聖バレンテーヌの妥協
いえーい
ハッピーバレンタイン!
もうすぐ聖バレンテーヌの日がやって来る。
「ずっと昔、望まない結婚を強いられた若者たちが、愛する恋人と手に手を取り合って聖女バレンテーヌのもとを訪れました。泉のほとりにある小さな教会で愛を誓い、晴れて夫婦となったふたりを親たちも引き離すことはできません」
この時期の礼拝はいつもこの話だ。
思わず溜め息をついたそのとき、私の隣に誰かが座る。ふわっと鼻腔をくすぐる甘い香りで、確認せずともそれがエミリアンであるとわかった。
「遅刻ね。他にも席は空いてるでしょう」
「リリアーヌの隣はここしかないよ?」
囁かれた彼の言葉は聞こえなかったことにして、司祭さまの言葉に集中。
「皇女を勝手に結婚させたと怒り心頭の皇帝は聖女バレンテーヌを処刑してしまいました。それが、七百年前の今ごろのことです。以来、若者たちは聖女を偲び、彼女が生前に喜んだと言う甘いお菓子を教会に捧げていたのですが……。最近では女性から男性にメッセージも添えてお菓子を贈るのが流行っているそうですね」
「今の主流はチョコレートですわ!」
「司祭さまにも今日お持ちしましたからね!」
柔和で寛大なお心を持つ司祭さまはマダムからの人気が高い。普通、礼拝でああいった野次が飛ぶことはないのだけど、彼はそれを許すので……よく言えば和気あいあいとしている。
「わぉ。司祭さまに愛の告白かよ? あの人たちみんな結婚してんだろ?」
「おバカね。今は義理チョコが流行ってるの。……ま、侯爵家のご令息であるあなたなら本命ばかりで義理チョコとは無縁なんでしょうけど」
そう言って横を見ると、エミリアンは真っ直ぐに私を見つめていたので驚いた。艶めくキラキラの銀髪は、薄暗い教会の中でもやっぱりキラキラしているし。深い森のような翠の瞳には目を丸くした私が映ってる。もはや上半身はすっかりこちらを向いてしまっていて、礼拝の真っ最中だってことを忘れてしまいそうになる。
「次男坊は誰にも相手にされないのさ」
「あら、そうかもしれないわね」
それでもこの美貌ならそのへんの長男よりおモテになるでしょうに。あなたが気にしてるそばかすだって、一部の女性からはチャームポイントに映ってるって聞いたわ。教えてあげないけど。
「アッハ! いつもながら手厳しいね。で、君は今年もユベール殿下に?」
「それをなぜあなたに答えないといけないの?」
「リリアーヌ・オーバン公爵令嬢は社交界の明星だ。蕩けるようなハニーブロンド、強い意志を感じさせるルビー色のアーモンドアイ。誰も彼もが、才色兼備の君を妻にと望んでるんだぜ。そりゃあチョコレートの行方のひとつやふたつ、気になるってモンでしょ」
長い脚を組んで膝の上に肘を、さらにその手に顎を載せて上目遣いで私を見ている。いたずらっ子のような笑みは幾人もの令嬢……特に兄や弟を持たないご令嬢たちの心を掴んでいるはずだけれど。自分こそ、早くどちらの家門を継ぐのか決めたらいいのに。
私は首を振って彼の質問を無視した。
◇ ◇ ◇
翌日、私は姉のジャンヌと共にお城へ。週に一度の交流会には幼馴染が集まることになっているの。
王太子のユベール殿下と姉のジャンヌが同い年で、エミリアンと私はそのひとつ下。私たちは殿下の情操教育の一環として集められているから、他の高位貴族の子女は対象ではないというわけ。最も年の近い人でユベール殿下と三つも違うんですもの。
私たちは人格者のユベール殿下に生涯仕えると誓いあっているけれど、普段は名前で呼び合うくらい本当に仲良しよ。エミリアンにいたっては敬語さえそっちのけなんだから。
「さて、今日の読書会はこれくらいにして」
ユベールが読み途中の本をそっと閉じてテーブルに置く。私たちもそれに倣って顔を上げると、ユベールは私たちを見回して茶目っ気たっぷりに片目を閉じてみせたの。
「次回は聖バレンテーヌの日だし、聖女の泉に散策に行くというのはどうかな」
「わぉ。お前、女の子に群がられるのが面倒なだけだろ」
