3.過去との邂逅
廃病院からの帰り道、美鈴たちは重苦しい沈黙に包まれていた。誰もが、先ほど目にしたものが何だったのか、口にする勇気がなかった。美鈴の左手首の傷跡が、昔の記憶を呼び覚ますように疼いていた。
翌日、大学の図書館。夏の陽射しが窓から差し込む中、美鈴は必死に古い新聞記事を調べていた。黄ばんだ紙面から立ち上る埃が、光の中で舞っている。その一粒一粒が、美鈴の目には人体実験の犠牲者たちの魂のように見えた。
(きっと、あれは錯覚。科学的な説明ができるはずよ)
そう自分に言い聞かせながらも、美鈴の心の奥底では、昨夜見た白衣の老人の姿が執拗に浮かび上がる。そして、彼女の手は震えていた。
「美鈴、これ見て」
隣で手伝っていた愛花が、一枚の新聞記事を差し出した。そこには、驚くべき事実が記されていた。
『連続不審死事件の真相は? 新薬開発に人体実験の疑惑』
『市立総合病院で相次ぐ原因不明の死亡例、警察と厚生労働省が調査に乗り出す』
記事によると、二十年前、その病院では患者の命を犠牲にした非人道的な実験が行われていたという。そして、その主導者は……。
「柊勝巳……」
美鈴は思わず声に出して読んだ。廃病院で見た老人の顔が、記事の写真と重なる。その目は、生きた人間のものとは思えないほど冷たく、鋭い光を放っていた。
その瞬間、激しい頭痛に襲われた美鈴。目の前がくらくらとし、意識が遠のいていく。視界が歪み、図書館の風景が溶けていくように変化した。
「美鈴! 大丈夫?」
愛花の声が遠くなっていく。そして美鈴は、記憶の奥底に沈んでいた光景を、鮮明に思い出した。
——幼い頃、彼女は重い病気にかかっていた。高熱と激しい痛みに苦しむ日々。両親に連れられて訪れたのは、あの病院。白衣の柊医師が優しく微笑みかけ、「特別な治療」を提案する。
「これで、君は死なないよ。永遠に生きられるんだ」
柊医師の目は、科学的好奇心に満ちていた。そこには、人間への共感や慈悲の欠片も見えなかった。
注射器に満たされた不思議な色の薬液。それが美鈴の血管に注入される瞬間、激痛が全身を駆け巡った。
「ぎゃああああ!」
美鈴の悲鳴が、図書館に響き渡る。周囲の学生たちが驚いて振り返る。
「美鈴! しっかりして!」
愛花の声で現実に引き戻された美鈴は、激しく息を荒げながら周囲を見回した。図書館。現実の世界。しかし、彼女の目には、まだあの病院の光景が重なって見えていた。
「そう、私は……」
美鈴は愛花に向かって震える声で言った。
「私、あの病院で……実験台にされたの」
愛花は驚きの表情を浮かべた。そして、美鈴の手をぎゅっと握りしめた。
「大丈夫。私たちがついてるわ」
愛花はそう言いながら、美鈴の左手首にある小さな傷跡に目を留めた。その傷跡は、昨夜見た白衣の老人の姿を思い出させる何かがあった。そして、美鈴の目に、一瞬だけ異様な光が宿ったように見えた。
その時、美鈴のスマートフォンが震えた。画面には見知らぬ番号。恐る恐る電話に出る。
「……はい」
『久しぶりだね、美鈴ちゃん』
聞き覚えのある、しかし背筋が凍るような声。間違いない、あの柊医師の声だった。
『君の細胞は、私の研究にとって貴重なものだった。もう一度会おう。病院で待っている』
電話が切れる。美鈴は愕然とした表情で愛花を見た。
「どうしよう……」
その時、突然ふたりのスマートフォンの画面が激しく明滅し始めた。そこに浮かび上がったのは、あの廃病院の姿。そして、白衣の老人が彼女たちを見つめていた。その目は、人間のものとは思えないほど冷たく、まるで魂を吸い取るかのようだった。
美鈴と愛花は悲鳴を上げた。図書館中の視線が、彼女たちに集まる。
しかしながら、ふたつのスマートフォンはキャレルデスクの上。ふたり以外、誰にも見えていなかった。突如映し出された恐ろしい光景は、美鈴と愛花にしか見えていなかったのだ。
「こここ、これ、どういうこと……?」
愛花が震える声で言う。その瞬間、彼女の顔に深い傷が現れた。血が流れ出す。しかし、愛花自身はそのことに気づいていない。
美鈴は、恐怖で広がった瞳で答えた。
「私たち、もう逃げられないのかも……」
スマートフォンの画面に映る廃病院。その映像が歪み、画面から這い出してくるかのような錯覚を美鈴に与える。そこには、彼女たちを逃さないという、確固たる意思が感じられた。
そして、美鈴の脳裏に恐ろしい考えが浮かんだ。
(もしかして、私たちは本当に逃げ出せていない? あの実験室から……)
図書館の風景が再び歪み始めた。美鈴の視界が、万華鏡のように回転する。そして、彼女の耳に、再びあの忌まわしい声が響いた。
『さあ、美鈴ちゃん。永遠の命を手に入れるんだ。そのためには、君の友達も必要なんだよ』
美鈴の意識が遠のいていく。最後に見たのは、愛花の姿が霧散するように消えていく光景だった。そして、自分の手に握られたメス。その刃先から、赤い液体が滴り落ちている。
図書館に満ちる闇は、彼女の運命を予言するかのように、ますます濃くなっていった。