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暮天(くれかかる)

「いてっ」

服に小さなヒバ木の枝がひっかかって、肌が少し切れてしまった。

ヒバ林の中には、ちゃんとした道らしい道は見当たらなかった。ただ、下草はあまり生えていなかったので、妊婦の俺でもなんとか歩くことはできた。もしかしたら、畑の持ち主か誰かが、この林も管理しているのかもしれない。

林の中はいろんな音がした。木の葉擦れのさよさよという音、何の鳥の鳴き声なのかも分からない鳥の鳴き声、昆虫の呻く様な息遣い。その全てが、俺を何処かへ誘おうとしているかのように、たえまなく、とめどなく続いている。

薄暗い林のずっと向こう側からは、生い茂る木々の隙間から光が漏れていて、穏やかな潮騒が聞こえてくる。どうやら、林のすぐ傍まで、海がせまっているようだ。導かれるようにして、俺は林の外へと急いだ。

「はあ、はあ、はあ」

息切れを堪え、道とは呼べないような道を歩き、草木に肌を引っ掛かれ、窪んだ穴に脚を取られそうになりながら、俺はお腹を抱えて歩いた。

やがて、薄暗かった視界がカーテンを開けた時のように一気に開けたかと思うと、俺は林の外へと躍り出た。


思っていた通り、林を抜けてすぐに太平洋が視界へ飛び込んできた。

林の外は高い崖海岸になっていて、左右へとずっと先のほうまで続いている。少し足を進めて下を覗き込むと、海まではかなりの落差があるのが分かった。崖にぶつかった波が、白い水しぶきを上げている。その様子を見ていたら、映画が始まる時によく流れている、岩に波がぶつかるあの映像の事を思い出した。

「………」

視線を海から戻し、俺は周りの様子を眺めた。

目指す『終着点』なるものは、一体どこにあるのだろうか。辺りを見渡してみても、それらしいものは何処にも見当たらない。

「だいたい、他人がひと目で分かるもんじゃないかもしれねーよな…」

俺は紙を見ながら一人ごちた。そうなると、何かを見つけるのは至難の業だ。だが、このあたりに何かあるのは間違いないはずだ。なんとしてもそれを見つけなければ。再び俺は眼をじっと凝らし、崖の下や林の中も交互に見ながら、崖に沿って探索を続けた。


「…ん…?」


しばらく探しながら歩いた頃、俺は周りの崖よりも一際切り立った小高い崖の近くに差し掛かった。その小高い崖のそばに、何か立て看板らしいものがぽつんと立っている。立て看板は俺の方からは逆向きになっていて、何が書いてあるのかは読めなかった。


俺は少し早歩きをして立て看板の前方に廻り込むと、その内容を読んだ。


「…あ?」


『─いのちの電話─

 一人で悩まずに、いつでも相談して下さい。

 幸せな明日に命を繋ぐために

 ×××─××××』


「……」


『─いのちの電話─

 一人で悩まずに、いつでも相談して下さい。

 幸せな明日に命を繋ぐために

 ×××─××××』


「なんだ…これ?」

汚れた赤いハートマークのイラストの下に、丸みを帯びた黒い文字の羅列と、どこかの電話番号。

自分が何を見ているのか、よく分からなかった。

俺は小高い崖に近づいて、下を見た。


「………っ!?」


小さな赤い汚れた靴が、片方だけ、崖下のごつごつした岩の上に転がっていた。


「……まさか」


心臓が早鐘の様に速度を上げる。きいんという警告じみた耳鳴りがきこえる。崖下の波濤が、一際大きな音を立てて炸裂する。


「おい…ちょっと待てよ。なんだよこれ……どういうことだよ……!」


世界がぐるぐる回っているような気がした。


「あ…ああ…あああ…あああああ〜〜〜っ」


立て看板の言葉の残酷なほど冷たいその意味を、『終着点』の在り処を、この人が何をしようとしていたのかを俺は理解した。理解してしまったのだ。


「……ふざけ……」

ガッ

「……ふざけんな……」

ガン

「ふざけんなッ!ふざけんなーーッッ!」

ガンッ! ガンッ!

「ふざけんなあああぁあぁああぁーーーッッ!!」

ガンッッ!!


血がにじむほどきつく拳を握り締めて、俺は立て看板を思いっきり蹴った。

蹴って蹴って、蹴りまくった。やり場のない怒りと、言い知れない悲しみがこみ上げてきて、俺は思いっきり蹴った。けれど、立て看板はその場にじっと佇んでいて、びくともしなかった。そして、あらん限り声を張り上げてみても、結局のところ出てくるのは、誰とも分からない女の人の、所詮他人の金切り声でしかなかった。

いつしか、俺は足元がぐらついて立ってもいられなくなって、その場にへたり込んでしまった。


「…うっ……く……ひっ………」


へたり込んだら、今度は涙がにじんできた。この気持ちをどうしていいのかも分からなかった。ただただ泣けてきて、泣きながら地面の草をつかんでは千切って投げたが、何にもならなかった。

力を失くした手のひらから、血のにじんだ紙切れが風に乗って飛ばされて、ひらひらと海へと舞い上がって、どこかに消えていった。

俺の姿を、自殺防止の立て札だけが、悲しげに見つめていた。



「………」

しばらくの間、俺は夕日が沈む海の彼方を眺めた。

ここはこんなにも綺麗な夕焼けが見れるのに、この女は、こんなに大きくなった赤ん坊を抱えたまま、ここで自殺を図ろうとしていた。『終着点』とは、そういう意味だったのだ。

