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回磴(ぐるぐるとのぼるいしだん)

「ただいま。起きてた? 入るからね」

ドアをノックする音と結慧さんの声で、俺はまどろみから目を覚ました。

結慧さんに目をやると、部屋に入ってきた彼女の両手は、パンパンに膨れたコンビニの袋でふさがっている。

ここは、結慧さんの家の一室だ。大間で暮らす充てのない俺のために、結慧さんが空き部屋を用意してくれたのだ。

食事などの身の回りの世話は、結慧さんがしてくれた。さすがに着替えやトイレなどは自分でしたけれど、妙に気恥ずかしかったのは最初だけで、後は体調が悪かったのでそんなことは気にしていられなくなった。

もう、女の身体を見てもほとんど頭が反応しないのが、俺の中の健全な男子の精神を妙に苛立たせた。

俺は身体を布団から起こして、結慧さんを出迎えた。

「いつもすいません、世話してもらって」

「いいのよ。あなたも赤ちゃんも、みどりのせいで迷惑かけられてる事には違いないもの。残念だけど、私にはあなたの世話をするくらいしかできることがないしね。それより、身体の具合はどう?」

「……正直、かなりきついです。何をするにもすぐ疲れるし、何だかいつも眠くて……本を読むくらいしか、する気になれません」

「そう……」

「それに、胃がムカムカするし、お腹が空いてる気がするのに、何も食べる気になれないんですよ。食べたら食べたで、気分がものすごく悪くなるし、昨日なんか、気分が悪すぎて吐きました。俺、もうダメかもしれないっす……」

「赤ちゃんが大きくなって、子宮で胃が圧迫されてそうなるのよ。とりあえず、もっと一回の食事の量を少なくして、小分けにしましょう」

「俺、決めました。身体がもとに戻ったら、街中でみかけた妊婦さんには親切にしますよ」

「ふふ、いい心がけだわ。貴重な経験ができたわね」

妙に道徳めいた言葉を吐いたのは、そうでも考えないと辛くてやっていられないからだ。

「そういえば、その本は何?」

「あ、いざって時のために読んでるんです。ここに来る途中に買ってたんですけど」

「なるほど。妊婦さん向けの…か」

結慧さんは、俺の読んでいた本を手に取ると、パラパラと捲って中身を読み始めた。八戸の駅の本屋で買った出産と育児の本だ。


函館から大間の街に戻ってから、もう既に二週間が過ぎていた。

その間、ただじっと吉報を待って休んでいるというわけにはいかなかった。俺の入っているみどりの身体の中には、赤ちゃんが居る。不思議な力を使って、俺をここまで導いてきた、赤ん坊だ。

あまり考えたくない事だが、みどりがもし大間に戻ってこないか、あるいは何処かで俺の身体に入った状態で発見されなかったとしたら、その時は俺が代わりにこの子を産むより他ない。その時、はたして俺がどうなってしまうのか、想像するのも怖い気がするけれど、せめてこの子の命だけは、どうやっても救ってやりたいと俺は思っていた。

もちろん、元々男の俺や子供のいない結慧さんだけでどうにかなるような事ではなかったから、俺は結慧さんに頼んで、古くからこの地域で産婆をやっている節子さんという人に、協力を依頼した。

この節子さんはもう90代にもなろうかというこの道70年の超ベテラン産婆さんで、結慧さんやみどりを取り上げたのもこの人だということだった。

幸い節子さんは俺達の依頼を快く引き受けてくれた。しかも、俺を取り巻いている色々と説明しにくい事情についてはあまり深くは詮索しないでおいてくれたので、俺達は安心していざという時の事を任せることができるようになった。

それだけでも、随分心強くはなったはずなのだが、それでもやはり恐怖を拭い去ることは出来ないらしい。

「一応、色々覚えようと努力してるんですけど」俺は本を片手に言った。

「けど?」

「うまく言えないんですが…全然頭に入らないんです。なんていうか……頭では分かってるつもりなんですけど、現実味がまるでなくて、こんなすごい事をやるだなんて」

「ふふ…そうよね。あなたはホントは、高校生の男の子だものね。女だって簡単に出来る仕事じゃないもの、あなたが出来なくても当然よ。私だって、正直、自分だったらどうすればいいのか分からないと思う」

「女の人でもそういうものなんですか?」

「うん。特に私は、縁もないしね。ショウちゃん…正太郎と別れてからは、すっかりそういう事に臆病になっちゃって、恋愛もしなくなったしね。仕事一筋の、カターいお局様みたいになっちゃった。失敗しちゃったな」

