43 夏が過ぎたある日
「さて、本日の授業は帝国の歴史についてです。エルナ様もご存じの通り、我がウィズレイン王国に隣接するアルバルル帝国は現在、リゴベルト・ジャン・アルバルル皇帝が広大なその領地を治めております」
エルナはメイドのお仕着せではなく着慣れないドレスに身を包んで、ふんふんと熱心に頷き、手元の紙にメモをする。ハムスター精霊は机の上で暇そうにころころと転がっていたが、もちろん目もくれない。
教師役の女性は、ひっつめ髪をきっちりと後頭部で丸めて、小さな丸眼鏡をかけていた。ふくよかな見かけと、柔和な口元、穏やかな口調からは本人の気性が如実に表れている。
しかしその風貌と異なり、しゃん、と伸ばした背筋からは不思議と誰かを思い出した。
「アルバルルは他国を侵略することで、年々その領地を広げてきた軍事国家でございますが、リゴベルト皇帝に代を変えたここ数年においては、特にその動きが顕著です。あまりのその性急さから国内外からの反発を受けているとか……」
「ブラウニー夫人。代を変えた、ということは前皇帝が、近年になって現在の皇帝へと代を譲った……ということですか?」
「その通りです。エルナ様」
ぴんと背筋を伸ばしたまま、顎を引くようにブラウニー夫人は微笑む。
エルナは彼女とまったく同じ笑い方をする人間を知っている。そう、コモンワルドだ。
見かけはまったく違う二人だが、ブラウニー夫人はコモンワルドの娘である。
『ワルファタータ・ブラウニーと申します。嫁入りの際に家名は変わっておりますが、執事長コモンワルドの長女でございます。ぜひ、お見知りおきを』
そう言って優雅な挨拶をした彼女は、『長い名でございますので、お気軽にブラウニー夫人とお呼びくださいませ』とにっこりと笑った。
エルナはクロスの婚約者と議会に認められたわけだが、将来的にはこの国の王妃ということになる。男爵家の次女として戸籍には登録されていても、まともな教育を受けたことはない。前世の記憶を持ってしても、人間として勉学はまだ不得手だ。エルナがエルナルフィアであることを口外することなく、かつ身分がはっきりとしており、教師として申し分のない者となると、数も限られてくる。
そのため急遽エルナの教育係として白羽の矢が立ち派遣されることとなったブラウニー夫人であるが、過去はクロスの姉の世話係でもあったとか。彼女は数々の淑女嫡男たちを社交界へと送り出してきた歴戦のご婦人なのである。
(……勉強。それは、とてもやりがいがある)
ここに至るまでの人生の経緯を思い出し、エルナはそっと目を伏せた。そして静かに燃えた。
どれだけ人並み外れた力を持っていようとも、エルナの細っこい体ではいくら鍛えたところでこれ以上の伸びしろは見られない。ならば魔術や精霊術をと考えても、こちらも同じく。人間の体ではどうしても限界があるのだ。
しかしその点、勉学は違う。下地がほとんどないということは、むしろ伸びしろだらけである。
実はメイドとして城に勤めるようになってからも、ノマに教えを請う形で城の関係者を調べたり他国の歴史や文化を勉強したりなどと、知らぬ知識を穴埋めするように夜中にひそひそこっそりとランプの明かりの下で頑張っていたのだが、堂々とできるとなるとまた違う。
(脳みそとは……なんと鍛えがいがあるんだろう……!)
感動して拳が震えた。
そもそもひっそり勉強する必要などどこにもなく、知りたいのならクロスに正直に伝えていれば効率がよかっただろうに、残念ながらその発想には至らなかった。だってそんなの悔しいから。
自分が人並み外れた負けず嫌いであることを、エルナはまだ気づいていない。
(正式に、王妃教育という名の下で知りたいことを知ることができる……! これは、とても、とてもありがたい……! ブラウニー夫人の言葉一つたりとも聞き逃してたまるものか……!)
気合とともに燃え上がるエルナの周囲は、物理的に燃え上がっていた。
火竜である前世の名残で、熱い魔力がそこらに漂う。机の上をころろん、と平和に転がり自身のもふもふを見せつけていたハムスター精霊は、『ぢぢぢぃ!?』と悲鳴を上げてテーブルの端までさらに勢いよく転げて逃げた。
「あらあ。今日は不思議と部屋が熱く感じますわねぇ」
ブラウニー夫人はレースのハンカチを取り出し、優雅に汗を拭っている。
汗は見せても、見苦しい姿は見せない。それがブラウニー夫人である。
「……ブラウニー夫人。私は、リゴベルト皇帝のことを正直あまり存じてはいません。よければもう少しお伺いできればと思います」
問いかける声は、自然と低いものになってしまう。
なんせ、リゴベルト皇帝はこの国の王都を火の海に赤く染めた張本人である。
アルバルル帝国への非難を伝えた書状は、クロスの姉が嫁いだミュベルタ国、またカイルという使者を通してマールズ国といった周辺国からも届けているはずだが、帝国はのらりくらりと返答を躱し続けている。
王都への非道な行為は、到底許されざるものではないが、何分はっきりとした証拠がない。
帝国がしたことといえば、王都が火の海に包まれた混乱に乗じて軍を率いて国境を跨いだことのみ。帝国側としては『演習中に軍を率いた将校が、うっかり間違えて国境を越えてそちらの国に踏み入ってしまっただけ』というだけらしい。そんな偶然あってたまるか。
明らかに敵であることに違いはないが、ウィズレイン王国の立場としては、はっきりとした敵対することができないというとても曖昧な立場にあった。
(私が直接アルバルル帝国に乗り込んで、皇帝をぶっ叩いて、詫びの一つでも言わせることができれば話は早いんだけどな……)
物理的には多分できるだろうが、絶対にそんなわけはいかない。
国と国の関係を、力だけで解決はできないことくらいエルナだってわかっている。
(何もできない。そのことが、とても悔しい……!)
