Ðel Fómwi 火と風の物語5
ニスミレは不思議だ。ラルラーが物心ついた頃からまったく変わらない、若くもないが老いてもいない顔立ち、白く閉ざされた眸、音が素通りする耳、こわばった舌、それなのに踊るように優雅に歩き、他者とことばを交わす。
ニスミレはほとんど一年ぶりにふらりと神殿を訪れ、特に何もせずに出ていった。気づいたラルラーは彼について行く。
白い髪の人は塩の荒野に転がる無数の岩の一つに腰掛けていた。灰色の髪のラルラーはその隣に座った。
「どこに行ってたの?」 «Hérk dj'uróch't? »
ニスミレは遠くを見たまま──というより、どこかに顔を向けたまま微笑み、いくつかの身振りをした。右手の人差し指と中指で左手のひらを叩き、右手人差し指で右目の下を叩いて、それから左手を閉じて手のひらを内に向け、右手を円を描くように動かす。
「……これから起きることを見に行ったの?」 « Hár ainót háš el'eróf? »
ラルラーは言った。ニスミレは耳が聞こえないらしいが、どういうわけか人の発言を理解する。もしかすると、彼には人の抱く色が見えるのだろうか?
ニスミレは右の拳で胸を叩いた。
「見えた?」 « Gartz dj'ainóch't? »
ニスミレは微笑んだ。こんな具合なので、彼がどこへ行って何をしたのか分かったためしはない。
「ちょっと前まで……すごく、変な人がいたの」 « ve'maya Niroi chitii…… dj'urof An'heri turoviir érha. »
ニスミレは左手を開いて手のひらを外に向け、右手人差し指で右目の下を叩いた。
「見たの?喋った?」 « Dj'ainóch't vói? Artz dj'šmeróch't vía? »
ニスミレは右手のひらを外に向け右に動かした。
「ふうん……あのね、彼は、すごく……変わってた」 « Uh-hu …… Ná, urof…… lor kain turoviir. »
ラルラーはレイレについてどう説明して良いか分からなかった。
「アリトゥリの学者……鎧猪っていうすごく大きい生き物を連れてて……色んな器具をもってて……絵が怖くて……岩を食べてた……」 « urof Natzaleya sen Arituria …… kadrof Amonvia, kér Šabor lor itiir …… ó Glofania malii …… Narim vik urof mol'riir síonof Ajítoi …… »
ニスミレはコココと喉を鳴らした。これは彼が楽しい気分の時にやる、とラルラーは思っている。
「あと……よく、叫んでた。ソルハは、感情が頭の中に収まりきらないとああなるって言ってた」 « Ói'y …… gla' oskof. Sorkha, bašoch'f kér eþoradof Lenrimer sen Glu'oi vik ruma. »
ラルラーにとって、感情とはなんとなく漂う雲のようなもので、あれほど激しく鮮明な色を感じたことはない。
「あとね、その人が来てすぐ、バルバスと隠れてたんだけど、いつもみたいに……そうしたら、バルバスの昔の友だちに会ったよ」 « Ná, ilk Léire dj'úreloch't, dj'agiroch oés Bárbath meya cha-Kerna, rhaz digan …… ói'h dj'lerakich'f Tenäy'oi vik. »
ニスミレは手のひらを上に向けて指を半ば曲げ(火)、舌を鳴らして蹄のような音を立てた。
「そう、炎馬に乗ってる……三倍って名前……」 « Lá, Arkof Gerolukoi …… Šakha vik urof Komáz …… »
ラルラーはしばらく火を駆る者について話していた。
「……バルバスは仲間から離れてチェサル国に行って……なんでここに来たのかな」 « Hwiat Bárbath dj'turelch'f érha …… dj'rorch'f sen Tenäy'a, dj'anoch'f hár Chesalér…… »
バルバスにはまだ彼を慕う仲間も馬もいた。それでもその生活を手放した。
「バルバスがね……人は同時にたくさん色を持つことがあるって言ってた」 « Bárbath bašoch'f kér…… ranoli Fómérna lor malír…… »
風が吹き、二人の髪を揺らした。
「バルバスは……叫ばないけど……頭の中が色でいっぱいになって……それが……」 « Oskof nartze …… eþoradof Fórmér sen Glu'oi vik …… rúma …… »
ラルラーは自分が思っていることをどう言葉にして良いか分からなかった。あの時のバルバスは、少なくとも楽しそうではなかった。
「それに耐えられなかった……?だから、灰色の神殿に来たのかな……」 « dj'tenoch'f n'gartze……? Rúma, dj'turelóch'f hár Temnáia Meviír…… »
ニスミレは特に同意も反論もしなかった。彼はただラルラーの髪の毛を優しく梳いた。
**********
夜、ラルラーはふと目覚めて起き上がった。思いつきで壁に貼ったレイレの素描が、微かなオイルランプに照らされてさらにおどろおどろしく見える。
外から強い風が鳴るのが聞こえた。
ラルラーは首から下げた、岩喰いの角の欠片でできた首飾りをそっと握り、音を立てないようにして神殿を出た。
空は薄い雲に覆われていたが、朧月がぼんやりと荒野を照らしており、神殿からそう離れていないところに人影が見えた。
ラルラーはその人に近づいた。
