招魂(たまよばい)
「あれは…?」
大間崎に立つと、強く爽やかな風が俺を撫でた。
視界の先には、遥かな津軽海峡の姿がある。海峡には、小さな漁船がぽつりぽつりとその姿を見せていた。
その海のずっと先、砂漠の蜃気楼のようなゆらぎに隔てられた海峡の向こう側に、かすかに街の景色が浮かんでいる。街の景色の中には、一際目立つ白い塔のような高い建物が建っている。街はオアシスの幻のようにゆらゆらと頼りなく揺らめいていたけれど、決して消えることなく、其処に確かに存在していた。
「あれは、函館よ」
俺のそばに立っていたおばあさんが、俺に向かって言った。
「函館…」
とうとう、本州の北の果てまで来てしまったのだ。
けれど、ここで終わりじゃない。この果ての先には函館があって、その先には札幌とか旭川がある。そのまた先にいけば、きっとロシアがあって、シベリアがある…。
そんなふうに、まだまだ世界はずっと先まで拡がっているのだと、本州を出たことのなかった俺は改めて思った。そして、広がる世界と同様に、俺の旅もまだ終着点を迎えていない。
「あなた、お一人でご旅行?」
海をぼうっと眺めていると、先ほどのおばあさんが、俺に話しかけてきた。
背が少し曲がり始めたこのおばあさんは、人好きのしそうな、いい意味で田舎っぽい人だった。きっと、俺があまり見ない顔だったから、興味を持ったのかもしれない。
「ええ。まあ、そんなところです」
「あらそう。そんなお身体であちこち歩くのは大変でしょう? 何ヶ月なの」
「ええと…9ヶ月…くらいです」
「あら、もうすぐねえ。頑張ってね」
「はは、どうも…」
もちろんこの身体の持ち主が、ですけどね。
俺は心の中で付け加えながら愛想笑いを浮かべた。
「ところで、これからどちらに行かれるの?」
「ええ。実は、この住所の所に行くつもりなんですが」
俺は紙を広げると、おばあさんに手渡した。
おばあさんは慣れた手つきで老眼鏡を取り出すと、紙に書かれた住所をじっと見つめた。
「実は、このあたりの地理にはあんまり詳しくないんですよ。なので、どう行けばいいのか良く分からなくって。歩いていけますか?」
「…そうね…この住所のあたりだと…ちょっと遠いけど、歩いていけないくらいじゃないわねえ。大体、私が歩いて30分くらいよ。あなたならもっと早く着けるでしょうけど…」
おばあさんは、そういうと上目遣いに俺を見つめた。
「? 何か?」
「いえ、この場所にどんな御用なのかしら、と思って」
「はあ。ええと…実は、まあその、私の友達が、このあたりに住んでいるって聞いたものですから」
「そうなの。いえ、それならいいのだけれど…。ええと、この住所はね、この道をこういって、それからカドにタバコ屋さんがあるから、そこを左に…」
俺は、おばあさんから詳しい道順を教えてもらうと、それを何度か復唱して、しっかりと頭に叩き込んだ。
「赤ちゃんがいらっしゃるのだから、気をつけて行ってね?」
「…はい。ありがとうございます」
軽く会釈をして、俺はおばあさんに背を向けて歩き始めた。
「…あの人…変ねえ…?」
おばあさんが、俺が見えなくなるまで背中を見つめ続けていた事には、俺は全く気がつかなかった。
しばらく静かな市街地を教えてもらったとおりに歩くと、やがて俺は街のはずれに出た。市街地を出ると、あっという間に道路以外には周りは何も無い場所になった。良くも悪くも自然があふれた、田舎っぽい光景だった。
さきほどのおばあさんに教えてもらったところによれば、この紙に書かれた住所のあたりは、市街地から離れた、海沿いに面した場所なのだという。
