離魂(こころ)
痩せたのだろうか? 頬の辺りが少しこけているように見える。
たった数週間会わなかっただけなのに、その顔を見るのが随分懐かしく思える。
それでいて、なんだか他人の顔のような気もして、不思議な気分だった。
「っ…」
「ちょっと!?」
俺はなんとか気持ちを奮い立たせて、ドアを開けて外に出た。
「どうしたの、雨が降ってるのに? 早く中に……!?」
結慧さんは、俺の様子に気がついたらしく、言い掛けた言葉をそこで途切れさせた。
「そんな、まさか……」
慌てて外に飛び出してきた結慧さんに支えられながら、俺はゆっくりと“俺”に歩み寄った。
“俺”は、そんな俺を、どうしていいのか分からないというような顔をして見つめている。
立っていられないほど腹が激しく痛んだが、陣痛なのかそうでないのかはっきりしない。
「……」
やっと会えた。
みどりを追いかけていたこの数週間、みどりに言いたい事が山ほどあった。
それが、今こうして唐突に再会を果たしたと思ったら、不思議なことに今度は逆に何から言っていいのか分からなくなる。
「みどりなの? そうでしょう?」
「……そうだよ。久しぶり、結慧」
何も言えずにいる俺に代わって、結慧さんが口火を切った。
みどりは俺の声そのままだったけれど、やっぱりどことなく女の喋り方で、変な感じがする。
「今まで何処に行ってたの!? みんな心配してたんだよ! ううん、それだけじゃない! あんたの身体の中に居るこの人は、あんたの代わりになるところだったのよ!? 分かってるの!?」
みどりは、結慧の質問には答えずに、俺を見て言った。俺は、みどりの眼にどう映っているのだろうか。
「……あなたが、本当に、この身体の……?」
「そうです。あの日、仙台駅であなたとぶつかって、それでこの子に身体を入れ替えられた」
俺はお腹をさする。
「えっ?」
「この子がどうやってそんなことをしたか……、それは分かりません。でも、どうしてそんな事をして俺を巻き込んだのか…っ…その理由は分かってるつもりです」
「あんたが正太郎に振られたのもね。直接電話して聞いたから」
「…そうだったんだ。じゃあ、何もかも、全部分かってるんだね。私が死ぬつもりだったことも……」
俺の身体に入ったみどりは、大きく息を吐いて、目を伏せた。
「なんで今まで来てくれなかったのよ…」
「最初は、…この身体を手に入れた時は、人生をやり直すいい機会だと思った。病気のことや、ショウちゃんのことや、今までの全ての人生から切り離されて、全く別人として生きることが出来るって…正直うれしかった。それからは、あちこちをあてもなくさ迷い歩いてたわ…」
「…」
「だけど、やっぱり忘れられなかった…。私の身体は、赤ちゃんは、どうしちゃったんだろうって…。だんだん、夜も眠れなくなっていって……。それで、私の身体…あなたがどうしているのか調べたけれど、仙台では分からなかった。だけど、財布の中に大間の住所を書いたメモを入れていたのを思い出したから、もしかしたら大間にいるかもって…」
「…」
みどりは、目線を地面に落としたまま、話を続けた。
「大間に着いた後で、私と結慧が一緒に居るところを見た時は…心臓が止まりそうだった。だけどそれで、私が結慧のところにいる事がわかって…ずっと結慧のアパートのそばで、様子を見てたの」
「そんなすぐそばにいたなら、どうして来なかったのよ!あんたを探すために、どれだけ苦労をしたか…!」
「分かってるよ!すぐに行かなきゃいけないって分かってた!」
「じゃあ、なんで!」
「だけど、どんな顔をして結慧に会えばいいのか、分からなくて……!」
結慧さんがいきなり、みどりの…“俺”の顔を手で叩いた。
「そんなの、どんな顔だっていいに決まってる! みどりが…あたしを助けてくれたみどりが帰ってきてくれれば、それで良かったに決まってるじゃない!」
その言葉が、みどりの瞳から一筋の涙を零した。
