如来ストリーム 仏陀
やあ、皆さん、こんばんは。
DJアフロが、お送りする、如来ストリーム。
初配信ですから、今回は、スペシャルゲストにお越し頂きました。
本日のゲストは、飛鳥時代から、この日本にやってきて、今も、この日本の皆さんに影響を与え続けている、インド出身のスーパースター。
仏教の開祖、ゴータマシッダールタ、お釈迦さまです。
では、自己紹介からどうぞ。
「こんばんは。」
「食べてすぐ横になると牛になると、言いますが、それがなかなかやめられない、乳がゆ大好き、仏陀です。」
はは。
私の持っているイメージと違い、ユニークな方なんですね。
では、早速、お釈迦さまに、仏教的な、様々な疑問をぶつけていこうと思いますよ。
よろしくお願いします。
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
例えば、お釈迦さま。
人は、死ぬ事について悩んだりしますが、ズバリ死後の世界ってのは、あるんでしょうか?
「ふむ、私が生きた時代もそうですが、今昔、問わず、この問題に人々は、煩わされているようですね。」
そうですね。
「かつて、私は、死と呼ばれるものに対し、何度か説明をした事はあります。」
そうなんですか?
「しかし、仮に、私が、死後の世界はありますよ、と言ったところで、みなさんは、安心はしないと思うのです。」
「ですから、それについて、考えても意味はありません。」
「過ぎてしまった過去や、やがて来るであろう、未来を生きず、今を生きなさい、と。」
なるほど。
「それに、私が死後の世界は、ありますよ、などと言えば、そもそも、死と呼ばれるものの存在を、私が認めてしまう事になってしまうではないですか。」
と、言うと死は存在しないんですか?
「ならば、死とは何ですか?」
よく分かりませんが、魂と呼ばれるものが、肉体から離れる事だと思います。
「それでは尋ねますが、あなたは、その魂と呼ばれるものが、肉体から離れた事があるのですか?」
ないですよ。
もし離れていたなら死んでしまいますから。
「なるほど、面白い事を言いますね。」
「それならば、この世の者は、誰も死んだ事がないと言う事になってしまうのではないですか。」
まあ、そうなりますね。
「誰も死んだ事がないのに、何故、死に対して断定する事が出来るのでしょうか?」
それは、昔から言われている事だからですよ。
「それが、死に対する恐れが産み出した、間違った認識であるかも知れないのに、そうした認識にすがるのは何故ですか?」
誰しもが、死ぬ事を恐れているからだと思います。
「誰も死んだ事がないのに、何故、恐れる必要があるのでしょう?」
確かに、言われてみればそうですね。
「だとしたら、人は、死を恐れている訳ではなく、単に、知らない事がある事や、自分が失われる事を、恐れているに過ぎないのではないですか?」
そうです。
だから、安心したいのだと思います。
「しかし、魂が肉体から離れると言う事が、死であると言うのも、予測に基づいた迷信でしかありません。」
だからこそ、過去と未来に生きるなと仰るのですか?
「あなたは、魂が肉体から離れる事が死であると、定義しましたね。」
「ならば、死について考える事は、肉体は今に、あるのに、精神は未来にある事になります。」
「人は、今ある肉体から、精神が過去か未来に、離れるからこそ、死を恐れるのではないですか?」
う〜ん。
「ならば、あなたが、今を生きるのであれば、死を恐れる必要はありませんね。」
「無論、肉体的な死はありますが。」
う~ん…。
「私は、遠い過去の存在です。
その私に、死とは何かを尋ねても意味はありません。」
「こうして、私と対話をしようとも、死後の世界の確信には至らないでしょう?
私との対話も、気のせいかも知れませんからね。」
そうですね。
「死に対する恐れとは、私がある時にだけ存在します。」
「ならば、恐れとは、私です。
私を私と言わしめる、私とは何かを、あなたは、深く考えた事はありますか?」
つまり、自我の事ですよね。
言われてみれば、あまり、自分の本質に、注意していなかった気がしますよ。
「私とは、何かに固執する事、何かに執着する事ですね。
これは、私のものだと。」
「更に、私とは、あなたと私を区切る境界でもあります。」
「ならば、自他との分断がなく、何も求めていない時、即ち、私がない時には、死の恐怖は、あり得ません。」
いや、それは、何か話をはぐらかされているように感じてしまいますが、それでは、少し、話題を変えましょう。
例えば、お釈迦さまは、様々な経典を、後世に遺してきましたね。
その中の教えの、一体、どれが正しい教えになるのでしょう?
