如来ストリーム 観自在菩薩
やあ、みなさん、こんばんは。
スタジオアガルタから、素敵なゲストと、素敵な時間を、お送りする如来ストリーム。
楽しみに待っていてくれたかな?
今回は、観音菩薩さんをお迎えして、“今”の実相について、お尋ねしてみたいと思います。
それでは、観自在菩薩さんこと、観音菩薩さん、よろしくお願いします。
「よろしくお願いします。」
さて、観音菩薩さんといえば、過去、現在、未来の中で、今にあたる、現在を担当し、人々を救済すると言われる菩薩さまです。
しかし、“今”という瞬間は、認識した時点で、過去になってしましますよね。
そこで、お尋ねしますが、“今を生きる”という事とは、どのようなものなのか、具体的に、お話して頂いても、よろしいでしょうか?
「人は、過去に起きた事を悔やみ、また過去に起きた栄光にすがります。」
「そして、その記憶を元に、未来に起こるであろう事を恐れ、また、過去に起きた栄光の継続を望むのです。」
「ですから、過去と、未来の救いに、人々は逃避してしまうのです。」
「ここまでは、よろしいでしょうか。」
はい、これまでのおさらいのような話ですね。
「逃避的な行為に、根本的な問題の解決は望めないでしょう。」
「ならば、本質的に、問題を解決出来るのは、今、この時にしかないと言う事になりますね?」
はい。
「ならば、真理とは、過去や未来には、存在せず、今、この瞬間にしかないと言う事に繋がります。」
「私は、過去や、未来にでなく、今、この瞬間に、真理を見出します。」
「しかし、人が、真理を見出す事は、私のように、容易な事ではないのです。」
では、どうすれば、人は、今を生きる事が出来るのでしょう?
「歳を取る毎に、一年が短くなったと感じる人は多いと思います。」
確かに、小学生の頃の一年は長かったですね。今は、気が付いたら一年が終わってる始末ですよ。
しかし、それは、一体何故なんですかね?
「簡単な事です。」
「幼子にとって、一年と言う年月が占める割合と密度は、成熟した者に比べて高い。」
「それ故に、一年が長いのです。」
んん?
あああ、なるほど!
そう言う事なんですね。
つまりは、こう言う事だ。
例えば、四十三年生きた人の一年は、43分の1でしかありませんが、八歳の子供なら、8分の1って事ですよね。
たった一年が、人生の8分の1の密度を持っているなら、それは確かに、一年が長い筈ですよ。
なるほど、なるほど。
「さて、では、そうした、幼い頃に“観た”夕陽を、あなたは、憶えていますか?」
「それは、夕陽を、“観た”時に湧き上がる、喩えようもない、感情なのですが。」
はい、言われてみれば、子供の頃に観た、秋の夕陽が余りにも美しくて、胸が苦しくなって、何とも言えない気持ちになりましたね。
「そう、何かを“観る”という行為は、本来、そうした感情を伴うものなのです。」
「しかし、幼い頃の、そうした無垢な感受性は、繰り返される日常によって、鈍ってしまいます。」
「鈍くなった感受性は、もはや何かを観ようとはしないでしょう。」
なるほど。
「もしも、人が、日常の繰り返しではなく、初めて出会うものとして夕日を“観る”なら、それはまったく違ったものに“観える”のではないでしょうか?」
そうですね。
「そして、これは、人に対しても言える事なのです。」
「例えば、人が人と接する時、思い込みや偏見といった、イメージを差し挟まず、人を観る事は可能でしょうか?」
イメージですか?
「つまり、ここで言うイメージとは、知識によるものですが、一切の知識なしに、誰かを観る事は可能なのかと私は、訪ねています。」
う~ん、確かに、付き合いが長くなったりすると、良い悪いは別にして、新鮮な気持ちで、その人と接する事は、出来なくなりますね。
あと、知らない人なら、見た目と言った先入観を使いますからね。
「であるなら、あなたは、その人の事は観ておらず、情報やイメージを観ていると言う事になるのではないでしょうか。」
「無論、必要に応じては、知識やイメージを用いて人と、接しなくてはなりません。」
「しかし、その人と、真剣に向き合う必要が生じたのであれば、イメージや先入観を排し、その人の、ありのままを、観るしかないのです。」
「知識やイメージを用いても、解決出来ない問題は、その人のありのままを観る事でしか解決が出来ません。」
「そして、ありのままは、今、この瞬間にしか存在しないのです。」
う〜ん。
しかし、人は、歳を追う毎に、責任が重くなって、心配事は増えていくばかりです。
その他にも、社会的な圧力や、権威やら伝統やらが否応なしに、重くのしかかります。
そんな有り様なのに、ありのままとか、今を生きると言った言葉は、言っては何ですが、絵空事のような気がしてしまいます。
「予測可能で、解決出来る問題であるなら、いくらでも、先回りして、対処するべきでしょう。」
「しかし、人が悩む、大概の心配事は、予想でしかなく、起きた時の衝撃の予防策として、その心配事を反芻してしまうのが殆どでしょう。」
「しかし、そうした予防策は、殆ど役に立たないでしょう。」
何故ですか?
「それは、現実のリアリティを、イメージが超える事がないからです。」
「従って、今を、生きる事を困難にしている社会的な要因を変える事よりも、自分自身の精神は、常に慣れたがっており、無自覚にあらゆるものを、蓄積してしまう事に気が付いた方が、直ちに、予防策を講じる事が、可能であり、そちらの方が有益であると言えます。」
確かに、夕陽を観る事よりも、社会で上手く立ち回る事や、生活していく事の方が、より重要な問題になるのですから、もはや、かつての子供のように夕陽を観る事は出来ません。
あれこれ考えずに、今、この瞬間の夕陽を観るなら、また違った美しさを発見する事が出来るかも知れません。
もちろん、それは分かります。しかし、人は怖がりですから。
「それでは、恐れの正体について語りましょう。」
「恐れとは、心理的な時間です。」
「過去に起こった耐えがたい苦痛が、未来にも起こる。」
「その起こるまで、時間こそが、恐れの正体です。」
「時間がなければ、恐れはありません。」
ああ。
やはり、今を生きなければ、恐れからは逃れられないのですね。
「では、どうすれば、恐れずに生きていけるのでしょう。」
それは、やはり覚悟するしかないのかも知れないですね。
どんな事が起きても、それから逃避しないと言う覚悟を。
「なるほど。」
「その人に起こる出来事は、良い事も悪い事も含めて、その人が必要としている成長のプロセスです。」
「その事が、理解出来るのであれば、あらゆる経験の全てが、祝福であった事を理解するでしょう。」
よく分かりました。
今を生きるには、その覚悟と、理解が必要だったのですね。
「しかし、既に巣食ってしまった、恐れの病床を取り除くのは、非常に労力と根気がかかります。」
「しかし、“今”直ちに始めるのであれば、必ず、それを一掃する事が出来るでしょう。」
いやあ、今回も、なかなか考えさせられるお話でしたね。
さて、お時間となりましたが、観音菩薩さん、リスナーの皆さまに、何かございましたら。
「“観る”と言う事は、恐れがない事、そして、それは、自由な状態です。」
「そして、それが、”今”なのです。観自在とは、そうした状態を示すものです。」
はい、ありがとうございました。
では、また、楽しいお話をお聞かせください。
「機会がございましたら、喜んで。」
それでは、またお会いしましょう。
如来ストリーム。