てっきり俺は街の中の話だと思い込んでいたのだが、そうではなくて、畑や林が広がっているばかりで、むしろほとんど人は住んでいないらしい。だからこの住所の場所自体が、結構広い範囲にわたっているのだそうだ。
何か目印になるようなものはないかと聞いたら、おばあさんは、樹齢の高い大きなヒバの木が生えているからすぐ分かる、と言っていた。
ヒバの木がどういうものなのかも良く分からなかったが、大きな木が目印ってのも変な話だ。本当にそれしか目印になるようなものがない場所なんだろうか。
なにより…そんなところに、この人は一体何の用事があったのだろう。
「ふう…ま、とにかく行けば何か分かるだろ…」
俺は相変わらず重たい身体を抱えながら、よたよたと歩みを進めていった。
「はあ、はあ、はあ…あ、あれか…?」
結局、30分ほども歩いただろうか。陽がゆっくりと傾きかけてきたころ、俺はとうとう、それらしい場所に行き着いた。
大きな木が、畑の中にぽつんと一本だけ、寂しげに突っ立っている。畑の向こう側には、この木と同じ種類で構成された林があった。
木の傍に寄ってみると、シダ植物を連想させる、細長い葉が繁っていた。葉の匂いをかぐと、かすかに、昔じいちゃんの家で入ったことのあるヒノキの風呂と似た匂いがした。案外、この木はヒノキの仲間なのかもしれない。
「誰も居ねーな…」
木に背を預けて腰を下ろし、俺はあたりを見渡した。
夕焼けに照らされて、畑の緑が左右にさわさわとゆれていた。そんな畑の風景は限りなく美しかったけれど、人っ子一人居ないせいか、俺にはむしろ寂しく思えた。
そのせいだろうか、ふいに寄る辺無い気持ちが心に迫ってきた。
このまま元に戻れなかったら、俺は一体どうなってしまうのだろう。お腹の中に居るこの子を産んで、育てていかなければならないのだろうか。
生活はどうなってしまうのだろう。俺の家族や、この人の家族はどうなってしまうのだろう。
どこかで仕事を見つけて、そこらへんのおばちゃんに混じって、工場とかスーパーとかで働かなければならないかもしれない。
そうなったら、俺は今までみたいな暢気な学生では居られなくなる。この子を守る責任や義務と向き合わなければならない。恐ろしい現実が、容赦のない世界が、生々しい姿で俺を襲う。
その時、俺はそれに耐えられるだろうか。この子を抱えて、何を支えにして行けばいいのだろうか。
俺は妙な寒気を覚えて、両手で二の腕を抱えてしまった。
グッ!
「えっ?」
─その時だった。お腹の中の赤ん坊が、内側から俺の腹を蹴ったのを感じた。
力強い、確かな脚で、俺の腹を蹴ったのだ。
「生きてる」
それは、確かな生命の息遣いだった。
「居るんだ」
居る。新しい命が、間違いなくここにある。
「…そうだよな。お前が居るよな」
俺はゆっくりと立ち上がって、何処へ行くとなく、前に歩き出した。
「探すんだ。このあたりに、『終着点』ってのが、ある筈なんだ」
自分に言い聞かせるように独り言を言って、俺は林の方角を見つめた。
そうだ。俺が誰で、この人が誰であろうと、今、俺のお腹の中に居るこの子を守れるのは俺しかいないのだ。
俺がここで何とかしなければ、この子を守ってくれるはずの人は、誰も居なくなってしまうかもしれないのだ。
そんな骨を折る義理があるないという問題じゃなしに、守れる誰かが守らなければならないのだ。そういうものなんだ、この子は。
「…はっ、んだよ、恥ずかしい奴だな、オレ」
俺は、妙に熱くなった自分の心に気がついて、ちょっと気恥ずかしくなった。でも、悪い気分ではなかった。
「よし、行こう。まずは、あの林の向こうだ」
旅の終着点は、もうすぐそこまで来ていた。