皆路頭に迷うぞと、それだけ述べて、男は部屋を出る。扉の外の私に気が付いても、目が合っても、一言もなかった。
ぐるぐると頭が回る中、そんなものなのか、と思った。馬車が来てからずっと、現実味がない。自分はこの孤児院の子供だと思っていたけれど、そうではなかったらしい。明日も家族と食事をするのだと思ったけれど、それも違ったらしい。
明日はシチューだったのに。来月にはリラシアの花が咲くから花冠を作ると妹の1人に約束したのに、こんなに急に。けれど仕方がない。逆らえば孤児院を潰すと父は言った。私一人の我が儘の為に、弟や妹が家を失うなんて、絶対に許せない。
開け放たれた扉の向こう、机にうつむくシスターの背に視線をやる。
笑わなければ、と唇をかんだ。笑って、大丈夫というのだ。王子の妻、というのがどういうものなのかは分からない。貴族なんて遠い話で、難しいことの為に娘が必要になっただけで、父らしいあの男は、私に興味も関心もないのだろう。
それでもうまく交渉できたなら、今まで育てたお礼として、お金でも物でも、孤児院を支援してもらえるかもしれない。寂しいけれど、私が居なくなる代わりにほかの子たちのパンが増えるなら、院にとっても悪くない話になるはずだ。
だから大丈夫と、シスターに声を掛けようとして。
「ふざけないで………………」
尽きかけた蝋燭の、炎が揺れた。
バン、と一度だけ、ささくれだらけの拳が机をたたいた。
「こんな形で手放すために、不幸にするために、育てたんじゃない……!」
シスターは、彼女は憤っていた。何十人もいる子供のひとりが、望まない家に引き取られそうだなんて、そんなことの為に憤って、泣いていた。
扉の後ろの私に、彼女は気が付いていなかった。なのに泣けるのか、と驚いた。今まで何十人も育てて、引き取られたり院を出て。そんな大勢のうちの一人の為に、こんな悔しそうに、肩を震わせることが出来るのか。
私が特別というわけではない。この優しい人は、誰が辺境伯に引き取られたとしても、その未来に不安を感じれば、たった一人で拳を握るのだろう。
愛されていたのだ、と思った。
辺境伯に押し付けられたこの土地で、ただ子供を愛したから。それだけで彼女は何十年も。
全身が震えた。私がこの国有数の貴族である辺境伯の娘であるとか、王子の妻になるとか、そんなことよりもずっと。この事実は、重くて、恐ろしくて、大切な事だと思った。
へたり込みそうになる足を気付かれたくないから、必死に地に縫い付ける。
この人は、なんて、美しいのだろう。
笑みが溢れた。すべきことが分かった。この美しい人に、この人と私が愛する家族に。
私が出来るすべて、あなたがそうするように捧げよう。
少ない私物を、同じ部屋の子や弟妹に分けた。持っていきたいものは多いけれど、あの辺境伯は貧しい孤児院に在るものを館に置くことを許さないだろう。それなら服も少ない髪留めも、この子達のために役立ててほしい。
忘れないでね、と友達に抱きしめられた。物語を作るのが上手な、同い年の、ずっとおなじ部屋で過ごした親友だった。遠くに行っても私たちの事を忘れないでねと寂しそうに涙ぐむ声に頷き、抱擁を返して、忘れないよと返して瞼を閉じる。
双子のように育った彼女の笑顔も、はつらつとした声も、よくおさげを編んだ赤毛も。陽にあたったその色の柔らかさも。
この子が、兄妹たちが私を忘れても。この愛おしさと寂しさは、私の1番奥深くにある。
二度と此処に戻れなくともいい。あの人のためなら、私の家族が幸いであり続けてくれるなら。それを、それだけを、幸福と呼べる。そのためなら、何でもできる。
孤児院の支援を辺境伯に望んだ。お前が不出来であればすぐに支援は打ち切り院をつぶしてやると言われ、精一杯努めます、と返す。
この男の、周囲の望む以上で応えよう。精々私も妃になることを望んでいると、それに相応しいと考えればいい。
おなじ黒髪の男に笑いかける。腹のうちで唸る獣を飼いならすように。
もし、お前があの人に、私の家族に手を出すなら。
どんな方法を用いてでも、絶対に殺してやる。
∮
目を開ける。変な顔をした男が、理解できないものを見る眼で、私を見ている。