「結慧、私を許してくれるの? どうして? だって、あたしは、あんたからショウちゃんを……」
「確かにね。確かにあんたは私からあいつを奪ったわ。だけど、どう? 正太郎みたいなろくでなしを好きになって、取り合ってるつもりになってたあたし達がバカだっただけ。わかるでしょ? 今なら」
結慧さんは、にやりと笑う。
「だけど…やっぱり、どうすればいいかわからない。私は病気で、無事に産めるかどうかも分からないよ。それに、もし産んだとしても、あたしはその子をきっと幸せには……」
「みどり…」
「やってみなきゃわからない」
「えっ…?」
言葉の代わりに、俺は力を振り絞って、みどりの入っている“俺”の顔を思いっきり殴っていた。
身体が勝手に動いたような感じだった。陣痛で息も絶え絶えのはずなのに、こんな力がどこに残っていたのか。
不意を付かれたみどりは、痛そうな音をたてて、地面に激しくつんのめって倒れこんだ。
「ちょ、ちょっと!? どうしたの急に!?」
「今の一発は……この子を道連れにしようとした分と……身体が入れ替わった後にこの子をすぐに探しにこなかった分ってことで」
「う…ぐ、うっ…!」
「どうせ元々俺の身体なんですから……元に戻ればノーカンです。むしろ後で痛いのは俺のほうでしょ」
「それは……そうだけど」
結慧さんが言葉を継ぐのを制止して、俺は倒れこんだみどりに言った。
「みどりさん……俺は眠っているとき、この子の声を聞いたような気がするんです。夢の中ですけど」
「赤ちゃんの、声? なに、を?」
「“生きたい”って。産まれたいって、言ってました」
「えっ…!?」
「もちろん……俺の見たただの夢かもしれないですけどね。だけど、俺はこの子の声だと思ってます。何しろ、こんなものすごい事をやる奴ですから。声くらい聞かせてくれたって不思議じゃない」
「それは……でも」
「確かに、俺はあなたやこの子とは関係ない人間です。この子を殺すなって言えば、それで済むんだから、気楽っす。……あなたが、これからこの子を産んで、育てて、幸せにするとして、それにどれだけ苦労するか、俺には分かりません。……だけど」
「……だけど?」
「あなたなら、それができると思うんです。高校時代、結慧さんをいじめから助け出したあなたなら。そうでしょう?あなたの身体には…まだこれだけの力があるんだから」
みどりは、俺が殴った顔に手を触れた。口の端からは、血が流れている。それだけの力で殴ったということであり、それだけの力がこの身体にはあるということだ。
「これが、母親っていうものかも……しれない」
「母、親…」
みどりは、ためらうように、俺に言った。
「あたしは……まだ、この子のお母さんに戻れると、思いますか?」
「この子は、ママに会いたいって言ってました。だから、みどりさんにその気があるのなら、きっと」
「私も、できることがあるなら協力するわ。あんたを一人にはしない」
「結慧……」
みどりが、おそるおそるといった具合にお腹に触れた。
お腹の中で、どくんという強い鼓動がはしるのを感じる。
「ごめんなさい。辛い目に…ひどい目に合わせちゃった……。でも、私は…頑張る。だから、私を許して。あなたを産んで、もう一度やり直してみる。だから……、私を、この人を、元に戻してあげて!」
その瞬間、身体中を何かが駆け巡り、世界に白い光が満ち溢れた。
身体が急になくなり、まるで魂だけが宇宙か海に漂っているような感覚にとらわれた。
* * * * * * *
真っ白な世界の中で、俺に女の子の声が語りかけてくる。
今にも泣きそうな声色。
『巻き込んで、今まで、ごめんなさい……。ありがとう』
「気にするなよ。結局、俺は何もできなかった。お礼を言うなら、結慧さんや、お前をこれから産むみどりさんにいってやれよ」
『でも……私は、産まれて来たら、何もできない普通の赤ちゃんになる。あなたのことも、たぶん覚えてないし、思い出せない』
