Ðel Fómwi 火と風の物語1
『ダルマールの偉大なる驚異の岩について(抜粋)』のスピンオフ。
レイレ氏が本当に居座ると分かるまでキャンプをしていたバルバスとラルラーの話と、レイレ氏が帰った後の話。
台詞だけ原文を載せている。
(原題:色について/感情について)
ラルラーはバルバスと一緒に風馬に乗っていた。ごく稀に灰色の神殿を訪れる者がいると、ラルラーは決まって他所の地に送られ、引率はたいていバルバスだった。褐色の肌に灰色の髪の彼は五十代半ば、熾火という名の通り火の神殿の生まれ、東の国の元軍人だということ以外、ラルラーは詳しいことを知らなかった。
灰色の神殿は沈黙の場。過去を捨て無に還る場所。生活に必要な最低限のことしか行わず、語らず、感じない。
九年前に《灰色の神》メノーがラルラーを祝福してから、彼の教育に関わる数名の神官たちの生活には無視できないほどの変化があった──というより、彼を無視できなかったからこそ変化が訪れたと言うべきか。本来、灰色の神官たちは冷たくも温かくもない無感情を目指し、ほとんどの神官は概ね成功を収めている。
子供を無視できなかった者たち──バルバスは控えめだが優しいし、ディハキムは育てた穀物をラルラーが食べるのを非常に嬉しそうに眺める。教育者のソルハに至っては喜んだり怒ったり、年々感情が豊かになっている気がする。最も感情が読めないのは、彼の核の片割れであるラシエンかもしれなかった。彼は塩の荒野で息絶えた者の核を拾い、自分の核と結び合わせ──《無感情の神》メノーが祝福をした。火・土・水・風の《力の神々》以外が人を祝福し、さらにその人が生き延びることは非常に珍しい。やっかいな者たちに見つかれば、ラルラーが危険にさらされると神官たちは考えているらしかった。
今回の来訪者はかなり変わっていた。とても大きなごつごつした生き物を連れ(その背中に奇天烈な品々をたくさん積み上げていた)、なんだかものすごく興奮した様子だった。どんな人物か分からないので、いなくなるまでラルラーは他所で隠れていることになった。
神官長のラシエンが留守にするのは奇妙に思われるかもしれないということで(実際には、彼は街での物資調達なども行っていたが)、九歳にしては小柄なラルラー(そうソルハが心配していた)が疲れないよう、短期間で遠くに行けるように風馬を呼び、いつも通りバルバスと共に送り出した。
風馬は非常に速い。普通の馬の倍くらい──とラシエンは言っていた。ラルラーは馬に乗った記憶があまりない。一度買ったらしいが、塩の荒野は作物がほとんど育たず、馬を飼い続けることができなかった。
あまりにも速いとラルラーはお腹がぐるぐるとなって吐いてしまうので、バルバスは気難しい風馬を上手く御していた。ときおり風の辞を唱えて獣を宥め、極力揺れないように気を配る余裕があった。
十分に神殿から離れ、風馬を降りて一息つくと、ラルラーは言った。
「バルバスは、馬乗りが上手?」 « Artz urót Árkeya gariir, Bárbath? »
なんとなくラシエンより上手いような気がしていた。
「そうだね……私は火を駆る者の生まれだから」 « Ná-la……dj’ur'hanóch' artúr rhaz Gérdarkoi. »
「ゲルダルコイ?」 « Gér-dar'-koi? »
「火を駆る者。炎馬に乗って、移動して暮らすんだ」 « Gérdarkio. Árkü Geróluk ói'h etalü kon Vämimer. »
「炎……馬?」 « Gér……Lúk? »
「私たちは──火を駆る者たちは、火から特別な祝福を受けているんだ。服も烟り牛の燃えない革でできているんだよ」 « Gadon dj’urkhetónch'f kovaniitza eia —— eh, Gerdarkia. Ktovli víka dj'olkoch'f sen Galógarér. »
「ふうん」 « Uh-hu. »
「まあ、私は若いうちにチェサル国に雇われて、軍人になったけれど」 « Na, dj'vatzóch' Šnatineya het dj'uróch' koliir, Chesalu dj'zervóch'f eoi ruma. »
「大陸の東にある国」 « Ki, uróf Vúrten ar Árgondae. »
「そう、よく覚えたね」 « Lá, édešrot süriir. »
バルバスは手際よく天幕を張り、乾いた岩喰いの毛を固めたものをほぐし、携帯用の火鉢に入れた。それから火打石を打ちつけて火の辞を唱えた。
火の神殿の生まれだからか、バルバスはとても火をつけるのが上手だ。水の生まれのソルハはいつも半刻もかかっている。
干し肉と痩せた麦の粥で食事を済ませると、バルバスが言った。
「そろそろ寝ようか」 «El'vrölí hartz érwi elmin? »
「星が見たい」 « Nakó fartz Nayrérna. »
「いいよ」 « La'y. »
ラルラーは星読みを教えてもらうのが好きだった。灰色の神官たちは様々な場所からやってくるので、それぞれ描く星座が少しずつ異なっている。
バルバスは地面に座り、羽織っていた毛布を広げた。
「寒くないか?隣においで」 « Artz urof oliir? Turelt'érha. »
ラルラーはバルバスにぴたりとくっついた。火の生まれのバルバスは暖かい。ラシエンは風の生まれだからか、くっついていてもすうっとするし、水の生まれのソルハは清潔すぎる感じがする。
バルバスは西に沈もうとしている星を示した。
「あの青い星は鱗……羽根魚の」 «Ker Nayra dórmiir urof "Góf Djikárik”. »