「それからは、あなたもご存じでしょう。私はライヒムの婚約者になり、けれど婚約は破棄され側妃になりました。王太子がそれを望んだだけではなく、平民の血を引いていることに一部の貴族が反発を示したためです。王家都合の婚約破棄の対価として辺境伯は少なくない利権を得て、家から正妃が出ない事の溜飲を下げました」
「お前は、ライワールトを……」
つうと、笑みを浮かべる。
「憎んだことは一度も。愛したこともありませんが」
従順な女だったと、自分でも思う。仕えるように王太子に接した。彼の承認欲求を満たすために貧しいものに職を与える政策を作り、その策で孤児院の彼らの食い扶持が増えればいいと願うような、迂遠なことしかしなかった。
グランヌスに来たあとだって、戦争を推し進めようとした財務大臣を、娘の不貞を明らかにすることで潰すくらいしかしなかった。もしも目の前にいる彼が戦争を望む性格であれば首の挿げ替えかたを考えただろうけれど、目の前の男は戦争以前に、この世の何もかもに飽きたような瞳をしていたから。
言葉を切った後も、彼は少しも動かなかった。
「……あなたには本当のことをお伝えしたかったのです、帝王。私は、貴方の敵にはなりません。国も、権力も、名誉も心底どうでも良い。あの人たちが幸いであれば、それだけでいい。それだけをお約束してくださるなら、なんでもしましょう」
「……かつての夫を、殺せと言ったら?」
「私がしたと、知られない方法でよければ。内乱を起こさせるも……ああ、けれど早いのは」
「情はないのか」
食い気味な言葉。どうでもいいと言ったばかりなのに。
「…………ずっと、ライワールトを憎んでいると思っていた。だからこの国の妃になり、俺を慕う真似事をしているのだと。お前には、それすらないのか」
「憎む?どうして。彼らは孤児院の人間ではないのに。婚約を破棄された時も……確か、安心しました。孤児院を出る時に、シスターに私は王妃になんてなれっこない、きっとどこかで捨てられる、だから心配しないでと言ったんです。だから、あの人に嘘を吐かずに済んで、安心しました」
男の、熱い首に手を回す。
「これが、私のすべてです。あなたの望む言葉を話し、思う通りに振舞いましょう。あなたが言葉一つで殺せる数十人、それっぽっちの命を生かして頂くだけで、私をどのようにしていただいても構いません」
使えるでしょう。この身体も、頭も。
どうか私を、あなたの物に。
沈黙の後、帝王は、口を開いた。
「家族に、会いに行かないか?」
∮
彼の言葉ひとつで、呆気にとられるほどすぐに全ての用意がなされた。一国の王が付いていく、と馬車に乗り込んできたのは意外だったけれど、文句を言うはずもない。
十年ちかく焦がれ、けれど死ぬまで会えないと覚悟した場所は、たったの二日と半分で着いた。
道中の座席の硬さや揺れの大きさ。そんなものはどうでもよかった。お忍びという体でも泊まった宿では、乞われて孤児院での昔話をぽつぽつとした気がする。
呆れるほどのどかな快晴だった。
粗末な馬車の中から、あの人を見た。
小さな丘の上で、彼女は洗濯物を取り込んでいた。そばでは子供が布をかぶって遊んでいて、少し背の高い子がそれを笑いながら咎めていた。干したてのシーツを捲って赤髪の女性がーーーかつて同室だった親友が、彼らに何か、声をかけた。そのまま連れ立って、みんなで懐かしい家へと戻っていく。
遠目で、その顔に皺が増えたのか、年月に容姿を変えたのかは定かではない。それでも笑っていると、それだけは分かった。
「会うか?」
「……いいえ。国境ですから、ライワールトの兵に見られるわけにはいきません」
一眼みられれば、十分だった。孤児院のリストのなかに、ここの名前があるだけで十分だった。
塩辛くて、頬を伝う何かを、やっと涙だと気がついた。
ぬぐいもしないまま、やっとクヴァルに瞳を向ける。
「ありがとうございます。私はこの光景を、かれらを、生涯忘れないでしょう。だから、もう、充分です」
∮
後宮の妃は次々といなくなった。私一人を除いて。