「なるほど、私が、様々な人々と語りあった寓話が、後世でまとめられて、経典となり、今に伝わります。」
「しかし、正しい教えなど、存在しません。
全ては移ろいでいくものだから。」
「私と同じ道を歩もうとしても、あなたと私は、体つきも、生まれも、そして生きている時代すらも、違いますね。」
「あなたと、私は同じですから、誰しもが、必ず悟りを得る事が出来ます。」
「しかし、そこに辿り着くまでの道のりは、一人一人、違うのです。」
「従って、役に立つ教えはあるでしょうが、正しい教えは、ありません。」
「あるとすれば、役に立つ教えと、役に立たない教えがあるだけです。」
「私は、その時に、その人が必要とする言葉をかけたに過ぎず、それは、その人にとっては、役立つ言葉であっても、他の人には、全く、必要のない言葉なのかも知れません。」
「そして、加えて言うのであれば、言葉は、言葉に過ぎず、真理では、ありません。」
お言葉ですが、正しい教えなどないと仰るなら、お釈迦さまは大嘘つきと言う事になってしまいますが。
「ふふ。それはそれで、一向に、構いませんが、やはり、それも少し違うように思いますね。」
「何かが、正しいなら、他は間違っていると言う事になってしまいます。」
「だから、私は、そうは言わなかった。」
「つまり、私は、何一つ、答えを持っていないのです。」
それは、一体、どういう事でしょうか。
答えを知らないと言う事ですか?
答えを持たないのに、何故、人々に教える事が出来るのでしょうか?
「あなたは、何故、答えを持たないのに、人々に教える事が出来るのでしょうと、言いましたね。」
「では、逆に、何故、あなたは、答えを知らなければ、人には、教えられないと考えるのでしょう?」
「知らない事を、他人から教えられても、知ったつもりになるだけで、依然として知らないままです。」
「しかし、人は、簡単に答えに群がってしまいます。」
「ですから、私が示したのは、その人が、そこに辿り着く為の道のりなのです。」
「私は、この世界を、こうだとは決め付けなかった。」
「私は、人々に、何も教えなかった。」
「ですから、私は、そして、私を信じる人々は、今も終わる事のない旅をしています。」
つまり、それが、あなたの悟りだったのですか?
「先程、申し上げた通り、私は、悟りが何なのかは知りません。」
お釈迦さまが、悟りを否定するのですか?
「いいえ、それは違います。」
「むしろ、その存在を確信していると言っても良い。」
「ですが、仮に、私が愛や真理について知っているなら、私は、それらについて、もはや関心を抱く事はなく、二度と調べる事もしないでしょう。」
「定義づけによる確信など、私にとって、意味の無い事です。
ですから、私は、それについて、何も知らないままでいます。」
「そうであるなら、私は、愛と真理を探究する旅を、今も続ける事が出来ます。」
なるほど、よく分かりました。
「優れた問いは、優れた答えに勝ります。」
「ならば、世界は問いなのです。」
「そして、それだけが永遠であり、不滅であり得るものです。」
「どうぞ、皆さまも、答えに囚われず、問いを持って下さい。」
「まずは、目の前にいる、人物に関心を持って下さい。
家族や、友人に対して。」
なるほど。
この、永遠に探求すると言う事が、真理や、死の本質に迫れたような気がしました。
「真理とは、私がない時、それは、生と死が、分断しておらず、未来や過去もなく、今、この瞬間にだけ、顕現するものなのでしょう。」
「ですから、生きているうちに、死とは何かを、感得する事が出来るのなら、或いは、それが、永遠であり、不滅であるものなのでしょう。」
ふむ。
いや~、大変、有意義な時間をありがとうございました。
「こちらこそ。本日は、こうした機会をもうけて頂いて、本当に感謝しています。」
さて、次回は、聖徳太子さんをゲストに交えて、如来ストリームをお送りしたいと思います。
お釈迦さま、本日は、お越しいただき、本当にありがとうございました。
「こちらこそ。」
それでは、また。
DJアフロの如来ストリーム。