「そんな…」

そういって苦笑する結慧さんの表情は、とてもやわらかくて綺麗だった。最初に話をした時は氷のように冷たそうな女の人に見えたけれど、話をしてお互いを知るについて、結慧さんがそんな冷たい女性ではないことが分かってきた。

結慧さんは、友達思いで、どこまでも親切で優しい人だ。結慧さんが俺のことを信じて親身になって味方になってくれていなければ、俺は今頃大間崎で途方にくれていただろう。

それに何より、こうして微笑んでいる結慧さんは、結構可愛かった。俺からすれば10歳以上違うけれど、そんなことは全然気にならないくらいだ。

「なんだったら、身体が戻った後に俺と付き合いません? 結慧さんキレイだから、俺結構気に入っちゃったかも」

「えっ!? きゅ……急に何言ってるの!? か、からかわないでよ、みどりの顔で言われたって全然説得力ないっていうか……コホン、ま、まあ、本当の君がカッコ良かったら、考えてあげるわよ。少しだけね……こんなオバさんでよければ……うん」

わざとからかってみると、頬を少し染めた結慧さんはやっぱり可愛くてキレイだった。


「ところで、結慧さん。一つ、お願いがあるんですが」

「何? 私に出来る事なら」

「結慧さんとみどりさんがここに住んでいた時に、よく行っていた場所とか、思い出深い場所があったら、そこに連れて行ってくれませんか。みどりさんの事がもっと何か分かればと思うんですが」

「いいけど…。でも、起きても平気?」

「大丈夫です。少しは運動もしないと、身体に悪いし」

「そうね。今日は少し雲が出て涼しいから、外に出るなら今のほうがいいかもしれない。でも、くれぐれも無理はしないようにね。気分が悪くなったら、すぐに言いなさい」

「分かりました」


* * * * * * * *


結慧さんがまずはじめに連れて行ってくれたのは、結慧さんとみどりが通った高校だった。

高校は大間の市街地から少し外れたところにあって、海がよく見えるところに建っていた。中学と高校が併設されていて、二つ合わせた敷地は随分と広かった。

今日は週末ということもあり、校門は閉ざされていて、生徒はグラウンドで部活をしているくらいしか姿が見えない。

「ここに、みどりと結慧さんが通っていたんですね」

「そう。私は、今はここで働いてるの。入ってみましょう」

結慧さんに従って通用門を通り校舎の中に入ると、中はしいんとして静まり返っていた。学校なんて、普段は面倒くさい場所でしかないけれど、休日の学校は誰も居ないせいなのか、穏やかで居心地のいい空気が流れている。あまり古くもなく、新しくもない校舎だ。

結慧さんは階段を登って廊下を渡り、三階の教室に俺を招き入れた。

「ここが、私とみどりが授業を受けていた教室。それと、今は私が授業をしている教室でもあるの」

教室の中は、俺が毎日通っている学校の教室と、それほどの違いはなかった。誰かの上着が置きっぱなしになっていたり、誰かが置き去りにしたままの教科書が机の中に放り込まれ、教室の隅には、漫画本や雑誌やらが、こっそりと積み上げられていた。

「普段は授業をする立場だから気にも止めないけど、元生徒っていう気分で来ると、何だか懐かしいわね」

結慧さんは、高校生だった頃を思い出すみたいに、教室の椅子に座って、机に両腕を投げ出した。

「ここ、私の机だったの。それから、その前がみどりの机だった」

俺は促されるように、結慧さんの前の席に座った。

「こうしてると、色々思い出しちゃうな。みどりと一緒に授業を受けて、休み時間にはくだらないお喋りなんかして。学園祭の準備で泊り込んだりもしたわね」

結慧さんが、眼を細める。その眼に映っているのは、きっと制服姿のふたりの思い出だろうと思った。

ほんの何年か昔は、それがふたりの日常の風景だった。

「屋上に、行きましょう」

結慧さんに手をとられながら、俺は屋上への階段を登った。階段を登るだけで息が切れて苦しくてヘトヘトになる。

それでもなんとか結慧さんに引っ張ってもらって暗い階段を登りきると、南京錠の掛けられたドアにたどり着いた。ドアには錆が浮いている。

「私の事件があってから、屋上は普段は閉鎖されることになったの。昼休みの屋上の風景を今の生徒に見せられないのは、何だかつまらないんだけどね。最近の生徒は昔に比べておとなしいから、私は開けてもいいと思っているんだけど、事故があってもいけないから」