なぜ、そんな事をしようとするのか。どうして、この子を道連れにしてまで、こんな事をしようとしたのか。その答えを知ろうとしても、答えはこの女の心の中にしかない。

今、この女はどうしているのだろうか。俺の身体に入ったまま、初志貫徹してそのままどこかで自殺してしまっただろうか。もしそうなら、それはとりも直さず、俺が元に戻れずこの身体のまま一生をすごさなければならない事を意味する。

あるいはもしかすると、俺という新しい身体を得て、新しい暮らしを得ようと思い始めているかもしれない。この女にも色々と深いわけがあって死のうとしたのだろう。それを捨てて全く新しい人生を歩めるのなら、この女にとっては、それはそれでラッキーだったかもしれない。それで俺は、自分の身体を提供して、この女とこの子の命を救った事になるかもしれない。そう考えれば、全ては丸く収まる。世は全て事もなし。みんな万々歳だ。めでたしめでたし。


「……んなわけあるかッ……!」

ぎしり、と音が聞こえるくらいに、歯軋りをした。悔しかった。この女が憎いと思った。何でこんな事をするのか、問い詰めてやりたかった。あんたには、あんたの中には、新しい命が根付いているというのに。この命を守るのが、あんたの役目だというのに。それを放り出してまで、なんであんたは……。


その時、ふとある考えが頭に浮かんできた。それを確かめたくなって、俺は腹に手をやった。

「なあ、お前さあ。……もしかして、お前じゃないのか? 俺の身体と、お前の母ちゃんの身体を入れ替えたのって。お前、お前の母ちゃんが何しようとしてるのか、分かったんじゃないのか?」

もちろん、お腹の中から答えは返ってこない。けれど。

「……お」

その代わり、俺はお腹の中で、この子が動くのを感じた。

お腹の内側から、お腹を押されている感じがする。けれど足じゃない。手だ。手をあわせてくれた…。

「盛岡駅のときに俺を気絶させたのも、もしかしてお前だったのか? ……そうだよな。今のまま仙台に戻って、お前の母ちゃんに身体返すわけにはいかないもんな」

この子を死の危険から遠ざけることが出来た。そのことだけでも、ここまでやってきた価値はあった。それはそれで、よかったのだ。

「それにしても、お前すげーな! どうやって人の身体を入れ替えるなんて裏ワザやったんだ? 世の中の医者や科学者連中が卒倒するだろーな! 科学の革命どころじゃないもんな! そうだ、このことをテレビとかで世界に向けて発表すれば、大金持ちになれるかもしれないぜ? そーしたら、食べるものも住むところも自由だし、俺は働かなくてもいいし! なんだよ、結構よさげじゃんか! ハハハッ……」

もし、元に戻れなかったら? 俺は、つとめて明るい事を考えるようにした。もう二度と、元の身体に戻れないかもしれない。けれど、この女の身体だからって、もうこの世界がおしまいになるわけじゃない。だから……。

「……なあ、お前さ」

「お前は……俺でいいのか? 俺はバカな学生だし、正直これからどうしていいかわかんねーし。そうだ、まだたった一日しか経ってないんだよな。だけど、それでいいっていうなら、俺、これからなんとかしてみるよ。後の事は、これからゆっくり考えればいいさ。もし、お前がそれでいいんなら、俺がお前の父ちゃんと母ちゃんに……」

お腹を通して合わせた手のひらから、何も言えないこの子の心のようなものが、ゆっくりと伝わってくるのを感じた。心臓の鼓動のような、海の漣のような音が……。


「……そうか。お前は、イヤか」


俺はゆっくりと、自殺防止の立て看板を手掛かりに、立ち上がった。妊娠中の身体でさんざん歩き回ったあげくに暴れたものだから、思ったよりも疲れがひどく、足が思いっきり笑っている。それでも何とか、俺はもと来た道を引き返し始めた。

「……はあ……はあ……そういえば……お前、女の子だろ? なんとなく分かるんだよ。……でな、もし、もしだけど、元の身体に戻って、お前が無事に生まれて……それから、普通に成長して、それで大きくなったら……今回の一件のお礼にデートにでも誘ってくれよ。……はあ……たぶん、そのころには俺はスケベな中年オヤジになってるだろうしよ……それで……」

俺は何歩か歩いたところで、その場にしゃがみこんでしまった。身体が重い。さっきまで座っていたのに、思ったよりもずっと疲れていた。

「せめて……大間の街中までは戻らないと……」

しかし、身体がだるくて、思うように力が出ない。

だめだ、眠い。少しずつ、疲労が睡魔へと変わって襲ってくる。必死に睡魔を振り払って歩こうとするが、抗えない。俺はまた、林の木陰に背をもたれさせながら、座り込んでしまった。

それでも這う這うの体で少しずつ大間の街へと戻ろうとしたが、ついに俺はその場で眠り込んでしまった。

少しだけ休もう。少しだけ眠ったら、またすぐに歩けばいい。どうせ、大間まではたいした距離じゃない……。


「みどり…みどりっ!?」


どこかから、女の人の声がするのを聞きながら、俺は闇に落ちた。

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