正気かと思ったけれど、レリエーラは故郷に恋人がいるそうだ、離縁後は身分の違うその男と結ばれるようにしてやると言えば大喜びで荷をまとめていたぞ、最高位の側妃が素直にいなくなるなら、他の妃もごねられないだろう?と私の膝に頭を置いて、それをした男は笑っている。
「……一新でもするおつもりですか」
「いや?唯一にするだけだ」
毎夜通うようになった男に、髪一筋を掬われる。
大量のドレスを用意した部屋で、彼は機嫌良さげに肩を揺らす。この国に来て、一年がたった。丁度一年。それは、去年賭けの商品として出た国の人間と…元夫である国王や、正妃とまた顔を合わせるという事だった。
この日を待ち望んでいた、と彼は言う。
「ネレイス、お前の腰を抱いて宴に出よう。ずっと膝の上に乗せ、指を絡めていよう。だから、俺を見ていろ。そうすれば、お前の一番望むものを与えてやる」
燭台の炎が揺れた。音もなく、唇に彼のそれが重なる。
∮
鮮烈な青紫に、今も囚われている。
「グランヌスの帝王、私には貴方がこの国を、侵略したがっているように見えます。ライワールトの王も民も、それに気付かず束の間の平和を享受している。戦火はすぐそこまで来ているというのに」
つまらない友好の証の、つまらない舞踏会で、その女はつまらなさそうに立っていた。退屈なだけの時間のなかでダンスに誘った時、女は誰よりも美しい所作でその手を取った。そうして曲が最も響いた時、俺にしか聞こえない声で、囁いたのだ。
「………だとしたらどうする。その細腕に、なにが出来る?」
返したのは嘲笑だった。細い腕が絡められる。四方から向けられている視線の一つが、剣呑なものになった。
「なら、この後の賭けに勝って、私を連れ帰っていただけませんか?」
くるりくるりと回りながら、それでも女は笑った。
曲が終わる。聞き返されるよりも腕を伸ばされるより早く、一歩下がってカーテシーをした。
この夜が顔を合わせる最初だったが、この女については知っていた。美貌と才覚で名を馳せ、けれど平民の血を引いていることから婚約を破棄された女。哀れまれ、蔑まれているはずの女。
利用できると思った。使えなくとも、酒やら馬やらよりは面白い。憎しみの籠った視線を背に向けながら、この女を連れ帰るための算段をつける。どう活用するかも。
その時は、本当にそれだけだったのだ。
「お前が賭けるのはその側妃だ、帝王!去年奪ったその女を、天秤に掛けるが良い!」
ああついに、と口角をあげる。
ライワールトから送られてきた使節団の中には、オウディアス辺境伯の姿もある。
ネレイスにーーー最愛の妃に出会ってから、ちょうど一年。去年とさして変わらない国王に、笑みを浮かべて相対する。
かつてネレイスと踊った時より数段強い、憎悪すら込もった目は愉快で、滑稽だった。そうして返事は決まっている。
「断る。賭けるのは国を左右しないものと決まっているだろう?ネレイスは俺の、唯一の妃だ。愛する妻を失ってはとても俺は正気ではいられない。この国も立ち行かなくなるだろう」
「なっ……!昨年は、その女を賭けさせただろう!」
「それは国王、そなたの側妃の話だ。ネレイスはそなたにとっては替えが利いた、が俺にはそうではない。それだけの話だ」
「替えだと……?まさかネレイスを心から愛しているとでもいうつもりか?!お前のような残虐な人間が、国益にもならない平民の血を引く女を、本気で愛するわけがないだろう!」
残虐な王、平民―――言葉のつまらなさに口角が上がる。国益こそがどうでもいいというのに、半端に常識やら愛国心を覗かせるこの男にも。生憎グランヌスにとって善いものであろうとしたことはない。
「愛しているとも。心からな」
「なっ……!い、良いから早くネレイスを返せ!まさか、子を孕んでいるわけでもないのに……!」
「――――――分からんぞ?」
膝に抱いた妃の、薄い腹をなぞる。ネレイスに懐妊の兆候こそないが、2日と明けず夜を過ごしているのは事実だった。1年以上側妃にしておきながら1度も触れたことの無かった、この国王と違って。
込められた言葉の意味に気が付いたのか、金の瞳がまた憎悪に染まる。
