相逢(おめにかかる)
夏の空に黒い雲がかかり、夏らしくない強い雨が訪れた。
雨は海峡に深い靄の壁を作り、海を隔てた向こう側の景色をすっかりと覆い尽くした。
雨は大間の町じゅうの道という道に小さな小川を作っては、排水溝の中に何時までも流れ込んでいく。人通りの途絶えた街は不思議と静まり返って、雨の音と、時折聞こえる誰かの車の音以外、何も聞こえない。まるで、海の底深くに沈み込んでいくかのようだ。
こうして熱にうなされて意識の波を漂っていると、不思議に感覚が鋭くなることがあって、街中の全てを掴む事が出来るような気がすることさえある。身体の自由が、利かないせいかもしれない。
街中を見渡せるくらい研ぎ澄まされた感覚が、一瞬だけ何かを捉えることがあった。
街のどこかを、誰かが歩いている。迷っているように、悩んでいるように。
次第にそれが誰なのか、少しずつ輪郭がくっきりと浮かんで、分かってくる。
ああ。あれは、おれだ……。
* * * * *
小さな女の子は、くすんくすんと鼻を鳴らしながら、泣いていた。
『ほら、泣くな泣くな。あともう少しの辛抱だぞ』
『だって…だって…』
俺は、女の子の頭を優しく撫でてやった。撫でてやると、女の子は涙目のままで顔を上げた。
『ママ、来なかった……。』
『そうだな……。来なかったな。でもな、ママにはママの大事な用事があったんだ。許してあげよう、な?』
『……』
『うん?』
『ごめんなさい……。わたし、ママに産んでほしかっただけなのに』
『……』
『だからあの時、一度私が居なくなれば、ママもきっとさびしくなって…私の事考え直してくれるって、思ってた……』
俺は返事をする代わりに、涙声でしゃくる女の子を抱きしめた。
『そんなこと、お前が謝る事じゃない。俺がかわりになってやる。だから、な』
『生まれておいで』
* * * * *
「…そんなに悪いんですか? 原因は?」
「はっきりせん。いずれにしても、このままではこの子自身が危ない。わかるね、結慧ちゃん」
「…わかりました。とにかく、本人が起きてから話をします」
「それがいい。それじゃあ、あたしはいったん帰るからね。何かあったら、すぐに電話するんだよ」
「ええ。ありがとね、節子おばあちゃん」
ぼんやりした意識の中で、近くで誰かが話している声を聞いていた。
結慧さんと、もう一人はたしか、産婆の節子さんだ。
窓の外からは、強くも弱くもない、しずしずと泣くような雨の音が続いていた。
玄関のほうでは、二人が挨拶を一言二言交わした後、何かばさっという音が聞こえた。きっと、節子さんが傘を開いたのだろう。
その後、玄関の金属製のドアが重たく閉ざされる音がして、結慧さんが部屋に戻ってきた。
「結慧さん?」
「あ…よかった。起きた? 話せそう?」
「大丈夫です。今の話は……?」
「節子さんと話していたの。身体の状態があまりよくないから、病院に入院したほうがいいって。だから、これから入院の手続きをするわ」
「…わかりました」
「準備は私が全部するから、あなたは気にしないで、ゆっくり休んでいてね」
そういうと、結慧さんは部屋を出ていった。入院するとなったら、色々とまた準備が要る。こんなことなら、大人しく函館か大間の病院に最初から入院したままでいればよかったと後悔した。手伝いたいところだけど、俺にはもう、手伝うだけの元気もない。
「……」
一日中ぼんやりとした意識のなかで、思考能力のかけらを少しずつ集めて、俺は考えていた。
俺のことを。この子のことを。この身体のことを。結慧さんのことを。そして、みどりのことを。
それで、何となく、みどりがどうして死のうと思ったのか、分かったような気がした。
みどりは、単に正太郎に裏切られただけで、死を選んだのではないのかもしれない。
大間に初めて来た時も、急に身体がだるくなって数日寝込んでしまうことがあった。今はもう、身体がだるくてほとんど動けないところまで来ている。
この身体は、おそらく何かの病気にかかっている。みどりは、その事を知っていたのだ。
病気に掛かった状態での出産は、かなり危険な難産になる。母体はおろか、子供さえも命の危機に晒されるだろう。
仮にどちらか片方が生き残ったとしても……。
それならいっそ、二人一緒に死んだほうが楽かもしれないと、そう思ったのではないか。
(冗談じゃねえ)
ああ、他にもう何もすることがないなと、俺は思った。やれる事はやったのだ。もう、みどりが来ても来なくても、今更どうでもいいじゃないか。
結慧さんにはよく考えろ、自分の人生を大事にしなさいと言われていたけれど、身体の具合はそんな当たり前のことさえ、許してくれそうにもなかった。
今はただ、この子を救うことだけを考えよう。この子が助かるのなら、その後は野にでも山にでもなってやろうと思った。
そうだ、きっとこれが母親というものなのだろう。今なら、俺にもそれが分かりそうだ。
その次の日も、悲しげな雨は止む事無く降り続いていた。
その日は、午前中から急に身体の具合がいつもにも増しておかしい事に気がついた。ようやく身体を起こしてみると、お腹が昨日よりもずっと張っているような感じになり、しかもお腹そのものが下に下がってきているような気がした。
(だるい……動けない……)
喉の奥が乾ききって水が飲みたかったが、身体がだるくて思うように起き上がれない。しばらく身体の様子を見ていると、急に腰の辺りから足の付け根にかけてが、重く痛んできた。痛みは、喩えれば遠くの地平線から少しずつ垂れ込める暗雲のように、少しずつ少しずつ強さを増していった。
しばらくその状態で痛みに耐えていると、やがて痛みは引いて、何でもなかった様に元に戻った。
(とうとう……か?)