「ラシエン……」 « Rašíen…… »
ラシエンは風の強い日に外にいることを好んでいた──いや、好きなのかは分からないが、よくそうしている。風の神殿の生まれだからだろうか。
彼は振り返り、暗くてはっきりしないが、おそらくやや顔を顰めた。
「神殿に戻りなさい」 « Dante 'aig Témnáia. »
「うん」 « Lá. »
そう答えつつ、ラルラーは神官長の隣に座った。
ラシエンが言った。
「眠れないのか?」« Negarze vrölót? »
「目が覚めた。ラシエンも?」« Novaróch'. Dóza té? »
「……」 « …… »
二人はしばらく黙ったまま薄闇に踊る風を眺めていた。
それから、ラルラーは言った。
「ラシエンは、どうして灰色の神殿に来たの?」 « Hwiat dj'turelóch't hár Temnáia Meviír? »
ラシエンはなかなか口を開かなかった……答えるつもりがないのだと思い始めた時、彼は低い声で言った。
「……取り返しのつかないことをしたから」 « ……Dj'írrnóch' énekhom'lúsá rrúma. »
「ふうん……?」 « Uh-hu……? »
ラシエンの言葉には北の方の訛りがあるが、心なしかそれが強くなったように聞こえた。
ラルラーはラシエンが見ている方向に目を凝らした。岩たちの黒い影が大地より濃く見えるが、この場所には灰色しかない。淡い月光を吸ったラシエンの褪せた金髪がいちばん明るいだろうか。
「その出来事が……凍傷のように私を蝕み……終わらせた」« Kí Húrim…… dj'isteróch'f eói rhaz Sólistoravia…… ó dj'magóch'f. »
分からない単語があったので、ラルラーは聞き返した。
「噛みつく霜が……?」 « Sólis toravia……?
「凍傷。冷気が、肉体を壊し、場合によってはもげる」 « Sólistoravin. Olim gwinof Gúsoi, refte vlagof. »
「なったことある?」 « Dj'uroch'f ki? »
「私はないが、目にしたことはある」 « Né, ev dj'aynoch' kér. »
「よかった」 « Urof gariir. »
「……?」 « ……? »
「ラシエンの身体がもげなくて、よかった」 « Urof gariir, kér Gús teik dj'vlagof nartze, Rašíen. »
それからラルラーは少し考えて、何の話をしていたか思い出した。
「その、出来事は、なにを終わらせたの?」 « Kí, Húrim, háš dj'magóch'f? »
「すべてを……」 « Nóskoldoi…… »
「ふうん……」 « Uh-hu…… »
強い風が吹きつけて、ラルラーはそろそろ神殿に戻されるなと思い、もう一つ質問した。
「ねえ、私のもう一人の核の片割れってどんな人だったの?」 « La'y, Háš jak sea An'heria dj'uroch'f Binoša eik ínne? »
「さあ……一言話しただけで、彼は死んだ」 « Sorkho nartze …… dj'bašoch'f segus alle Glosarha, ó dj'arzhch'f. »
「なんて言ったの?」« Háš bašof? »
「自分が愚かだったからこうなった、と」 « "Uróch' botzith rúma." »
「ふうん……?見た目は?」 « Uh-hu …… Höl artzúr dj'aynoch'f? »
「黒髪で……東の方の服装をしていた」 « D‘kadroch'f Renigoi osmii …… dj'utekoch'f Ktovlói aregonii. »
「ふうん……」 « Uh-hu…… »
「角を模った杯を持っていた」 « Ó dj'kadoroch'f Lesenoi sea Yegharér. »
「角……それはどうなったの?」 « Yeghara …… hérk urof udjer? »
「さあ。土に還ったかもしれない」 « Sorkho nartze. Jétzk 'aiganochf hár Murthkér. »
「そう……」 « Ná…… »
ラルラーは自分の灰色の髪を見た。彼の髪は黒くないし、ラシエンほどきらきらしていない。やはり核の片割れとその子どもは必ずしも似ないらしい。バルバスとコマーズの子どもも、どちらかというとソルハに近いくらい肌が黒かった。
「ラシエンは……」« Artz …… »
「なんだ?」 « Háš? »
「頭の中が色でいっぱいになったから、ここに来たの?」 « Artz dj'turelch't érha, eþoradof Fórmér sen Glu'oi teik ruma? »
ラシエンはラルラーの方を見た。わずかな明かりを集めようと、彼の薄い色の眸の中の瞳孔が広がっている。
ラシエンはなにかを答えそうな素振りをみせたが……結局なにも言わなかった。彼はラルラーの頭を撫でた。
「そろそろ──」 « Ðelhár — »
「寝る。ラシエンも」 « El'dano hár Oštenér. Oés téia, Rašíen. »
「……そうだな」 « …… Lá. »
「あのね、レイレの素描を壁に貼ったの」 « Ná, leh'och Narimíre Léirík kon Dondoi. »
「そうか」 « Hmm. »
「夜に見るともっとこわい」 « Urü vwi'borneer ar Yazenoi. »
「……そうか」 « ……Ná. »
二人は手を繋いで神殿に戻った。