「…………なら、ネレイスを賭ける必要はない。代わりに、これから行う賭けで俺が勝ったのなら、ネレイス1人でライワールトに戻ってもらおう。身勝手にも突然この国を離れたから、公務が溜まっている。それらすべて終わるまで、ライワールトの為働いてもらう」
返す気などないのだろう。にこり、と笑ってやる。
「断る。そちらが何でも賭ける、というなら話は別だが」
「くそ、良いから早くしろ!」
国王がーーー男が今年の賭けに選んだのは、的当てだった。
互いの矢は3本。的の中心をより多く射たものが勝者となる。裏庭に的が用意され、兵や観客がずらりと周囲を取り囲む。長椅子を用意させ、ネレイスを膝に乗せたまま、ライヒムが弓を引き絞るのを見物した。
1射目、射芸が得意という評に違わず、国王の矢は的の中心をいぬいた。面白がる観衆、男は満足げに前髪を掻き上げてから、横目でネレイスに視線をやった。
2射目、矢は見事に最高得点を取れる円を射抜いたが、わずかに中心をそれた。
3射目、国王が弓を引き絞り、指を離す寸前で、膝の上の妃に口づける。一瞬瞠目したが、ネレイスは嫌がらなかった。その光景が視界に入ったのか、国王の金の瞳は見開かれーーー矢は、的の右上に大きくそれた。
ざわざわと、やかましく群衆は思い思いの言葉を放つ。最高点ではないが充分では、ああきっとライヒム様が勝つだろう。けれどネレイス妃を望むとは、いやこれは意趣返しではーーー。全て、どうでもいいことだ。
絡めていた指を外し、妃の頭を撫でる。
「少しだけ待っていろ。すべて、望み通りにしてやろう」
∮
1本目の矢を引き絞る。なぜか、昔のことを思い出した。
クヴァル・レヴェスターは……俺は、前王の五人目の妃の子で、九番目の皇子だった。父は多くいる息子のうちの一人など気にも留めず、母は身体の弱い兄のみを溺愛した。
乳母もその息子の乳兄弟もいたが、ハズレの王子、と見下された。物には恵まれ、けれど誰にも愛されず、視界に入りもせず。何も与えられなかったから、第一妃に母と虚弱な兄が殺されたときでさえ、なんの感慨も浮かばなかった。
幸か不幸か、容姿には恵まれた。碌な教育を与えられずとも賢しく、生き延びられるだけの才覚があった。そうしないと惨く死ぬしかなかったから、性悪な第二妃の息子の従者になった。そいつの元で多くを奪い取って奪われて、気がつけば両手の指よりいた王の子供は、俺と主人である第二妃の息子しか居なくなっていた。
第二妃の息子は帝位を目前にして最後に邪魔になった腹ちがいの弟を殺そうとして、逆に第二妃に敵対する家を味方につけた俺に処刑された。
絶対に死にたくない、と願ったわけではない。帝位に執着もなかった。けれど第二妃の息子は俺を拷問の末餓死させようと考えていたから、醜悪な権力欲塗れの人間を利用して、醜悪な権力欲塗れの兄を殺した。
そうしてたった一人、血塗れの玉座を手に入れた。臣下と名ばかりの老害どもに形だけ敬われ、彼らの望むままにその娘や孫を後宮に入れた。優れたクヴァル・レヴェスターに女たちは夢中になって、寵を求めて醜く争った。
新しい王に反発する家を潰し、俺を暗殺しようとする者を殺し、他人を蔑み、他人に憎まれ恨まれて。
遂に他国に手を伸ばそうとした矢先、因縁の国の絢爛豪華な城で、ネレイスと出会った。
全てに恵まれた。地位も、才も、容姿も。玉座を狙う兄弟の多さから幾度も命を狙われ、その全員を捩じ伏せた。立ち位置を脅かすことを恐れた父に処刑されかければその首を落とすことに躊躇いはなく、親殺しすら容易に出来た。
敵対している勢力にも関わらず、甘い言葉一つで頬を染める女を見下した。口先だけの約束で、容易く主を裏切り俺に媚びへつらう臣下を蔑んだ。
とうに何もかもに飽きて、けれど終わらせるあてもなく、そんな時にネレイスに出会ったのだ。同じだけの才覚を持ち、けれど正反対の彼女に。
最初は疑問からだった。俺に惚れたとぬかすくせにその瞳に恋情が浮かんでいなかったから、なら何を企んでいるのだろうと不思議に思った。身体に触れて、俺からも彼女を気に入っているフリをして。けれどネレイスはその才能こそ見せても、祖国への恨みも夫だった国王への怒りも、ちらりともみせなかった。