手に持っていた本を放り出すみたいにテーブルへ置いたエミリアンは、からかい半分に笑ってユベールを軽く睨んだ。
お姉様は小鳥がさえずるような笑い声をあげ、肩を震わせている。
「偉大なる聖人たちの足跡を辿るのは大事なことさ」
「どうだか」
「ジャンヌとリリアーヌはどう?」
「もちろん賛成ですわ、ね、リリィ?」
「ええ、ピクニックみたいで楽しそう」
そういうことで話が落ち着き、私とエミリアンは席を立った。
「お姉様は今日はダンスの日だったわね?」
「そうなの。ユベールには申し訳ないのだけど」
「いや、構わないよ」
ユベールにはまだ婚約者が決まっていなくて、高位貴族の令嬢の中の誰かが夜会で彼のパートナーを務めることになっていた。それは暗に婚約者の選定をしているのではないかって言われているけれど……あたらずといえども遠からずと言うところでしょう。
そして次の夜会はお姉様がユベールのパートナーなのだけど……ダンスが苦手なお姉様は、ユベールが相手のときは特に緊張して動けなくなるんですって。だからこうして練習時間をとってもらっているの。
その代わり、交流会の時間が減ってしまったのだけどね。
部屋を出て真っ直ぐエントランスへ。馬車はすぐにまわしてもらえるはずだけど……。
「しまったわ」
「ん、どうかした?」
エミリアンが私の顔を覗き込んで、サラサラ落ちた銀色の髪が流れ星みたい。
「ここから別行動なのに、姉と同じ馬車で来てしまったのよ」
「帰ってから馬車を戻しても間に合うんじゃねぇの」
「いいえ、立ち寄りたいところが……」
「んじゃ俺の馬車にドーゾ、おひめさま?」
大仰な動きで紳士の礼をして見せるエミリアンが可笑しくて、もう断るような雰囲気ではなくなってしまった。
◇ ◇ ◇
到着した先は新進気鋭のショコラティエの構える新しいお店。我が公爵家の出資のもとで出店していて、すでに王都での人気はトップクラスだ。
奥の応接室へ通された私の目の前にはチョコレートがいくつか載った小さなお皿が三つ。さらにその向こう側には満面の笑みを浮かべたエミリアンがいる。
「ここへ送ってくれるだけでよかったのよ?」
「迎えの馬車を寄越せと走らされるフットマンを憐れんだ結果が、これ」
「まぁいいけど」
「で、その三つは何がどう違うの? 色もちょっと違って見えるケド」
「味よ。これは苦みが強くてこっちは甘い。それからこれは紅茶味ね」
エミリアンがふーんと気のない返事をしながら苦いと言ったチョコを口に放り込んだ。満足そうに頷いて目を閉じた彼はきっと、鼻から抜ける香りを楽しんでいるのだろう。
公爵家の認めたショコラティエのチョコを、ふたり静かに堪能する。会話はないけれどとても上質な……たとえば丁寧に織られた天鵞絨に包まれるような、そんな時間だわ。
まぁ、エミリアンのおかげでその上質な時間はそう長く続かなかったのだけれど。
「ユベールもジャンヌも最高の友人だ。交流会に呼ばれるようになったのは幸運だった」
「突然どうしたの? でも私もそう思うわ」
「俺だけ参加が遅かったから、最初はすごく嫌だったんだぜ。のけ者にされやしないかって」
「殿下はそんな方じゃないわ。ジャンヌだって」
「君もね。……そういえば最近はどこに行ってもユベールが誰を選ぶかって話で持ち切りでさぁ。何か知らないかってよく聞かれるんだよね」
社交においてそれが人々の絶好の話題になっていることは私も知っている。オーバン公爵家は今後も安泰だ、なんて言う人も多いけれど、それは他家に失礼だわ。まだ決まっていないのだから。そう、決まってないのよ。
「そんな話は――」
私の言葉は応接室に響くノックの音が搔き消した。入室を許可すれば入って来たのはこの店のオーナーショコラティエだ。
「お待たせいたしました、お嬢様」
「構わないわ。こないだ提案してくれた新作でお願い。ベースはこの甘いミルクチョコで、トップに紅茶のを」
「承知いたしました。必ずや、素晴らしい作品をご用意いたします」
そんな簡単な会話だけでショコラティエは部屋を出て行く。
