徘徊(ふらふら)
『…までが、こまち号、秋田行きです。全車指定席で、自由席はございません。次は、盛岡に止まります…』
新幹線が盛岡に近づくと、車内には聞き取りやすい平坦な調子のアナウンスが流れて、盛岡到着が間近であることを知らせた。それを聞いた乗客たちが、にわかに棚から荷物を降ろして身の回りを片付け始め、降りる用意を始める。
盛岡駅に近づくとともに、窓の遠くに大きな高層ビルが近づいてきているのが見えた。そういえば、あのビルのことは以前ニュースか何かで見たことがあった。
「へぇ、あれがマリオスってやつ?…始めて見たな。なんか、県庁舎とマークワン足して二で割って低くしたのにちょっと似てるな…」
ひとまず俺は席に戻っていた。今の俺は妊婦なので(こんなトチ狂った事を冷静に言えるようになった俺が憎い)、のろのろ歩いて多少後ろをつっかえさせる事になっても、みんなに遠慮してもらえば一番先に降りることが出来るだろう。けど、別にこれと言って荷物もないし、降りる客の群れに巻き込まれるのも嫌だったので、俺は下車する客たちの後ろについて降りることに決めていた。
(それにしても…)
気がかりなのは、やはり俺の身体の行方だった。
改めて仙台駅に電話を掛けて確かめてみたが、この何時間かの間に誰かが仙台駅構内で倒れたとか、病院に運ばれたとかいうような事件はなかったという。
ということは、俺の身体に入っているこの身体の持ち主は、俺の身体に入ったまま、何処かに歩き去ってしまった、という事になる。
何処へ?
何しに?
俺と同様に、自分の身体が何処に行ったのかを必死で探し回っているのかもしれない。けれど、よくよく考えてみると、その可能性は低いんじゃないかと思った。なぜなら、俺の持っていた財布の中には、名前やら家電の番号やら住所やらが書かれたメンバーズカードとかが何枚も放り込んであったからだ。ちょっと財布の中身を調べれば、俺の身元くらい直ぐに分かるはずだし、俺からの連絡がありそうな俺の家とか学校とか、そういう所に連絡くらい入れるだろう。それをしていないとなると、何か目的があって移動しているのかもしれない、という事になる。
(俺の身体がそんなに気に入ったのかね)
と言っても、俺は何処にでもいる普通の男子高校生だし。つーか、んなことより自分の赤ん坊をほったらかしにするか?
(とにかく仙台に戻ろう…そうすりゃ何とかなるはずだ)
どうやって何とかするのか、正直言って未だにどうするのかも説明できなかったが、今の俺にはそれ以外に希望はなかった。
列車はゆっくりと速度を落としてプラットフォームに進入し、その細長い巨体を駅に留めた。
車内の通路には入り口が開くのを待ち構える列ができていた。やがて、入り口ドアの開く空気が抜けるような音がすると、列がゆっくりと前進をはじめた。
俺は座席に座ったまま、列に加わるタイミングを待ち構えた。強引に割り込んで迷惑をかけるのはスマートじゃないが、あまりのろのろし過ぎて車掌にドアを閉められても面倒だ。
(よし、行くか)
列の最後尾が自分の席の傍を通り過ぎたのを見計らい、俺は席を立った。
その瞬間、だった。
(……え?)
ストン、という軽い音がして、立ち上がったはずの俺は、また席に座っていた。
まるで磁石に引っ張られる金属のように。
心臓が一際大きく鳴る音が聞こえて、静脈から動脈にいたるありとあらゆる全身の血液が、重力に逆らって凪いだのを感じた。
──そして、“それ”は唐突にやってきた。
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明 ! 光 ガタ × × 光 闇 闇 光 明 ガタ 滅 ! ! ! ! ! ●
内臓 抉 出 場 で × × 捏 繰 × × 壁 叩 様 × × × × ●
● !
● !
● !
………
「〜〜…〜〜ッか…〜〜〜ッッッ!?」
それは、これまでに味わった痛みを全部足してもまだお釣りが来るくらいの激烈な『腹痛』だった。
肺という肺から空気が漏れ、骨という骨が波のようにうねり、全身の筋肉が引き千切れる様な悲鳴を挙げた。思考があますところなく一瞬で苦痛に置き換えられ、他の何もかもがなくなり、世界中すべてが真横にひっくり返った様な感覚を覚えた。
俺は、そのまま意識をなくした。
「っみ! …君!」
「……」
「君! 大丈夫か! しっかりしたまえ! どうした!?」
「……ッ!?」
どのくらいそんな状態になっていたのか、気が付くと俺は、自分の座席で、腹を抱えて蹲る様な姿勢になっていた。顔を上げると、傍らには、灰色のコートを着て灰色の山高帽を被った初老の紳士が立ち尽くしていて、俺のほうを心配そうな顔で見下ろしていた。
列車はいつのまにか速度を上げ始めていて、駅を抜けようとしているところだった。
「あれ……おれ…一体…」
「一体どうしたというのだね? 具合でも悪いのかね? 顔色が真っ青だぞ」
痛みは嘘の様に消えうせて、何処にも無くなっていた。ただ、かすかにあちこちの筋肉が麻痺しているような感覚だけが残っていた。
「あ…いえ…なんでもないんです、ちょっと、気分がすぐれなくって…」
「本当かね? 君、見たところ身重のようだが、まさか産気付いたのではあるまいね?」
「…いえ、本当に大丈夫なんです」 本当だった。
「…そうか、ならいいが、実際こんな所で産気付いては大変だよ。君、良人は? 一人か?」
初老の紳士が周りを見回しながら言う。
「え? ええ、まあ、今日は別行動なので…」
そういえば、この身体の夫の事はすっかり忘れていた。今頃何をしているのだろうか。妻が来るのが遅いと何処かで待っていたりするのだろうか。
「ふむ。けしからんな、身重の妻をこんな所にほったらかしにしておくとは! なっとらんね、後で厳しく言っておきなさい。…ところで、本当になんともないのかね?」
「はは、どうも…大丈夫です。ありがとうございます」
「そうか。まあ、何かあったらすぐに近くの人に言いなさい。分かったね」
そう言うと、初老の紳士は山高帽で軽く挨拶をして自分の席に歩いていった。
…今の激痛は…。
…今の激痛は、まさか…。
今や八戸に向かいはじめた列車の中で、俺は膨らんだ腹を手でさすりながら、冷たい刃の様な怖気が走るのを感じていた。