第1話 苺(前編)
押したドアの軋む音と共に中から男性の落ち着いた声が聞こえてくる。
「いらっしゃいませ。初来店の方ですね」
大通りから外れた細道の先、日の当たらない通りにこの店はある。豆電球ひとつの薄暗い店内にはいくつかの木造のテーブルと椅子のセットが無造作な配置で置かれている。その無造作な配置がより一層世界から切りとったような異世界的な雰囲気を醸し出している。1名様でよろしいですか?と、私は手前のテーブルに案内された。テーブルの上にはメニューが乗っている。
1.アザレア
2.ブルーローズ
3.アーモンド
4.イチゴ
5.タンポポ
6.アロエ
メニューを眺めていると先程迎え入れてくれた男性(恐らくこの店のマスター)が「失礼」と正面の席に腰を下ろした。手には古くなった表紙の厚い本を手にしていた。ベストスーツを着た彼に良く似合う臙脂色の本だ。
「当店に足を運んでいただきありがとうございます。まず当店については大まかにご存知かと思われますが、記憶を取り扱う世界でも数少ない店となっております。始まりは1557年、ポルトガルから西洋医術が伝わった時だと言われておりますが諸説あります。代々弟子が技術を受け継いで……。コホン。すみません、話しすぎましたね。今回はどちらをご希望ですか?」
見た目は清潔感のある無口そうな男性であるが、見た目の印象に反してよく話すタイプの人のようだ。などと余計なことを考えながら私は売却で、と答えた。
「かしこまりました。本日はカウンセリングとなりますので楽にしていただいて構いませんよ。本日は1杯お飲み物をお飲みいただきながら、いくつか質問をしますので、答えていただくだけです。難しい質問はございませんし、答えたくないものは無理にお答え頂かなくて大丈夫です。それでは始めさせていただきますね。カウンセリングの途中で私の弟子がお飲み物をお持ちしますのでお待ちください」
本を開くと最初のページで彼の手は止まった。
「では早速ですが質問を始めますね。売却したいものを思い浮かべて答えてください。1問目です。今回あなたが売却したいものは……おっと、失礼。大事なことを聞き忘れておりました。現在妊娠していたり、ブタクサのアレルギーを持っていたりしますか?」
「いいえ。どちらもありません」
「承知しました。では続けますね」
「あなたが売却したいものは……」
カウンセリングが始まってどのくらい経っただろうか。恐らく10分や15分くらいだと思われるが何せこの店には時計がない。手元の腕時計で確認しようと目を落とした時、部屋に甘い香りが漂っていることに気が付いた。
「おや、出来ましたかね。そろそろ弟子がお茶を持ってくるはずです。小休憩としましょうか。少ないですがお菓子もお持ちしますので少々お待ちください」
彼が立ち上がると、彼の後ろからひょっこり子供が顔を出した。
「お待たせしました。お茶が入ったのでお持ちしましたよ。ついでに合いそうなクッキーも持ってきたので良ければどうぞ」
「おっと、弟子に先回りされましたね」
金に輝くふわふわした髪の子供は、笑顔もふわっとしていた。
「かわいい……」
慌てて口を塞ぐも、言葉は私の唇をすり抜けた後であった。
子供は長いまつ毛を揺らし、頬を赤らめた。
──こんな可愛い生き物がこの世に存在していいのだろうか?
「えっと、ありがとう…ございます。嬉しいです……!」
ではこれで、と子供は中に戻ってしまった。目の前に置かれたカップから湯気が登っている。
「そちらをお飲みください。今回のカウンセリングに基づいてブレンドしたものです。後の施術に必須なものとなりますので必ずカップの中のお茶を全てお飲みください」
一見普通の紅茶にも見えるそのお茶は甘酸っぱい味がした。
「これは…苺?……と、カモミールと……」
「ご明察です。今回の紅茶はカモミールがベースに、苺がブレンドされております。もちろんその他にも色々混ぜてありますが」
「これには何の効果が?」
聞くと彼は口角を上げて人差し指を立てた。
「企業秘密です♪」
その紅茶がこれまで飲んだ紅茶の中で1番と言っても過言ではないほど美味しかった為レシピを知りたい所ではあったが、彼はレシピすら教えてはくれなかった。
「それでは明日施術を行います。特に制限などはありませんので、普通に食事をして、普通に来ていただければ問題ありません。時間は午後であれば空いているので、営業時間内であればいつでも構いませんよ。20時までにいらしてください」
「あの、代金は……」
「施術後にいただきますので、本日はお支払いされなくて大丈夫ですよ」
店を出て家へ向かう私はきっと、気味の悪い笑みを浮かべていた。