結慧さんが南京錠に鍵を差し込んでクルリと回すと、カチリといって南京錠は以外と簡単に外れた。

「まあ、私はたまに来てる訳だけど」

「職権濫用っすね」

「ふふ。そうね」

ドアが重たい音を響かせながら、ゆっくりと開いた。

曇り空の隙間からは、少しずつ晴れ始めた青い空が見えはじめている。

屋上には、落下防止用の背の高い柵が設けられている以外には、何もない。俺と結慧さんは、柵に凭れ掛かりながら、言ってみれば殺風景なその場所を、ただ黙って見つめていた。

ここで、結慧さんはいじめに遭って大怪我をし、みどりに助け出された。みどりに助けられなければ、結慧さんは死んでいたかもしれないし、結慧さんをいじめていた連中も、みどりが居なければきっと人殺しになっていたかもしれない。

けれど、そんな事件がここで起こっていた痕跡など、ここには微塵も見当たらなかった。校舎は何も語りはしない。もう、事件の事を思い出す人も、ほとんどいないだろう。

みどりも、事件を忘れてしまっただろうか。この学校で過ごした思い出は、残っていないだろうか。

「学校は、楽しい?」

「えっ?」

ふいに問いかけられたそれは、「俺」に対する言葉。

「いや…別につまらなくはないけど、そこまで楽しいってほどでも。友達とバカやってるのが楽しいくらいで、毎日ダラダラしてるだけで、何もやりたい事もないし…多分、フツーです」

「そう。そうよね、そんなものよね。高校生なんて」

結慧さんは、足元に目線を落とす。

「失った時間は、購えないの……」

「……」

二人の間の沈黙を、爽やかな風が結んでは、かき消していく。

「少し、晴れてきたわね。あまり外に居たら、身体に悪いわ。そろそろ行きましょう?」

「はい」

そういって、柵から離れて扉に向かおうとした時、扉が控えめな音を立てて、きいいと開いた。

「あれ…ゆえせんせー?」

「結慧先生? …あ」

扉の向こう側から現れたのは、私服姿の二人組みの女の子だった。この学校の生徒らしい。

「あら、あなたたちは確か3年A組の…どうしたの、こんなところに入ってきて」

「ご、ごめんなさい! 私達、その、いつもここで景色を眺めてて…今日もここでお昼寝しようかとー…」

「入っちゃいけないのは、その、分かってたですが…」

「あら、そうだったの。…そう、合鍵は用務員さんにね…」

二人は最初は怒られると思ったらしくびくびくしていたけれど、結慧さんが優しい表情で話をしていたので、やがて笑顔になった。

もしかすると、学校では結慧さんは厳しい先生なのかもしれない。案外恐れられているかも。

「まあいいわ。ただし、鍵はちゃんと掛けて、きちんと用務員さんの所に返しておくように。あ、外に持っていかないようにね。それから、危ないことは絶対しないように。それさえ守ってくれれば、内緒にしておいてあげる」

「「あ、ありがとうございますー」」


「そういえば、いいんですか? 校則違反」

「ちゃんと使ってくれればいいの。あ、内緒にしといてね」

二人を屋上に残して外に出るとき、結慧さんは微笑みながらそう言った。

きっと、結慧さんの目には、昔の自分達の姿が写っていたのだろう。


* * * * * * * *


それから、結慧さんはタクシーを使って、俺を大間の街中のいくつかの場所に案内してくれた。

子供の頃からよく遊んだという、郊外の何もない野原。学校まで毎日通った通学路。

みどりの家族の漁船が出港する様子を、二人で眺めた漁港の片隅。

二人でよく遊びに行ったという、小さなゲームセンターとカラオケボックス。二人で泳ぎに行った浜辺。

二人で大学受験に取り組んだ図書館、公民館……。

一つの場所に着く度に、結慧さんは俺に、そこでみどりの思い出を丁寧に語って聞かせてくれた。

そこには、みどりという一人の人間の記憶をとどめるようなものは、何もなかった。

俺には、それが妙に悲しかった。みどりの身体がここにあって、みどりの赤ちゃんがいて、結慧さんも居て、この街は今も変わらずにここにあるのに、肝心のみどりだけは、どこにもいなかったから。

もちろん、そこに住んでいた人の事など、町の様子を眺めたところで分かるはずはないことは分かっていた。こうして街を廻ってみたのは、少しでも何かしたかったからだ。何もしないのは嫌だった。


