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基本敬語を使う二足歩行のトカゲが主人。
私の名前は長いのでトカゲとでも呼んで下さい。
今日は巷で話題の予約2年待ちの宿に来ています。
何故そんな所にいるかって?
予約したのは妹ですが、肝心の妹は子どもが卵から孵りそうだからと急遽私が来る事になりました。妹は我が子の誕生に立ち会うため、涙を呑んでこの宿に来る事は諦めたそうです。
キャンセルすればいいと思いましたが、どうも部屋が大型獣人族用の特別な物で、この部屋だけはこの先20年は宿泊出来ないそうです。
「お願いします。泊まって来て話しだけでも聞かせて下さい兄者」(血涙)
妹の必死な形相に負けて、代理で泊まる事になりました。宿のご主人も妹の代わりの者が泊まりに来る旨を伝えてありますので、問題はないみたいです。
早速宿に到着しましたが……外観は普通の宿屋とあまり変わらないようです。
むしろ、こじんまりとしています。
後から知りましたが、どうやらお客様を少数にしてサービスを充実させるためだそうです。そんな考えがあるのかと驚きと共に、実際泊まってみて、なるほどなと納得しました。
ドアマンが開けてくれた広い正面玄関を通ると、涼やかなベルの音と共にフロントに案内されました。
「いらっしゃいませ、本日はお越しいただき有難う御座います。早速ですがこちらの宿帳にお名前等ご記入お願い致します」
身分証の提示後、『宿帳』なる物に名前や住所を記入していきます。
食事の好みや寝床の指定、細かな要望など事前に超速達の手紙で郵送していましたので、その確認もこちらで済ませます。
「お食事のご希望は食堂室に18時でお間違えないでしょうか?」
「はい、大丈夫です」
「それでは、移動しながら宿の説明後お部屋にご案内させていただきます」
宿の設備はフロントと呼ばれる入り口直ぐのところと、夕食、朝食が提供される食堂。追加料金を払えば部屋での食事提供もありだそうです。
更に入浴設備の『温泉』なるところもあるそうで『露天風呂』はこの宿で大変人気があるみたいです。
「兄者、露天風呂は必ず入って下さい」と、妹に言われていたので、部屋に荷物を置いたらチェックしに行きましょう。
小さな庭は宿泊時間内なら何時でも出入り自由だと教えていただきました。後は体験施設を予約していましたが、見るのは明日の朝ですね。
「こちら、本日お客様がお泊まり予定の客室で御座います。身分証を入り口横の魔道具にかざしていただくと入室可能になりますので、お部屋を出る際は必ず身分証をお持ちください。万が一お部屋に忘れた際はフロントにて対応させて頂きます」
「わかりました」
言われた通りに身分証をかざすと、両開きの大きなドアが自動で左右にスライドして開きました…………わぁお。
客室に自動ドアですか。
なるほど、これだけでも特別な部屋だと伺えます。
大型の獣人族で尻尾がある個体ですと、ドアの開け閉めに苦労しますからね。
住んでいた家はこの自動ドアのように引き戸なのであまり不便を感じませんでしたが、出先でドアを閉めようとすると振り返った瞬間に尻尾がぶつかったり、最悪ドアに挟まったりするのでコレは助かります。
そして、長身の私でも頭をぶつける心配のない入り口は大変ありがたいです。アレは地味に痛いですからね。
「お部屋ではお履き物を脱げるようにと、ご希望がございましたが、よろしかったでしょうか?」
「はい、ありがとうございます」
私は家では素足で過ごしていました。
獣人族でも少数なので、あまり馴染みがないみたいですが、こちらの宿だと対応してくれると事前のアンケート用紙に書いてあったのでとても驚きました。普通の宿でしたら、何処もかしこも靴を履いて過ごしますからね。
早速ブーツを脱いで部屋に上がると、外履き用の『サンダル』と言う物の説明を受けました。
なるほど、宿の内部ならこちらのサンダルで出歩いても大丈夫だそうで、大変助かります。
ブーツはいちいち紐など結ばないと履けないので、コレはいい物ですね。気に入りました。
客室は一部屋ですが、設備が充実しています。
個室のトイレに、洗い場の付いた広いお風呂と、コレまた広くて高さのある洗面所で蛇口を引き出すとシャワーホースにして使えるようです。
ドアはボタンを押すと全部自動で開くようで、更に冷蔵庫や湯沸かし器、洗濯機が完備されているのは驚きました。ここに住みたくなるレベルですね。
更に寝床の説明ですが、見ただけでウキウキしてしまいます。
「藁に大きめのシーツとありましたが、こちらの藁の量で足りますでしょうか?足りなければお持ち致します」
「十分です、ありがとうございます」
山盛りの藁と真っ白い大判のシーツ。ああ、寝床を整えるのが今から楽しみでなりません。