ぱちくりと目を瞬かせたエミリアンが扉を見つめたまま「なんの話?」と呟いた。
◇ ◇ ◇
雲ひとつない青空の下、やはり真っ青な泉が風に揺られて波紋を作っている。
「素晴らしくいい天気だね」
ユベールは目を細めて空を見上げ、ジャンヌは泉を覗……こうとして従者に止められた。彼女は少々動きがゆっくりだったり、自分の重心がどこにあるのか理解していなかったりするから危なっかしいの。
「あのへんがピクニックに良さそうだ」
エミリアンが泉のほとりを指す。
泉の周囲は馬車が通り抜けられるだけの道と、小ぎれいな教会と、森とが囲んでいる。けれどエミリアンが指さした方向には木のないピクニックゾーンがあった。
「観光のついでにピクニックをする人が多いそうだよ」
そう頷くユベールの背後で、従者たちが荷物を馬車から降ろしては運んでいく。
「準備が整うまで、周囲を散策しましょうか?」
私が提案すると、みんな二つ返事で賛成してくれた。
四人で歩きながら……いえ、もちろん護衛もついてはいるのだけれど。
「バレンテーヌの伝説ってさー、いい部分しか語られないけど」
「エミリアン、その話はしないほうがいいのじゃないかな?」
「えっ、そう言われると逆に気になってしまいますぅ」
ジャンヌが眉根を寄せる。
聖女バレンテーヌについて少しでも興味を持って調べれば、必ず出て来る話だ。ジャンヌだって一度くらいは聞いたこともあるはず。だけどお姉様は……お勉強もそこまで得意ではないから、きっと覚えていないのね。
お姉様に請われて、エミリアンが周囲をキョロキョロ見回して続きを語る。
「教会を目の前にしてさ、追っ手に見つかったカップルも少なくないんだよねぇ。結婚前に捕まっちゃえばもちろん無理に連れ戻されるわけだけど……ほらあれ」
エミリアンが顎で指し示した先にあるのは小さな墓地だ。四角い石が並べられているだけの寂しい墓地。
柔らかな頬に手をあてて、お姉様が首を傾げた。
「これは……?」
「意に沿わない結婚をさせられた若者が、ここに戻って来て命を絶つってわけ」
「ここで待ち合わせをして、いつまでも恋人が現れない場合にもそうするらしいと聞いたわ」
「当時の皇帝はそれを問題視してバレンテーヌを処刑したという説もあるね」
私たちの言葉を聞きながら、お姉様はその丸い瞳から涙を一粒こぼす。
すかさずユベールがハンカチを差し出した。
「わたし、ここで少しお祈りをしてもいいかしら」
ハンカチで目尻をおさえたお姉様がそう言って、ユベールが頷いた。
「なら僕もご一緒しよう。この地を統べる王族として、同じ不幸を繰り返さないと誓うためにね」
「じゃ、俺らはあっちのほうぐるっと回ってくるから、先に泉に戻っててよ」
私とエミリアンはふたりを残して散策を再開した。
「相変わらず、お優しいご令嬢だ」
「ジャンヌのこと? 昔はあれを計算でやってるに違いないって、他のご令嬢からの評判があんまりよくなかったのよ」
「想像に難くない」
勉強も運動も私はなんでもそつなくこなすけれど、お姉様は違う。だけど彼女はその心の綺麗さだけで私の何倍も価値があると思うわ。私は数百年前に死んだ人間のことなんて憐れに思ったりしないもの。
「最近はそんなやっかみも聞かなくなったわ。みんなようやく理解したのね」
「嬉しそうだ」
「姉が認められて嬉しくない妹はいな……いるか」
「いるね、思ったよりいる。姉妹で嫉妬する話は割と聞くよ」
鳥が可愛いとか見たことのないお花が咲いているとか、そんな他愛のない話をしながら少し歩いて、私たちは泉へと戻ったの。
でもすっかり準備の整ったカーペットの周囲には従者の姿しかなくて。
「ユベール殿下とお姉様はまだ戻っていないのかしら?」
そう問うと、従者のひとりが少し困った表情を浮かべて教会のほうへと視線を投げた。あっちにいるということね。
呼びに行こうと歩き出した私の腕をエミリアンが引っ張る。なにするのよ。
「行かないほうがいいと思う」
「なぜ?」
いつも飄々とした笑顔のエミリアンが、ちょっとだけ悲しそうに笑った。