「陽が傾いてきたわね。次で、お終いにしましょう。運転手さん、海岸沿いの道を南に走ってください」

「はあ、わかりました」

奇妙な二人組みに大間の町中を連れ回されたタクシーの運転手さんは、最初こそ不振そうな眼で訝っていたが、今はもうすっかり諦めたらしく、言われるままにタクシーを走らせていた。

やがてタクシーは海岸沿いを走りながら、大間の郊外に出た。

「どこに向かってるんですか、結慧さん?」

「あら、あなたも知ってるはずよ」

「俺、いや、私がですか? このあたりは…」

どこかで見覚えがある光景だった。そう、つい最近見たことがある。

「少しだけ歩くからね。足元に注意して。運転手さん、少し待っていていただけます?」

「ハハハ、ここまでくりゃあ、お好きなようにどうぞですな」

白髪交じりの初老の運転手さんは、カラカラと笑って、タクシーにもたれかかって一服し始めた。

「行きましょう。すぐそこよ」

結慧さんに連れられて海岸沿いを少し歩くと、俺はすぐ、そこがどこだか分かった。

波しぶきのよく似合う急峻な崖線に、あの忌々しい建て看板が寂しげにぽつりと立っている場所。

ここは、俺がこの旅の終着点だと思っていた、あの場所だった。

「ビニールシートを持ってきたわ。少し、そこの木陰に座りましょう」

結慧さんは、目立つ色をしたビニールシートを勢い良く広げると、手際よく四隅を石で留めて、その上にちょこんと座った。俺も、その横に息を切らしながら座る。この身体では、座るだけでも疲れてしまう。

そうして、俺と結慧さんは海を眺めた。陽は傾き始めて、地平線の先に少しずつ落ちていこうとしている。

その手前には、“いのちの電話”という言葉で始まる悲しい建て看板が、ぼんやりと影を作っていた。

「結慧さん。どうして俺をこんなところに?」

「……ここはね。昔は、自殺スポットじゃなかったの」

「え…?」

「私達が高校を卒業するかしないかの頃、ここで飛び降り自殺が起きたの。何処の誰が、何が原因で、どうしてここで自殺をしたのか、今となっては分からない。衝動的にしたのかもしれないし、計画的だったのかもしれないし、単にここが綺麗だったからなのかもしれない」

「じゃあここは、昔から何か特別な因縁があるとか、幽霊話とかがある土地じゃないってことですか?」

「そうよ。分かっているのは、その頃から、数年にわたって、ぽつぽつとここにやってきては、飛び降りて死んでいく人が出たということだけ。それでも、今までに二桁を超える人数の人がここで亡くなった」

そういう話は、俺もどこかで聞いたことがあった。

昔、東京のどこかの団地では、飛び降り自殺が起こり、それにつられるように大勢の人がそこで自殺をした。自殺者の亡霊が更なる自殺者を引き寄せているのだと、まことしやかに囁かれた。

ところが、団地中に柵という柵が取り付けられて飛び降りが出来なくなり、他にも簡単に飛び降りられる高層団地が東京中に山ほど建てられるようになると、自殺は起きなくなった。

今ではもはや、そこが自殺の名所だったことなど、今はもう忘れられかけているという。

「でも、ここはそんな場所じゃないの。私とみどりも、よくここに来てたのよ。この場所が自殺スポットなんて言われる前だった。ここに来て綺麗な夕日を見ると、いつもまた頑張れる気がしたわ。イジメられてる時だって、ここから夕日を眺めていると、また生きる気力が沸いてきた。みどりと一緒に、憧れの都会に出ようって誓い合ったのもここだった。ここはそういう場所なのよ」

「そう、だったんですか」

俺は、あの悲しげな看板に眼をやった。思えばこいつだって、ここと、この場所に迷い込んできた人を助けるためにここに建っているのだ。

「ひどい話だと思わない? 人の思い出の場所を、知らないうちに勝手に自殺スポットにするんだもの」

「でも、それじゃあ、みどりさんは? そんな場所なら、みどりさんだって、死にに来たわけじゃないんじゃ……」

「分かってる。私だってそう思ってる。きっと死にに来たわけじゃない。……でも、わからなくて……みどりが、どこにもいないから……」

結慧さんの声色が、かすかに震えていた。

「……」

「ねえ。もしも赤ちゃんが産まれた後、それでもみどりが見つからなかったら、あなたはどうするの?」

結慧さんの言葉に、遠くで波が砕ける音が被さる。

「……この子を産んだ後に」

紡がれたのは、未来を問う言葉。

大間に戻ってきてからというもの、俺と結慧さんは、この子が産まれた後どうするかという事は、あまり考えないようにしてきた。その前にみどりさえ見つかれば、それで全ては元に戻る。それでいいはずだった。