これは、いよいよらしい。とうとうらしい。ついに、来るものが来た。
「おいおい、もう少し待ってくれてもよかったろ……。俺も結慧さんも、お前の母ちゃん探すのに頑張ってるんだぜ……。それとも……」
つい、ひとりごちる。
結慧さんを今すぐ呼ぶべきか、もう少し様子を見ていようかと逡巡しているうちに、またしても痛みが戻ってきた。
痛みは、引いては寄せる波濤のように、間隔を空け、繰り返し押し寄せる。痛みも、そのたびに少しずつ強くなっているように思えた。
「…はぁっ… …はぁ。 うー」
これはもう、結慧さんに助けてもらわなければ、どうにもならない。そうは思っているのに、身体が思うように動かないばかりか、声に出して結慧さんを呼ぶことすら出来なかった。全身から力が抜けて、どこかに行ってしまったかのようだ。
(どうせダメなら、いっそこの子と一緒に……)
無意識に、そんなことが頭のどこかを過ぎった。
その時、部屋のドアがかちゃりと開く音がして、結慧さんの足音が聞こえてきた。まるで天使のような足音だ。
「おはよう、身体の調子は大丈夫? 今、お粥を……」
「ゆえ、さん」
「! どうしたの? しっかりして。大丈夫? どこか痛いの?」
「ぐ……おなか……」
結慧さんのふちの赤い眼鏡がきらっと光り、結慧さんの顔色が変わる。
「分かったわ。すぐに助けてあげるからね。水を飲む? 今、持ってくるわね」
結慧さんは、俺の答えを聞くまでもなく、てきぱきと動き始めた。
ああ、この人に会えて良かったと、何度思ったことだろう。短い付き合いなのに、こんなに感謝した人はめったに居なかった。
それで結構かわいいのに、この人を独身にして放っておいている世の中の男どもはバカかもしれない。
俺が男なら、きっと放っておかないと思う。
しばらくして、部屋には節子さんがやって来た。節子さんはてきぱきと俺の様子を診断すると、ただちに病院に入院させるべきと判断した。
「あんたの事は病院には連絡してある。心配しなくても大丈夫だよ」
それからは、俺はだんだんと強くなる陣痛の波に耐えながら、二人が忙しく準備を進めるのを黙って見ていた。いつでも入院できるように、荷物などはあらかじめ用意されていたので、すぐに出発する準備は整えられた。
やがて雨をかき分けるようにして、家の前に一台のタクシーが姿を現した。車から降りてきた運転手は、いつだか俺と結慧さんを乗せて、大間を一緒に回ってくれた、あの人のよさそうなおじさんだった。
俺は結慧さんとおじさんに支えられながら、ゆっくりとタクシーに乗り込んだ。
* * * * * * * *
タクシーの中では、結慧さんも、節子さんも、運転手のおじさんも、一言も口を利かなかった。
皆、ただ黙って、後の成り行きを見守るしかないとでもいうように、押し黙っていた。
「結慧さん」
痛みから気を紛らわすために、俺は結慧さんに話しかけた。
フロントガラスの先に視線を向けていた結慧さんは、オレを見つめた。
「どうしたの? 痛む? 大丈夫?」
「いや、今は平気です。それよりも、頼みがあるんですけど」
「何?」
「これから俺にもしもの事があったら、その時は仙台にいる俺の家族に…」
「バカなこと言わないでよ!そんなことあるわけないでしょう?気をしっかり持ちなさい。ね?」
結慧さんは、そんなことは考えたくもないという風に、また視線を戻した。
だが、この身体がこれから始まる出産の負担に耐え切れるのかどうか、俺には分からなかった。みどりも、この正体不明の病に絶望して、この身体を見捨てて逃げていってしまったのだから。
俺は眼を閉じる。
思えばここまで色々な事があった。仙台駅でみどりと入れ替わらされ、少ない手掛かりを元に大間までやってきた。
慣れない身体に慣れない生活を強いられて辛い思いもした。けれど、結慧さんと二人で元に戻る手立てを探してきたこの数週間は、辛かったけれど、楽しかった。
後は、なるようになるしかない。もうどうなるものでもないけれど、なんとかこの子を無事に産んで、俺本人も生き延びてやろう。
身体がダメなら心で生きてやる。そう思った。
タクシーは、細い路地を通って、病院への最短のルートを進む。
「むっ!」
「!?」
その時だ。突然、ガクンという強い衝撃が身体を襲い、外を流れていた風景が急に止まった。タクシーが急停車したのだ。
「運転手さん、どうしたんですか?」
「いや、すみません。道路に人が…」
「人?」
言われて俺達は道路の先に目をやる。強い雨で道路は霧が掛かったようになっており、視界がよくないが、誰かが道の真ん中に突っ立っている。裏通りなので道が狭く、道路の真ん中に立たれるとすれ違うこともできない。
運転手さんがクラクションを鳴らすと、その誰かはゆっくりと車のほうへと歩み寄ってきた。
「男の子…?」
「この辺じゃ見ない子だね?」
「ちょっと! 危ないから、脇にどけてくれ!」
みんながそういうが、その人物は意に介さないように歩み寄ってくる。
やがて、その人物の顔がはっきりと見えた。
「あ…あ…!?」
そこに居た人を、誰が見紛うだろうか。
そこに居るのは、なんだか懐かしい顔をした、何週間も夢に見るほど追い続けた人物だった。