2本目の矢を放つ。ほんの少しも外れる気はせず、また中心を射抜く。
俺と同等の才や容姿を持って、その全てをなにかのために使う女。疑問が好奇心になったのは、いつからだっただろうか?得体が知れないからこそ、分かりやすく腹のうちを見せる家臣たちよりもずっと、ネレイスと共にいると安心できた。愚かなものたちの中で、彼女だけが唯一、知りたいと思える人間だったのだ。
そうして、あの夜。変わり映えのしないベッドのなかで唯一を教えられた夜。その時初めて、俺はネレイスという人間を見た。その献身を、忍耐を、狂気を。
あの瞬間を思い出すだけで笑いだしそうになる。彼女はあまりに美しく、健気でイカれていた。そうしてその魂の有り様は、ただ美しく賢い青紫の瞳の女の姿形よりも、ずっと魅力的だったのだ。
なぁ、ネレイス。
俺の妻、どれだけ誹られようと決して折れなかった、そんな日々を幸せだったと言い切れる、狂気じみた俺の唯一。
放つ3本目の矢は、過たず中心を射抜いた。
喝采。瞳を細める。
哀れな男の顔は、笑えるほどに蒼白だった。
「さて。何でも賭けると言ったな?なら、そうだな……グランヌスとライワールトの国境の山脈を、そこに住む民も含めてもらい受けようか。勿論、いま、この時からだ」
12時を告げる、鐘が鳴った。
男はすぐにその意味に気がついたのだろう。はくはくと口を開くが、言葉が出ないように何もいえずに立ち尽くす。ネレイスの父であるはずの辺境伯は、鬼か悪魔かという形相でむざむざと国境の土地を奪い取られた国王と俺を睨んでいた。が、そんなものはどうでも良かった。
振り向き、彼女を探す。真っ先に視界に入った女は青紫を見開いて、クヴァルだけを見つめている。宝石に形容される瞳、人形めいた美しい容姿。それら全部どうでもいいと言わんばかりに、俺だけを。
「ネレイス!待ってくれ、俺は……!」
見向きもされない、哀れな男が叫んだ。必死に手を伸ばす女の肌には、一度も触れられなかった男が。
この男はネレイスが側妃になった夜、その寝所を訪れたらしい。
「あの夜ですか?側妃として与えられた仕事の中に、孤児院支援に関するものがあり夢中になっていて。陛下は確か……丁度現れたので政策をどこまで進めて良いか意見を聞いたら、何も言わずに帰られましたね」
どうでもよさそうに話した彼女に腹を抱えて笑ったのは、記憶に新しい。
この男は、彼女の愛を知っていたのだ。けれど狂気には気付かず、凡庸な物差しで測った。
平たくいえば、嫉妬したのだ。従順でお気に入りの婚約者が、故郷の平民なんかに夢中になっていると知って、許せなくなった。だから、平民の血が混じっていると貶めて側妃にした。
焦がれていたからこそ、自分を見ないのが許せなかった。虐げることで、どこかでネレイスが謝罪し、愛を乞うことを期待していたのだろう。そうしてほかの女にうつつを抜かして、ついに愛を踏みにじった。
若く、傲慢で、愚かだった。そうしてこの男はあったかもしれない、クヴァルの姿だ。
もしも若い頃にネレイスに出会っていたら、いま膝をついていたのは、俺だったのかもしれない。
なぁ、ネレイス。家族しか不要と、俺を見ない妃。
俺は善い王になろう。民も国も愛せずとも、心底どうでも良くとも、グランヌスの繁栄のために力を尽くそう。孤児院を増やし、貧しいものに職を与え、飢えるものを無くそう。
だって賢王と呼ばれるようになれば、妃1人しか持たないことも、美談となるだろう?
そうしてお前も、お前が気がついていないだけで優しいから、そんな王を気にいるのだろう。
宮殿の一角に、孤児院を用意したんだ。
兵にはすでに、12時の鐘を合図にお前の家族を迎えに行けと命を下した。彼らが常に傍にあり、脅かされることのない暮らしをお前に捧げよう。
平凡な日々の中で、初めて安堵を覚えると良い。そうしてやっと、お前は家族以外に目を向ける。
お前が俺に、俺だけにあの笑顔を浮かべる日が、楽しみで仕方ない。
それはライワールトを侵略するより、世界を得るよりずっと、満たされるだろう。
なぁ、ネレイス。
お前は、賭けに勝った!