ウットリしていると、アメニティの選択に入ります。
多種多様な中から歯ブラシ、歯磨き粉、コップ、有鱗獣人族用ボディソープ……シャンプーは大丈夫です。私、毛は一本も生えてないので。
防水性の手さげ鞄と袋、後は体を洗う持ち手の長いブラシとタオル。
タオルにはこだわりがあるので大変悩みました。ふかふかしたタオルだと鱗に引っかかるので吸水性の良いセームタオルなる物を選びました。
今はカチコチに固まっていますが、水を含むとふやけて適度な弾力性を持ち、水気を絞ると何度でも使える代物だそうです。
まさか、こちらでこんなに良い物を選べるとは思わなかったので木綿の物を持参しましたが、必要はなさそうです。
一応予備で宿の木綿タオルもいただきましたので、これでタオル問題解決ですね。
後は飲み物なども数点選んでアメニティの選択は終わりました。
こちらのアメニティはお一人様数量限定になりますが全て販売可能だそうで、チェックアウト前にフロントに申しつければお土産用にラッピングも承ると言われました。
気配りが凄すぎて絶句。顔には出しませんが。
いや、私の表皮は硬いので顔に出ないと言うのが正解ですかね。
笑顔を浮かべると「何悪だくみしてるんだよ?」と、よく友人に言われたものです。
爆笑していただけなのに解せません。
部屋の説明も終わり、いくつか宿の注意事項などの説明を受けて従業員の方が退出すると、部屋で荷物の整理をします。
と、言っても出すのは精々次の日の洋服とラフな部屋着くらいですかね。
妹は「最悪手ぶらでも泊まれる宿なのにそんなに荷物を持って行くのですか?」と言っていた意味が分かりました。
心配で色々持って来てしまいましたが、確かにこんな大量の荷物は必要ありませんでしたね。
敷地内なら部屋着でも良いと言われていたので、温泉で身体を洗ったら部屋着に着替えましょう。
防水性の手提げ鞄に濡れたタオルを入れられる袋やボディソープ等を入れて着替えを手に持ち、早速出かけます。
温泉施設の方に歩みを進めると何やら騒がしいです。何事でしょうか?
「坊や、頼むから言うことを聞いて頂戴」
「キシャーー!!」
「坊主、威嚇はよくないぞ。観念して泥を落としてこい? な?」
温泉施設の男女に分かれた独特の暖簾の前に……あれは蟲人族の女性2人と、幼体、更に獣人族の獅子種の男性の計4人が何やら押し問答しています。
幼体は泥だらけだ。このまま素通りするのも悪いので、声をかけてみます。
「どうかされましたか?」
「お騒がせしてすみません」
「シャーッ! シャーッッッ!!」
「あぁ、すまない実はな──」
詳しく話を聞くと、どうやら蟲人族の幼体(男の子)が母親と侍女と温泉に入るのを拒否。
そこに居合わせた獣人族獅子種男性は顔見知りだったので説得を試みたが失敗し、只今ギャン泣き中で私が現れたと。
普段はどのようにして風呂に入れているのかと聞いたら「側仕えが。しかし、今は火急の用事で男の側仕えは皆席を外しておりまして、戻るのは何時になるか不明なのです」とおっしゃっていたので相当お金持ちの子みたいですね……ふむ。
「もし宜しければご一緒に男湯に入りませんか?」
「「え?」」
「ピャッ?」
「心配でしたら、お知り合いの男性の目の届くところで泥など洗い流しますのでいかがですかね?」
と、言ったら泥んこの幼体が私めがけてダイブされたので、受け止める。うん、結構重いですね君。
「はは、泥んこのわんぱくボーイですね。私の妹に比べたらまだお利口さんみたいで安心しました。人見知りしないのはこちらとしては助かります」
今でこそ母になる身の妹ですが、小さい頃は手がつけられないくらいの暴れん坊でしたからね。これくらいなら可愛い物ですよ本当。
結局獣人族獅子種男性と一緒に蟲人族の幼体を男湯で洗う事になりました。
「本当は俺が面倒見れればよかったんだが、子どもの世話などした事がないんだ……すまん」
「まあ、何事もはじめてはありますよ」
「申し訳ありません、よろしくお願いしますね」
「ピギャッ」
「挨拶出来てお利口さんですね。こちらこそよろしくお願いします」
とりあえず、ギャン泣きしていらしたので水分補給からになりました。
侍女の方にストロー付きの水筒をもらい、幼体はゴクゴク言わせながら私の膝の上で何かの液体を飲んでいる。
「プヒャー。げぷっ」
「ははは。いい飲みっぷりですね。トイレは大丈夫ですか?」
「ピギャッ」
「では皆さんも参りましょうか。申し訳ありませんが荷物を……えっと」
「レオンだ」
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。私はサンガルカントマルクスフォルクと言う長い長い名前なので、気軽にトカゲとでも呼んでください。失礼ですが、お子様のお名前だけでも教えていただけますか?」