◇ ◇ ◇
どうしてもと言うなら、まずは裏の窓から様子を見てからにしよう。だなんて言われて、でもその条件を飲まないと私の手を放してくれないようだったから、私はエミリアンと一緒に音を立てないよう教会の裏手へ回ったの。今度は護衛も置いてね。もう周辺の見回りも終わっているから、気難しい隊長の片眉が持ち上がっただけで何も言われなかった。
まるで悪いことをしているみたいで嫌な気分だわ。どうしてこんなにコソコソしないといけないのかしら。
先に教会の外壁へたどり着いたエミリアンが、口元で人差し指を立てながら私に手招きした。静かにしろって、言われなくてもわかってるわよ。
「気をしっかりね」
「は?」
何を言ってるのかしら。そう思ったけれど、やっぱり何か感じるものがあって、不安で押しつぶされそうな胸を撫でながら窓から中を覗いたの。
ふたりは神の杖を模したシンボルと聖女バレンテーヌの像の前で向かい合ってる。こちらからだとユベールの表情が見えないわ。何を話しているのかは聞こえないけれど、ユベールの手振りを見る限りはバレンテーヌの話をしているのじゃないかしら。
「なによ、別に何も――」
なにも変わったところなんてないじゃない……とは言えなかった。
ジャンヌが真っ赤な顔で後ろ手に隠していた小さな箱を差し出したから。あの箱の中身がチョコレートであることは、今日が何の日かを考えれば誰にだってわかると思う。
抜け駆けを責めることはできない。確かに私たちは子どものときからいつだってふたり一緒にユベールにチョコを渡してきた。けれど今年はジャンヌに内緒で渡そうって、私も考えていたんだもの。
息を呑む私の目の前で、ユベールがそれを受け取った。リボンをほどいて蓋を開け、中のひと粒を口に運ぶ。どんな顔をしているのか、見えなくてよかった。
「今までその場で食べたことなんてなかったじゃない」
私のこぼした言葉を洗い流すみたいに、エミリアンが背を撫でた。
ユベールは主祭壇にチョコを置いたかと思うと、ジャンヌの目の前で跪く。驚いて、私は息をするのを忘れてしまった。見たくない、これ以上見られないって、心臓がはち切れそうになってるのに身体が動かないの。今すぐにでも逃げ出したいのに!
びっくりした様子のジャンヌが泣きだし、ユベールは彼女の左手に何かしてる。何かなんて見えなくてもわかるでしょう、指輪を嵌めてるのよ。この、恋人たちの聖地で。愛し合う幾組もの恋人たちを結婚へと導いたこの場所で!
立ち上がったユベールがジャンヌを抱きしめようと腕を上げたその時、やっと私の足が動いた。もう無理よ、見てられない。
できる限りの全速力でその場を離れた。ひとりになりたかったから。
◇ ◇ ◇
「来るにしたってここはやめろよ」
私が足を止めるのとほぼ同時に、背後からエミリアンの声。そりゃあ、追いかけて来る男性を撒いてひとりになるなんて無理よね。
泉からほど近く、教会の裏を少し奥へ行ったところにある墓地。そう、残念ながら結婚できなかった恋人たちの墓よ。
「さっきはね、この人たちのことなんとも思わなかったの。でも今ならわかるわ、死にたくなるわよね」
「気持ちがわかる、ってとこで止めとけよ。実行するのはナンセンスだ」
「あなたは知ってたのね」
「ユベールがそうしたがってるってことはね」
言いたいことはたくさんあった。でもどれも言葉にならない。
大きな木の根元にエミリアンがジャケットを広げてくれて、私は彼に導かれるままそこに座る。無言で、ふたり並んで物言わぬ墓を見つめて。
「初めて君に会ったときから、君がユベールだけを見てることには気付いてた」
「そうよ。だから頑張ったの。語学も算術も経済も歴史も、それにダンスやマナーだって。誰にも負けないように、いつだってあの人の隣に胸を張って立てるように」
彼が王子様だったから。彼の横に立つのならなんだって完璧じゃないといけないと思ってたから。
「知ってるよ」