「羽根魚?」 « Djikár? »
「ああ」 « Lá. »
バルバスはナイフの柄の方で、土の上に絵を描いてくれた。ちゃんと見たことはないが、鱗と水の中で息をする鰓を持つ魚、それに塩鷹のような鳥の翼を持つ生き物。バルバスは絵がとても上手だ、とラルラーは思っていた。
「私が暮らしていた場所では、秋分を過ぎた頃、こいつらが産卵のために北に向かって飛ぶのが見えた。もう長らく見ていないな」 « Hérk dj'etalóch' ilk Eferüka, dj'nakoch' keia, kér j'áranošaf Rakhnér hár Chíkim Mänikói. Dj'nakó narze kérna méya Niro kain erakiir. »
「ふうん……」 « Uh-hu…… »
ラルラーは東の空を指差した。
「あれが《サーミビアの弓座》?」 «Ki urot "Alún Thámivik" ? »
「そうだよ」 « Lá. »
「天の英雄」 « Nang’nel Lo'horér. »
「ああ」 « Lá. »
「よくいる名前」 « Sákha töteer. »
天から祝福を受けた英雄にあやかり、風の神殿にはサーミビアという名前の者が多いと聞いていた。確かに灰色の神殿にも一人いる。
「そう……私の友人にもいた。別の名前で呼ばれていたけれど」 « La-la …… dj'kadoróch Tfároi allye, ev dj'divaroch'f vói kon inne Šakha, »
「ふうん?」 « Uh-hu? »
「《猫の寝床》」 « Ošteng'ník. »
「え?」 « Hé? »
「彼は《猫の寝床》と呼ばれていた」 « Dj'divaroch'f vói "Ošteng'ník" . »
「寝床……ねこの……」 « Ošten…… Niník? »
「分かるか?」 « Artz šarhanót? »
「うん」 « Lá. »
猫なら町に連れて行ってもらった時に見たことがあった。ふわふわでぐにゃぐにゃの爪のある獣。連れて帰りたいと言ってみたが、ラシエンに駄目だと言われてしまった。確かに暖かい石畳で日向ぼっこする猫を塩の荒野に連れて行くのはかわいそうな気がしたので諦めた。
「彼は──私と同じ軍人で、梟山猫を相棒にしていた」 « Vi — dj'uroch'f Šnatinya rhaz eoi, ó dj'kadoróch'f Gwanez rhaz Tänayoi. »
「グヮネズ」 « Gwanez. »
「翼のある山猫、といえばいいかな。気まぐれで調教は難しいが、チェサルでは偵察や伝令に使っていた。それに小さい山羊くらいなら仕留められる」 « Nezér dj'everteer, ledza bašó? Ki urof isadiir ó' 'olkóf Štzilim tagomeer, Chesalu drídóch'f kói méya 'Ekuzeya ó Stenleya. Ói'h voyenóf gartz Rakhmok išee. »
「……の、寝床?」 « Ošten, séa? »
「彼と相棒は仲が良かったから。雌の梟山猫はいつもヌニークの胸の上で寝ていて、たまにとんでもない時間に大声で鳴いて我々を叩き起こした……」 «Vi ó ki urüch' Tfálerio lioniir ruma. Digan ki Gwanézema dj'vrölóf kon Adakhoi N'ník, refte ki dj'oskóf kon Kavanói lor kain gateer, ó artúr dj'novarí aten šaboriir……»
ラルラーがじっとバルバスの表情を見ていると、彼が言った。
「どうした」 « Háš? »
「それは、なんの感情?」 « Ki, háš lenrót? »
灰色の神官たちのほとんどは表情を持たない。ソルハが大げさに顔を動かして色んな表現を教えてくれたことがあるが、ラルラーはぼんやりとしか分かっていなかった。
バルバスは目尻を下げて口角を上げた。やはりいつもの微笑みとは違う。
「悲しい……いや、懐かしい──たくさんの気持ちだよ」 « Uró dormiir…… né, joriir — ná, lenró lor maliir. »
「たくさん?」 « Lor maliir? «
「そう……人は一度に多くの色を抱くことがあるんだ……」 « Lá …… refte, Anheri ranolóf Fómérna lor malír…… »
「ふうん……」 « Uh-hu…… »
《猫の寝床》や梟山猫はどうなったのだろう。軍人だというから死んだのだろうか。バルバスは灰色の神殿に来て二十年ほど経つはずだから、かなり長いこと会っていないのは確かだ。
「君の《名付けの日》には神殿に戻れるといいな」 « Glimó el'daních' 'aig Temnyoi ven Šakonkelm eík. »
「うん」 « Lá. »
《名付けの日》は文字通り名付けられた日を祝う。その日はラルラーのために蜂蜜や町のパンや弱い果実酒が用意され、彼に祝福をもたらすようにと《知恵の神々》へ呼びかける。
「もう休んだ方がいい。夜更かしをするとソルハに怒られてしまうからね」 « Uróf Niro hár Ošteia. Ront novariša kain erakiir, zartz Solkha el'mávikóf inghiir erwi.
「うん」 «Lá. »
「おやすみ」 « Vároi dayii. »
二人は小さな天幕に入り、くっついたまま眠った。
外では、風馬が何かに耳を澄ませていた。