「そうか……なんだか、寂しくなるな。今までずっと一緒に居たからな」
『ごめんなさい。何も、できない…』
「なあ。デートする約束ってまだ覚えてるか? あの場所で俺が言った奴」
『? うん……』
「じゃあ、それだけ守ってくれればいい。お前が何十年後かに大人になったときにな。なるべく早く頼むぜ。俺がオッサンになっちまわないうちに」
『あはは……うん、分かった。やってみる』
「じゃあな。早くママのとこに帰れ」
『うん。…ばいばい』
声が、静寂のかなたに消えていく。
これでいい。これで、全てが元に戻る。
全身の力がゆっくりと抜けて、世界が静かに消えていく。
俺の意識もまた、世界とともに、静かに消えていった。
* * * * * * *
それからの事について、ありきたりだが少しだけ話そうと思う。
気がつくと、俺は大間にある病院の一室に寝かされていた。あの雨の日からは、もう2日も経過していた。
身体は、元の俺のものに戻っていた。ほんの数週間、身体が入れ替わっていただけだというのに、なんだか妙に懐かしくて、やけに泣けてしまった。身体の調子は、俺自身が思い切り殴った頬が痛む程度で、後は全く問題ないようだった。通り一遍の検査を行い、翌日には退院できることになった。
結慧さんが、退院の日にお見舞いに来てくれた。身体が元に戻ったことを、二人で喜び合ったことはいうまでもなかった。
結慧さんは、みどりも同じ病院に入院していることを教えてくれた。みどりは、大変な難産の結果、何とか健康な赤ちゃんを出産していた。しかし、みどり本人はいまだに目を覚まさず、母体の状態は思わしくないと医師は見ているという。
俺は、結慧さんに付き添われて、一度だけ二人の様子を見に行き、そして結慧さんと一緒に仙台に戻った。
仙台では、行方不明だった俺が急に帰ってきたということで、周囲や学校では大変な騒ぎとなり、しまいにはテレビのニュースや新聞の取材までやってくる始末だった。
うちの母さんは心労で見ていられないくらいやつれていたが、急に戻ってきた俺を見て卒倒しかけ、あやうく救急車で病院に運ばれそうになるほどだった。
しかし、思っていたよりも、騒ぎはすんなりと収まった。同行してきてくれた結慧さんが、俺は仙台駅構内で転倒して頭を打ち、記憶喪失になっていたのだということにしてくれたからだ。
二週間の途中の足取りは分からないが、ともかくも俺は記憶喪失のままで大間までふらりとやってきた。そして、結慧さんが俺を発見して保護し、身元を調査しようとしたところで、うまい具合に記憶を取り戻すことに成功したので、こうして仙台に連れて帰ってきたのですという事に結慧さんはしてくれた。
少々苦しい説明ではあったが、結慧さんの高校教師という肩書きが、周囲を納得させることに成功した。
こうして、騒ぎはゆっくりと収まり、俺は再び元の生活に戻っていった。
元の暮らしにもどってからも、時間は少しずつ進み、年がかわり、春になった。
あんな、誰も体験できないような経験をしたのだから、これからも俺には特別なイベントが満載かと思いきや、残念ながらそんなことは全くなく、俺は以前と全く変わらない暮らしを歩んだ。
結慧さんとはケータイでちょくちょく連絡を取り合うようになっていて、時々結慧さんが仙台に遊びに来るたびに俺とも会うようになっていた。
実を言うと仙台に戻ってからというもの、結慧さんのことが気になりはじめていて、いつか思い切って好きですと告白してみようと思っているのだが、それはまた別の話ということにしよう。
そんなある日、結慧さんからまた連絡があった。また、仙台に遊びに来るという。
約束の日に、仙台駅へ行き、八戸からの新幹線を駅の2階で待つことにした。
結慧さんが新幹線のホームから階段を降りてくるのを待ちわびていると、果たして、結慧さんが手を振りながら降りてくるのを見つけた。
その傍らには、一人の赤ちゃんを抱いた女性の姿があった。
小石川みどり。それが、その人の名前だ。