「ジャンヌより何倍も努力したのよ? 朝は早く起きて、彼女が眠ってしまった夜にも、勉強や練習をした。ジャンヌができないって泣きつくから刺繍を教えてあげもした」
「目の下のクマにはちょっと笑ったけどね」
今までの辛かったことが大波のように胸に去来して息が苦しい。
「……大好きだったのよ?」
好きだと言葉にした瞬間、何かが壊れたみたいに涙が溢れた。もう我慢のしようがなくて、「好きだったのに」ってそればかり繰り返しながら子どもみたいに泣いてしまったの。
「あー……。使う?」
「ユベールならもう何分も前にくれてた!」
「おい、アイツと比べんなよ。俺だって俺のじゃ不服かなって不安半分で出してんだぜ?」
「不服だわ」
「だろうな」
「……ごめんなさい、嘘よ。ありがとう」
濡れた頬や手を拭く私の横でエミリアンがスンって鼻を鳴らした。なんだか少し落ち着いたような、でも何か言おうとしたらまた泣いちゃいそうな、そんな不安定な気持ちで強く眉を寄せる。
「ったく、子どもじゃないんだからさ」
そう言ってエミリアンは私の手からハンカチを取り上げると、そのハンカチで私の鼻をぎゅっと摘まんだの。そうね、鼻水も出てたかもしれない。
「ジャンヌでよかったわ」
「ほんとに?」
「嘘。でも本当。ジャンヌが相手だから私、ユベールを殺さずに済んだでしょ」
「なるほど」
「冗談よ」
「わかってるよ」
姉妹だもの、ジャンヌがユベールのことを好きだということは私も知ってた。何事も私に劣る彼女に負けたくないってずっと思ってたけど、同時にあの心優しい姉こそがユベールのお嫁さんになってほしいとも思ってた。
ふたりならきっといい国になるはずだもの。ユベールには生涯の忠誠を誓ったんだから、私だってふたりのサポートは頑張るし……頑張るし。
「また泣いた」
「仕方ないじゃない」
「もうハンカチはぐちゃぐちゃなのに」
そう言ってエミリアンは私の頭を抱き寄せた。彼の胸に涙の染みが広がっていく。
◇ ◇ ◇
どれくらいの時間が経ったかしら。別に私たちを探す声がするわけでもないし、そんなに経っていないかもしれない。
彼の身体から離れ、深く息を吐く。
「これからどうしたらいいのかわからなくなっちゃったわ」
ずっと、ユベールの隣にあることだけを目標に頑張っていたから。
いつもなら小憎らしい言葉でからかうはずのエミリアンが、今はちょっと静かだった。それが少しだけ寂しくて、そしてすごくショックだったの。彼がどうにかして元気づけてくれることを、心のどこかで期待していたんだわって気づかされたから。
「エミリアン……?」
「リリィは完璧な淑女だよ。前にも言ったろ、誰も彼もが才色兼備の君を妻にと望んでるって。いわゆる高嶺の花だ。今まではユベールのお相手になるかもしれないから、と誰もが遠巻きに見守っていたけどさ、これからは違う」
「そうね、家の都合も考慮して選ばなくては。ああ、面倒。それに困るわ。私もう誰かを好きになるなんて――」
「なぁ、リリアーヌ」
私の名を呼んで、エミリアンはふーっと大きく息を吐いた。どこかいつもと様子が違う彼に、私はどう対応していいのかわからなくて。
「なに?」
「俺で妥協してよ」
「……は?」
「家は侯爵家だし、しかも俺は次男だ。君に与えてやれるものなんてこの気持ちくらいしかない。だけど、俺だってずっと見てた。君を、初めて会った日から。不安に怯える俺に『一緒に遊ぼう』って声を掛けてくれたあのときから!」
エミリアンはいつものように真っ直ぐ私を見つめていた。そう、確かに彼はいつも私を真っ直ぐ見つめてくれていた。
艶めくキラキラの銀髪は、日の光を受けて一層キラキラに輝いて。深い森のような翠の瞳には涙でぐちゃぐちゃの酷い顔をした私が映ってる。
「私、いますごく酷い顔してるでしょ」
「いや、可愛いよ。俺のために泣いてくれてたらもっと可愛いんだけど」
「ねぇ、本気で言ってるの? 妥協しろってつまり……」
彼は何も言わなかったけれど、これってプロポーズということで合ってる? そうよね、文脈から判断すればそういうことなのよね?
