剪々(そよそよ)
「女…だ」
慌てて駆け込んだ洗面所の鏡の前で、俺はその事実に恐れ慄いていた。
つい今朝方まで、いや仙台駅に着くまでは、ごく平均的な男子高校生だったはずの俺が、今やこうして鏡の前に立ってみると、すっかり女に生まれ変わっていた。
「女…」
敢えて口に出すまでもなく、目の前にいる女が、愕然とした表情を浮かべながら鏡に見入っていた。
「……な、何が一体、どうなって……」
俺がそう言うと、目の前の女が面白いように正確に、その言葉をトレースして口に出す。まるで、操り主の居ない人形劇を見ているような気分だった。
慌てて眼をこする定番の動作をして、もう一度鏡を見た。
女。
ものは試しと眼をこする定番の動作をして、さらに鏡を見た。
女。
なんのこれしきとばかりに眼をこする定番の動作をして、念には念を押して30cm近づいて鏡を見た。
それでもやっぱり女だった。
「俺は…俺は一体…?」
すっかり気が動転した俺は、およそ半ダース分くらい同じような事をして、ようやく目の前にいる自分はとりあえず今は女なのだ、ということまでは受け容れられるようになった。簡単には言っているが、それでもたっぷり10分くらいはかかったと思う。
ようよう少し落ち着いてから、俺は自分である目の前の女をよく観察してみることにした。このとち狂った状態が何なのか、その手がかりを見つけないといけない。
年は、俺よりも一回りくらい年上に見えた。
おそらく社会人、あるいは大学院生でも通るかもしれない。敢えて説明するほど器量良しというわけではないが、取り立ててブスでもない。
ただ、元はそれなりに綺麗だったろう顔には自然と翳りのようなものが差していて、お世辞にも幸せな暮らしをしているような顔つきには見えなかった。どこか気の休まらない、悩みが常に付きまとっているような、そんな顔をしているのは、俺の気のせいだろうか。
髪型はショートのボブカットで、浅葱色のゆったりとしたワンピースを身に纏い、その上から生地の薄い白いカーディガンを羽織っている。靴は薄いベージュ色のアンクルストラップパンプスを履いていた。
それ以外には、特にこれといった装飾品などは身に着けていない。ただ、左手の薬指には、質素な印象の指輪。これだけが、唯一といってよい装飾品だった。
バッグなどは持っていなかったが、カーディガンのポケットから小さな財布が出てきて、その中には一万円札が五枚と、硬貨がいくらか入っていた。困ったことに住所や氏名が分かるようなものはなく、この人が誰なのかを調べることはできなかった。
一つ驚いたのは、携帯電話も持ち合わせていなかったことで、相当の手ぶら状態だったことだ。こうなると、この身体の持ち主はちょっとそこまでという感じで出かけただけなのかもしれないと思った。
ところが、財布と一緒にポケットに収まっていた切符は、八戸までの片道の指定券だった。旅行をするにしては、いやに身軽な感じがして、そこが不思議といえば不思議だった。
「…フツーだ」
顔に手を当てながら、俺はこの人についての感想を述べた。
要するに、この人はこれと言って特徴のない、街を歩いていれば出会わない方がおかしいというような、何処にでもいるごく普通の女性だった。手回り品に妙なところはあるが、これでは何が何なのか分からないのと大して違いはなかった。
やれやれと、顔に当てていた手を何気なくすっと下に降ろした時、手が何かおなかのあたりで膨れたものに触れたことに気付いた。
「…ん!?」
気が動転していたのと、ゆったりとしたワンピースを着ていたので、しばらくは腹のあたりの異常に気付く暇がなかった。
けれど間違いなく、このお腹は何かがおかしい。妙に出っ張っていて、腫れぼったい。俺の脳裏にいつだかに見た、アフリカのどこだかの内戦で撮られた、やせた子供のお腹の辺りだけが異常に膨らんでいる写真のことが、ちらりと過ぎった。
「!!!」
ぞくっとした感覚が、自分の背筋を貫通した。考えたくない想像が、ぞっとするほど素早いスピードで背後に忍び寄ってくる。まさか。まさか、これは…。
俺は慌てて、パンツが丸出しになるのもかまわず、ワンピースの裾をたくし上げて、お腹を鏡に写してみた。
「っ…!? お…おいおいっ…!! そんなのありかよっ…!!」
自分の腹の中に起きている事を悟った俺は、足元がぐらついて、二三歩後ずさってその場にへたりこんでしまった。
お腹は大きく膨れて、かなりのサイズになっていた。
…この人は、妊婦だった。