このもやついた感情をどうすることもできずに、エルナはさらに目に炎を燃やしながらブラウニー夫人を凝視した。ブラウニー夫人はさらに流れる汗を、はたはたとハンカチで拭って微笑んだ。
「もちろん私が知っている限りのことをお伝えいたしますわ。リゴベルト・ジャン・アルバルル皇帝は、御年は二十五歳。皇帝として即位されたのは六年ほど前のことです。弱冠十九歳で、数多の広大な土地を束ねあげる皇帝として、また優れた軍人として周辺諸国に名を知らしめました。前皇帝は病にて崩御されたと聞いております。が……」
ブラウニー夫人はわずかに言い淀んだのち、すぐにまた背筋を伸ばし、両手を腹の前に重ねる。
「先程私はアルバルル他国を侵略することで、年々その領地を広げてきた軍事国家であった、と説明致しましたが、実際にその過去を人々が思い出したのは、ここ数年のことです。前皇帝時代は外交に積極的ではないものの、他国との争いはほとんどといっていいほどありませんでした。そのため、前皇帝の死は病死ではなく謀られたことではないか、という噂さえも……」
その瞬間、エルナの眉間の皺が深く刻まれたからか、ブラウニー夫人はこほん、と一つ咳払いをついて、先の言葉を閉ざした。
「アルバルル皇帝が即位した際、帝国は大いに荒れたと聞き及んでおります。帝国には多くの皇族の血筋がいらっしゃいましたが、アルバルル皇帝はその血筋、また多くの忠臣たちの粛清をしたとか……。血の皇帝と、そう話されることさえもあります……」
「血の皇帝……」
ぞっとする話だった。決して血に染まった刃を怯えたわけではない。たとえ他国であろうとも、過去であろうとも、人ひとりの命が消えたという事実に、エルナは深い苛立ちを感じた。
「……たかが人間が、どうして人を殺すのよ……」
人なんて、放っておいても簡単に死ぬのだから。
どうして、大切にしようとしないのか。
「は? エルナ様、今何かおっしゃいましたか?」
「ごめんなさい。こちらのことです。ぜひ続きを」
ふ、と瞳から竜の色を消し去った。
人の世には、人の世の作法がある。たとえ過去の竜の名で呼ばれることがあろうとも、エルナはもう人間なのだから。
「……そうですか? わかりました。では次は、帝国と我が国との歴史についてお伝えいたします」
エルナの様子をわずかばかりに不審に感じたようだが、ブラウニー夫人はすぐに頷き、授業の続きを再開した。
「さて、本日の授業はここまでに致しましょう。それにしても、エルナ様は、本当に熱心でいらっしゃいますねぇ」
「そうですか?」
いくらやる気があろうとも、普段慣れないことをしたために頭から湯気が昇りそうな気分である。はああ、と深いため息をついて顔を覆っていたエルナを、ハムスター精霊が労るようにぽんぽんと叩いている。
「ええ本当に。こうしてこの部屋でお話していると、昔のことを思い出します。私ももとは城に勤めておりましたから……」
エルナとブラウニー夫人がいる部屋は、以前にノマと一緒に掃除をした王族専用の勉強部屋だ。高い窓は見晴らしがとてもいいが、普段行き来するには不便であるからか、今は誰も利用していなかった。ジピーがした忘れ物を持ってエルナが窓から飛び降りたのも、今となってはいい思い出である。ノマにはしこたま怒られたが。
窓の外を見ると、ちょうど金の髪が見えた。クロスだ、とすぐに気づいてぱっと椅子から立ち上がってしまう。エルナの唐突な動きにブラウニー夫人が目を丸くしていることを知って、少しだけ恥ずかしくなり視線をそらして、先程までと同じくゆっくりと椅子に座り直した。
「あら、ヴァイド陛下がお通りになったのですね……。執務室に戻られる最中でしょうか。今日の授業はもう終わりましたから、エルナ様はそちらの方に?」
「……いえ」
エルナはもう、外に目を向けることなかった。
城の窓から見える新緑の草木の色が、いつしか色を変えていた。
さわさわと風に揺れる鮮やかな緑は、少しずつ秋の色へと変化していく。
「行くのは、やめておこうと思います」
——力をつけなければいけない。今よりも、ずっと多くの力を。
心に刻んだ言葉が、ふとした拍子に蘇る。
もう、夏は過ぎたのだから。
ウィズレイン王国物語のボイコミがYouTubeで公開が始まりました。
ぜひよろしくお願いします!
https://www.youtube.com/watch?v=qw-iuQhHxEw&t=14s
雨傘ヒョウゴ