たったいま失恋して、生きる目標さえ失った私にしてみれば、答えなんて決まってる。「ごめんなさい」以外に考えられない。たとえ感情を押し殺せたとしても、本人の言うとおり私たちの結婚は政略の駒にさえならないんだから。
だけど。
なんて答えたらいいかしらと泳がせた視線の先で彼の手が震えてることに気付いてしまって。
言葉を探しながらドレスのスカートを整えた私の指先に、固いものが当たった。
「エミリアン、悪いんだけど妥協はできないわ」
「リリィ……」
「でもこれ。あげる」
差し出したのは我が公爵家が全面的にバックアップするチョコレートショップの新作だ。先日オーナーショコラティエと相談して味を決めたもので。もちろん、渡すつもりだった相手はエミリアンではなくユベールだったのだけど。
「チョコだ」
「義理チョコよ。あなたに義理チョコってものを教えてあげるわ」
「これユベール用のやつだろ」
「甘いのくらい、我慢して食べなさいよ」
リボンをほどく手を止めてエミリアンが顔をあげた。目がまん丸になってる。
「甘いの苦手だって、知ってたの?」
「何年一緒にいると思ってるのよ」
「俺に興味なんか持ってないのかと」
「本当を言うと、私もあまり甘いのは得意じゃないの。ビターが好き。だからね、あの日一緒にチョコを食べてたとき、心地がよかった。同じ味を美味しいと感じられるって素敵な時間だと思ったのよ」
「じゃあ妥協して?」
「しない。しないから、あなたはあなたの得意分野で身をたてて。私を高嶺の花だと言うのなら、私がユベールの横にいるために頑張ったように、あなたも私にふさわしくあって」
エミリアンは箱を開け、中のチョコをぱくぱくと口に放り込んでいった。もう少し味わいなさいよね。とムっとしたとき、彼は最後のひと粒を私の口に押し込んだ。
口の中の熱でチョコが溶け、独特の香りと甘味が舌の上に広がっていく。絡みつく濃厚な甘さの中に紅茶の香りが抜けていった。
「甘いの苦手だって言ったでしょ」
「苦手を分担してもらおうかと思ってさ」
くくっと笑ったエミリアンは軽やかに立ち上がり、私に手を差し伸べて立たせてくれた。拾い上げたジャケットの埃を払って腕に掛けると、私にそっと手を伸ばして頬に残った涙を指で拭ってくれる。
この大きくて温かな手は、そういえばユベールよりもずっとよく知っているわ。
「辛くてぜんぶ投げ出したくなったとき、そういえばいつもあなたがそばにいてくれたわね」
「だっていつも見てたからね。そしてこれからもずっと君を見ていたいんだ」
みんなが心配する前に戻ろうと差し出された手を握って、私たちは子どもの頃のように並んで泉へと戻った。
ユベールとジャンヌが仲良く並ぶ姿なんて見たくないと思ったけれど、ぎこちなくも笑顔を浮かべることができたのはきっとエミリアンのおかげだろう。本人には教えてあげないけどね。
◇ ◇ ◇
聖バレンテーヌの日から三ヶ月が経った。すっかり暖かくなって社交も活発になってきたけれど、私は家でのんびり過ごすことが増えていた。
というのも、バレンテーヌの日の直後にあった夜会で、ユベールとお姉様の婚約が発表されたの。そのおかげで私はエミリアンの予言通り、蟻にたかられる砂糖の気分を知ることができたというわけ。もう、面倒ったらないんだから。
ただ、あの日見たお姉様のダンスは過去最高だったわ。
リラックスした笑顔と伸びやかな手足に、会場中でため息が漏れて。特にユベールとのダンスで緊張するんだとは言っていたけど、まさか相手からの好意に安心した途端ここまで生き生きするだなんて思いもしなかったわ。その笑顔がまた悔しいくらいに綺麗だった。
テラスからぼんやり庭を眺める私に、お姉様が可愛らしく小首をかしげる。
「ねぇリリィ、今日のパーティーはもちろん出席するんでしょう?」
砂糖の役はもう懲り懲りだから、できるだけ社交の場には出たくないのだけど。私が大人しくしているのを、人々はユベールに振られたせいだと噂してるみたい。ユベールはユベールでそんな噂に心を痛めているらしいとも聞いているわ。
あながち間違いでもないからこそ、腹が立つから否定してやりたいのだけどね。
「ユベールの誕生日だもの、出ないわけにはいかないわ。ただ――」
パートナーがいないのも、私が引きこもる理由のひとつなのよね。
いつもならエミリアンかユベール、たまにお父様がパートナーになるのだけど。ユベールのパートナーはお姉様だし、お父様も今夜はさすがにお母様と一緒に出掛けるし。お兄様にはお義姉様がいる。
そんな中、エミリアンはあの聖バレンテーヌの日を境に姿を消してしまった。
