逃げる一択
午後10時、ベッドで横になっていた狼はゆっくりと重い目蓋を開ける。視界はまるで曇ったガラスのように見えづらく何回か瞬きをしてようやく視界がクリアになる。
そして耳に装着されているイヤホンを片手で雑に外す。
そして天井を見上げた体制の俺は苛立ちを含んだ言葉を誰もいない天井に吐き捨てる。
「クソ、なんなんだよ・・・・・・あの黒いのは」
俺はBOPLの出来事を思い出し苛々していた。あんなに楽しみにしていたのに、理由のない暴力を受けてもなお行きたくて、行きたくて、恋い焦がれた世界に行けたというのにたったの2時間で戻ってきてしまった。
プレイヤー達が騒いでいる中心で出会った赤い目をした黒いプレイヤーのせいで。
30分ほど時間が遡り午後9時30分、灰色の狼のようなアバターになった狼は動揺していた。
プレイヤーの多さやこの世界に驚くような事はあれど、50階建て位の高層マンションのヘリポートのような場所から恐怖や動揺なく飛んだ狼がだ。
たった一人のプレイヤーの「君の事探してる」といい一言で動揺してしまっていた。
この黒いの、なんて言った?俺の事を探してるみたい。だと?
俺と向かい合う黒いプレイヤーはその赤い目で俺を見て首を傾げる。
「なにをそんなに動揺しているの7番さん?」
「ーーっ!」
俺の動揺が読まれた!そんな馬鹿な、まだ、俺は一言も喋ってすらいない。生身の体ならいざ知らず、今は表情なんてないロボットの体なんだぞ!?
生身なら大量の汗を流しそうな緊張感が俺の体を支配していた。言葉も表情もないはずの俺の心境を看破し、尚且つ絶対に有り得ない事をしているからだ。
俺が7番だったということだ。
一歩、後ずさった。それを見て黒いプレイヤーは首を傾げるのをやめると一歩近づき不思議そうに俺にたずねる。
「あれ?もしかして私があなたの事知ってるから警戒しちゃった?」
「・・・・・・」
俺は無言でまた一歩後ずさる。そして向こうは一歩進む。
「はぁ、せっかく会えたのにそんなに警戒されると私悲しいよ。あっ!そうだ。少しここから離れて二人っきりで話でもどう?」
こんな得体の知れない奴と二人っきり?冗談キツすぎる。このまま距離をとりつつ隙をみて一気に逃げる。
俺はさらに一歩後退した。そして黒いプレイヤーは一歩進み不満そうに言った。
「もう!女の子がここまで誘ってるのに逃げるなんて本当に悲しいよ。7番・・・・・・」
「・・・・・・いや、白峰狼くん」
その固有名詞を俺に言い放った後の俺の行動は我ながら迅速かつ的確だったと思う。
俺は後ずさるのではなく背を向けその場から全力で走り出した。
道行くプレイヤー達を走りながら躱し、ただただ逃げる。全力で。
狼が人混みの中をまるで針を縫うようにして躱しながら走っていくのを黒いプレイヤーは何もせず呆然と見送り残念そうに呟く。
「あらら、本名出したのはミスだったかな。もう姿が見えない・・・・・・でも、逃してあげないよ」
黒いプレイヤーのその言葉は聞くものによっては人に逃げられ残念そうに聞こえるが、同じく聞くものによってはそれはまるで、その状況を楽しんでいるようにも聞こえるものだった。
そしてこの場合は後者だった。
黒いプレイヤーは狼が逃げていった方、東に向かって悠然と歩き出した。
中央都市ロドスその中央広場で起きていた騒ぎの場から全力で逃げ出した狼は現在ロドス内の一番北の路地裏ににいた。
やみくもに一直線に東に逃げてはもしも追って来られたら見つかる可能があった。だから道中出鱈目な道を通り足跡を辿りづらくしたのだ。
「はぁ、はぁ、安全都市内は、HPゲージはないけど体力ゲージは、あるのな、はぁ、はぁ、ここは体験版と、変わらないな」
俺は自分の視界の左上に赤く点滅する空の体力ゲージが表示されていた。
ここまで逃げるのに全力で走った俺は途中で足を止めて体力ゲージが回復するのを待つ事はしなかった。いや、出来なかった。それ程までに俺には余裕がなかった。
あの黒いのが誰でなんで俺が俺だとわかったのかわからないが、あいつはやばい。今のままじゃ絶対勝てない。そんな気がする。
俺はあの広場であの黒いプレイヤーに肩を掴まれた事を思い出し背中が冷たくなる。
あの手から伝わる圧倒的な力、おそらくはレベル差が10、あるいは20はあると推測する。ありえない話だが。
あいつの圧はそれくらいあると感じさせられたが、実際ありえるのかそんなこと?サービスが開始して30分ほどだ。例えプレイヤーを50人倒したとしてもこんな短期間でレベルが1から20まで上がるとは思えない。
路地裏で壁にもたれながらあの黒いプレイヤーについて考えるがどれも現実的ではない。
このBOPLの面白いところはレベルの上がりづらさにもある。
普通のゲームならレベル1の自分が敵を2人倒したらレベルが2に上がる。
だがこのゲームではレベル1のものは敵を5人倒さないとレベル2にはならない。
厳しいがこのゲームのキャラレベルのマックスは50だからそれも仕方ない。
「・・・・・・はぁ、これ以上考えたところであいつがヤバイてこと以外結論が出ないな」
分からない事を考えてもしかたないので壁にもたれるのをやめ俺は路地裏から出ようと歩き出す。
そうだ、わからない事はわからない。あいつが俺の体験版時代とリアルの正体を知っていたことも。
だから今はとりあえずこの世界を楽しもう。
そして俺は薄暗い路地裏から明るい路地に出る。
奴のいない。ここじゃない別の街に向かうために。
だが路地裏を出たところでそれ以上前に足が進む事はなかった。
突然俺の背中をまるで得体の知れない何かが触ったような気がして悪寒が走り足を止める。
かつかつ、と後ろから何者かが足音をわざとらしく立てて近づいてくる。
そして得体の知れない何かの気配もどんどんと近くなり、今は背中に何がしがみついているような感覚だ。体が震える。
「オオカミさん、みーつけた」
その聞き覚えのある声に俺はまるで錆びたブリキ人形のようにぎこちなく振り向くと体は暗くて見えないが闇の中に二つの赤い眼光だけがはっきりと浮かんでゆっくりと俺に近づいてくるのだった。