けれど、大間に戻ってきてからの二週間、俺と結慧さんは何の手掛かりも掴めなかった。

もちろん、ただ指を咥えて黙って待っているわけではなかった。結慧さんも俺も、あたれるだけの伝をあたり、みどりの目撃情報を探した。身体のせいで動きまわることのできない俺に代わって、結慧さんは休日を潰し、学校に休みをもらって仙台にまで行って、八方手を尽くして調べてくれた。

全国版の新聞の朝刊の片隅には、結慧さんが決して安くない料金を支払って尋ね人広告を載せてみることにした。けれど、連絡先に載せた電話番号にはイタズラ電話の一つもかかってこない。先週からは、とうとう興信所にも調査を依頼したが、興信所からも有力な情報はまったく寄せられていなかった。


「その子を産まれたら……あなたは、仙台に帰ったほうがいいんじゃないかって思うの」

「そんなこと、出来ないですよ! それに、俺が居なくなったら、この子はどうするんですか?」

「なら、あなたはこの子を育てられる? 頑張ってこの子を産んだとして、それからその先何年も何十年も、あなたはこの子を育てるの? 本当のあなた自身の何もかもを犠牲にして? そんなことができる?」

「……」

俺のお腹のこの子が産まれてくるまでに、もうほとんど猶予は残されていないだろうことを、俺は体調の変化から、何となく感じていた。それに、産んだからといって、それで済ませられるわけじゃない。その後もずっと続く生命に対して、誰かが責任を負わなければならないのだ。

「あのね、私が言いたいのは、あなたが自分の事を忘れていやしないかって事なの。これは、元々みどりの問題なのよ。もちろん、あなたが手伝ってくれているのは嬉しいわ。でも、あなたにだって、これからのあなたの人生がある。こんなところで、みどりのバカに付き合う必要なんてない。自分の事を第一に考えてほしいのよ」

「……」

「ううん、その身体で仙台に帰っても、たぶん元の暮らしには戻れないかもしれない。でも、ご両親に会って真剣に何もかも打ち明ければ、もしかしたら分かってくれるかもしれないわ。もしそれがダメでも……せめて、あなたは10歳年上の女の子になっちゃうけど……赤ちゃんやみどりの事は忘れて、好きな場所で一人で自由に暮らしたほうがいいと思うの。それが、みどりがあなたを巻き込んだ、せめてもの罪滅ぼしになると思うから……」

結慧さんが、俺の事を本当に心配してくれているのが言葉の隅々から伝わってくる。

俺は、確かに自分の事はあまり深く考えないようにしていた。直に戻れると期待していたのと、元の身体に戻れなくなるような未来など考えたくないというのが、半々くらいの気持ちだった。


俺は、夢の中で言葉を聞いた。ママに会いたいと、この子は願っていた。

俺はこの子のママじゃない。けど、俺の身体はまぎれもなく、この子のママだ。

確かに、俺は元の日常に帰りたい。帰って、また学校でつまらなくも楽しい日常を送りたいと思っている。

全然自分と関係ないこんなことで、自分の人生をフイにするなんて、バカのやることだ。

だが、本当のママが居なくなり、その上身体だけのママさえも居なくなってしまったら、この子はどう思うだろうか?

見ず知らずの俺を最後の頼みにしたこの子を、俺までが裏切ってしまったら、この世界に誰がこの子を守ってやれるだろうか?

結慧さんか? 確かに結慧さんなら、きっとこの子をちゃんと守って、育てていってくれるだろう。

けれど、俺は本当にそれでいいのか──?


「考えておいて。まだ時間はあると思うから」

「……」

「そろそろ、帰りましょう? 陽が沈めば、夏でも冷えるわ……」


 * * * * * * *


その日の夜から、俺はまた体調を崩し始めた。

体中に鉛の分銅でも括り付けられた様な重たい身体で、朝ともなく昼ともなく、俺は寝ているとも寝ていないとも付かないまどろみの中をぼんやりと彷徨う様になった。

その頃、俺が大間崎で会ったおばあさんが、この辺では見ない顔の高校生くらいの少年が、街角を歩いているのを見かけた。

けれど、おばあさんが次に見た時には少年はもう居らず、おばあさんはそれっきり、少年の事を忘れてしまった。

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