今までもふらっとどこかへいなくなることはあったから、それ自体は別に気にすることではないのだけれど……。
「そういえば、さっきリリィ宛てに荷物が届いてたみたい。リリィには私から伝えるって言って荷物は部屋に運ばせたのに、伝えるのがあとになっちゃったわ。ごめんなさい」
「ん、それは構わないけど。誰から?」
「ごめんね、確認しなかったの。あっ、そろそろ準備があるから行かなくちゃ。また後でね!」
第一王子ユベールの婚約者であるお姉様は、パーティーに出る際にもその準備が今までの倍くらいかかるんですって。もちろんそれはドレスの着付けだけではなくて、出席者への関わり方についておさらいしているのもあると思うけど。もはや立場は王族なのだものね。
「はぁ……。荷物ってどうせまた貢ぎ物よね」
律儀な蟻たちは砂糖にたくさんの貢ぎ物を寄越すみたい……って、砂糖というより女王アリかしら。すべて送り返して二度と送って来ないでと連絡もしているのに、我慢できなかった蟻さんがいたようね。
面倒だわと思いながら階段を上がり、自分の部屋へ。
そこに置かれていたのは大きな箱と中くらいの箱と小さな箱よ。こんなにたくさん送って来た人はさすがに初めて。
一体誰かしら……と、いちばん大きな箱に載っていた封筒を手にして、思わず差出人の名を三度も確認してしまったわ。
だってそこには、エミリアンの名があったんだもの。
◇ ◇ ◇
私の耳や首、それに足元を飾るのはエメラルド。深い森のような色をしているわ。私がまとうドレスは穏やかな銀灰色だけど袖や裾にあしらわれた銀糸の刺繍は宝石のように輝いている。
エミリアンが贈ってくれたこのドレスや装飾品は素晴らしいものだけど、王国内で製作されたものではない。なんならお隣の国のものと断言できるわ。だって王子の妻になるべく努力してきたのだから、それくらいは当然でしょう? でも、なぜかしら。
それを確認したいのに、エミリアンったら迎えもなければ会場にもいないの。待って、ドレスを贈ったのならエスコートもしてくれるのが普通でしょうに。どういうことなの?
久しぶりに、しかもひとりで社交の場に顔を出したものだから周囲も少しざわついていたのだけれど、ユベールとお姉様が並んで入場するとやっとみんな静かになった。
ユベールはいつもの通り落ち着いた様子で挨拶をしているわ。今日は彼の誕生日だから、集まってくれたことへのお礼とか、これからの抱負とか、貴族たちに期待していることとか、なんかそういう話よ。
雨の日にポツポツと地面を水滴が叩くような心地いい彼の声が好きだった。彼の語る未来が好きだった。でも不思議と、いまは以前ほど心がぎゅっとならない。それが寂しいような気もするし、だけどやっと顔を上げられる気もする。
「それから最後に、今日は素晴らしいゲストが駆けつけてくれたんだ。僕たち若い世代がこれから一層親睦を深めるべき相手だよ」
ユベールの挨拶はそう締めくくられ、彼が腕で指し示した扉からひとりの若い男性が入って来た。
白いスタンドカラーのシャツと膝まである濃紺のノーカラージャケット。その衣装は間違いなく隣国の文化から生まれたものだ。さらに胸元に並ぶ飾りポケットと衿や袖を彩るのは輝く金糸を用いた精緻な刺繍で、私のまとうドレスと同じ意匠。
キラキラの銀の髪をなびかせて真っ直ぐユベールの元へ向かった男性は、握手を交わしながら集まった貴族たちに「やあ」と声を掛けた。
「見知った顔ばっかだけど、一応自己紹介しとこっか。エミリアン・ラ・クラール。隣の国の外交担当大臣クラール公爵の息子になった。今後ともよろしくってわけだ」
全く意味がわからないわ。
ぽかんと口を開けたままの私に、エミリアンがぱちんと片目をつぶって見せた。
◇ ◇ ◇
ゲストの紹介を終え、パーティーが本格的に始まるなりエミリアンは私を連れてバルコニーへ出た。
春とはいえ夜の風は少し冷たいけれど、頭を冷やすにはちょうどいいかもしれないわ。
「ごめん、どこから質問したらいいのかわからないわ」
「だろうね」
「クラール公爵の息子って……、それにこのドレス」
戸惑う私にエミリアンもどこから話したらいいのかわからないようだった。困った表情で微笑みながら、手すりに置いた私の右手の小指の爪を人差し指で小さく撫でる。
「そもそも俺が交流会に遅れて参加することになったのは、俺の出自のせいなんだよね」
「あなたのお母様が他国の出身であることは知ってるわ。平民だから社交の場に出せない、と聞いていたけれど」
「本当は、隣の国の公爵令嬢だったってわけ」
「なぜその事実が伏せられてるのよ?」
「バレンテーヌ、って言えばわかる? クラール前公爵、俺の祖父もまた外交担当大臣だったんだよね。母は祖父に連れられてこの国に」
まさかとは思ったけれど、言葉にはできなかった。
何も言わない私に、エミリアンは淡々と語る。当時すでに婚約者のいた彼のお母様と、滞在中の世話を任されていたお父様は恋に落ち、そしてバレンテーヌの教会へ向かったのだと。ただ結婚の誓いをしただけなら、現代において法的な縛りはない。かと言って何もなかったことにもできず、あわや戦争かというほどに揉めたそうなのだけど。
「どっちの国も元は帝国の統治下にあったろ。聖女バレンテーヌの伝説だってよく知ってる。法的に無効だからといってふたりを引き離すのも不安だし、戦争になんかなったら余計だ。結局クラール公爵が娘を勘当して、代わりに関税がどうのって交渉してまるくおさめたらしい」
勘当しているから確かに彼のお母様は平民ということになる。社交の場に出せばいろいろと問題も起こるでしょう。それでこの事実は一部の人間の間だけで秘匿されたのね……。
「では幼少期にあなたが後からやって来たのは、他国の要人の血筋だから王子の近くに置くのは難しいと判断されたのかしら?」
「そう! さすが才色兼備のリリアーヌだ。どんな話し合いがあったのか知らないけど、最終的には許可が降りて君たちと友情を育めたってわけ」
眩暈を覚えてクラクラした私に、エミリアンが手を差し伸べてくれた。大丈夫よとそれを断って、話しの続きを促す。
「それでどうしてあなたが公爵家へ?」
「伯父には子どもがいないんだよねぇ。養子に貰えそうな男子は血縁が薄くて。で、可愛い妹の子をくれないかって話がきたのが去年だ。俺はユベールに忠誠を誓ってるし、それに君もいる。だから断ってたんだけど、もう少しよく考えろって突っぱねられて」
私の小指の爪を撫でていた彼の手が、私の右手を包むように重なった。
ハッとして横を向くと、彼が真っ直ぐに私を見つめているのに気づく。いつものことなのに、いつもと違う真剣な瞳だ。
「このドレスを着たのは、多少は俺と向き合ってみようと思ってくれたから?」
「……久しぶりに会えるのかと思って少し浮足立っただけ」
「会いたいと思ってくれたんだ」
「そうね。あなたがいない時間は少し、いえ、すごくつまらなかった」
重なった手の指の間に彼の指が入って来る。身体中の神経がそこに集中したみたいに、彼の手のぬくもりばかりに意識がいってしまう。彼の指を受け入れるのはすごく恥ずかしくみっともないことだと理性ではわかっているのに、なぜか拒めないの。
「君に並び立てるだけの地位は得られたけど、俺自身の能力で手に入れたものじゃない」
「そうね」
「だからまだ妥協はできない?」
「私の公爵令嬢という立場も、別に私の能力で得たものじゃないわ。でも将来的にユベールと手を握り、国家間の障壁を取り払えるのはきっとあなただけ。……だと思う」
「つまり?」
彼の手の中でもぞもぞっと自分の手をひっくり返す。彼の手が再び私の手を覆い、そして握り締め合った。
「他国の文化は知らないことも多いし、私もまた一から勉強しなくてはいけないでしょう? あなたは……完璧じゃなくなった私でも妥協できる?」
森のような翠の瞳が揺れて、みるみるうちに涙がたまった。それでも彼は真っ直ぐに私を見つめていて、その瞳の中にやっぱり泣きそうな顔の私が映っていたの。
「嘘じゃないよね」
「本当よ。あのね、私ほんとうに寂しかったの。急にいなくなるんだもの! 意地悪を言ったからかしらって」
「意地悪なもんか、君は――。あ、そうだ。これを見て」
ジャケットのポケットから彼が取り出したのは小さな箱。
目の前で開けたその中には、小さなチョコレートがいくつか転がっていたの。丸くて平べったい形をしていて、中心にはナッツやドライフルーツが入っているみたい。
「食べていいの?」
「もちろん。我が国のチョコだ!」
「一緒に食べたいわ」
「そうだね。美味しいを共有したいって、君はそう言ってた」
せーので一緒に食べたチョコレートは少し苦くて、でもそれがナッツの香ばしさやフルーツの甘酸っぱさを引き立ててた。すごく美味しい、大人のチョコだわ。
目が合ったエミリアンも満足そうに頷いて。ああ、やっぱり私はこの時間が好き。エミリアンと過ごす時間が、こんなにも大切だったなんて。
微笑み合って、再び手を繋いで。
妥協だなんてとんでもないわ。美味しいが同じってすごくすごく大事なこと。だってこれからずっと一緒に生きていくんだから。
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義理チョコ大好きです!!