岨道(そはみち)
「……結慧さん。日下部正太郎さんに連絡を取ってくれませんか」
その言葉に、結慧さんは瞳を俺から逸らすと、また窓を向いた。
「……そうね。分かってたけど、あんまり、連絡したい相手じゃなくて」
「すみません」
「わかってるわ。けど、少し時間がかかると思う。正太郎の携帯の番号は携帯のメモリには残してないし、番号自体変わってるかもしれないしね。仙台に居る友達伝いに聞いてみないと」
そういいながら、結慧さんは携帯を操作しはじめた。
「それじゃあ、俺は調べてみたいことがあるので、公衆電話で電話してきます」
ゆっくりと立ち上がると、脚は少しフラフラしたが、何とか立ち上がることが出来た。お腹の重みが再び増したように感じる。
「何処に掛けるの?」
「また、警察に掛けてみるんですよ。もしかしたら、眠っている間に、どこかで俺が保護されてるかもしれないし。ダメ元で東京とか大阪の警察にも掛けてみるつもりです」
結慧さんが、俺を見つめる。
「そう。……ね、まだ話していなかったけど、貴方が大間のあの自殺スポットで倒れていた時、私がどうしてあそこにいたのか、分かる?」
「! そういえば……」
結慧さんは、俺が昏倒した後、図ったようにあの自殺スポットに現れて、俺を助けてくれた。どうして、結慧さんにそんな事が出来たのか、俺は分からなかった。
「私の実家に、電話があったのよ」
「電話?」
「”大間の海岸にある自殺スポットに、誰かが行くかもしれないから、その人を助けてやってほしい”ってね。ボソボソ声の、変な声で」
「助けろ? 俺を? ……それって」
「声が小さくて、男か女かもよく分からない電話だったから、貴方の話を聞くまでは分からなかった。でも、あの声は多分…」
「……俺、か」
結慧さんの瞳の中に、小石川みどりがいる。
それは俺であり、俺でない。
「たぶん。だから、私はみどりは生きて、まだどこかにいると思う。仙台かもしれないし、東京にでも行ってしまったかもしれないし、もしかしたら大間に来たかもしれない。けど、生きていると思う」
そう言い切った結慧さんの言葉は、全く根拠のないものではあったけれど、強い確信に満ちているように、俺には思えた。
「どうして、そう思うんですか」
「……みどりだから。私を助けてくれたみどりだからよ。みどりが赤ちゃんを道連れにしてまで死にたいなんて思うなんて、私は信じたくないし、信じられない。みどりはそんな人じゃない。…だから……」
結慧さんの瞳の中の小石川みどりは、確かに生きて、そこに居た。
「だから、みどりが本当に死ぬつもりなら、死にたいなんて思った理由があるなら、それを突き止めて、みどりを助けたいの」
「もちろん、俺もそのつもりです。何もかも元に戻しましょう。俺も、この子も、みどりさんも、何もかも」
俺と結慧さんは、どちらともなく強く握手を交し合った。
皮膚越しに伝わる結慧さんの少し高い体温が、心細い旅路の最中の町の灯りのように思えた。
「みどりの財布はそこの棚の中。公衆電話は、病室を出て左の角のコーナーにあるから。それと実家の方には、またそれらしい電話が掛かってきたらすぐに連絡するように言ってあるから、心配しなくていいよ」
病室を出た俺は、通路奥にあった公衆電話の方へと行くと、まずは104に掛けていくつかの県の県警の電話番号を調べた。
そして、俺はまたしても高校のクラスメイトが情報収集している風を装って、宮城や周辺の県、それから東京や大阪の警察に問い合わせた。けれど、俺らしき仙台出身の男子高校生が保護されたという話には行き着くことはなかった。そしてもちろん、それらしい身元不明の死体が発見されたという話にも。
「……小石川みどりは、まだ生きている」
それはまったく根拠のない希望論だったけれど、俺はそれを信じることにしていた。
みどりが本懐を遂げてもう死んでしまったと決め付けても、何の意味もない。
今、やれることをやる。それが俺のためであり、親友を信じる結慧さんのためであり、そして何よりもお腹に居るこの子のためになるはずだ。
俺はそう心に決めて、また病室に引き返した。
「……くそっ……」
身体が、異様に重かった。本当にこれは、妊娠によるものなのだろうか?
「そんなわけないわよ、バカ。じゃあ、ありがとね。また仙台に行くことがあったら連絡するから」
病室に戻ると、結慧さんは携帯の終話ボタンを押しつつ、俺を手招きした。どうやら、正太郎の連絡先が分かったらしい。結慧さんの話の中に何度か出てきた、あのサークル仲間の人に聞いてようやく分かったのだそうだ。
「あの子ったら、元ザヤ?だなんて聞くのよ。私はともかく、向こうが果たして覚えてるかどうか怪しいくらいなのにね」
結慧さんの皮肉交じりの言葉に、思わず苦笑いがこぼれた。
「こっちのほうは、ダメでした。俺が見つかったなんて話はないです。もともとカメラ写りが悪いからかもしれないですけどね」
「そう。それじゃあ、いよいよ正太郎に聞いてみるしかないようね。これ、付けて」
そういいながら、結慧さんは俺にイヤホンマイクのイヤホンを片方手渡してくれた。二人で片方ずつのイヤホンを耳に付ける。こうすれば、二人で正太郎の話を聞くことができる。
結慧さんはやがて、携帯電話のテンキーに、9桁の数字を静かに入力しはじめた。
* * * * * * * *
『っはぃ……もしもし……』
その眠たげな男の声は、恐らく15回くらいの呼び出し音の後に聞こえた。
もしもしと言い切るか言い切らないかの内に、こちらにまで伝染りそうな欠伸音がしたが、結慧さんはそれには構わずに切り出した。
「久しぶり、ショウちゃん。みどりの事で聞きたい事があるんだけれど」
『……ぁ? ……どちら様ですか』
「結慧」
はじめイヤホンの向こう側の呼吸がぐっと止まり、次第に向こう側の空気が変わっていくのが、面白いように分かった。
『……え……ユエ? マジで? 何で今の番号知ってんの』
「そんなの友達に聞けば分かるよ。それより、みどりはどうしたの?」
『みどり? みどりが何?』
「何じゃないでしょ。みどりはどうしたのって聞いてるの」
『はぁ……? えぇ? ちょっと、いきなりこういうの困るんだけど。何、マジで』
「あたしだって掛けたくなかったわよ……そんなことより、みどりはどうしたのよ」
正太郎の迷惑そうな声色に、結慧さんが少し苛立って急かす。その声に気圧されたのか、正太郎がその次の句を継ぐまでに、何秒か掛かった。
『みどりって……あいつとはちょっと前に別れたから、もう俺んとこにはいねーよ』
「何ですって? どういうこと?」
とたんに結慧さんの声色に、冷たい刃のような刺々しさが宿った。それを悟ったのか、正太郎が早口になってまくし立てる。
『どーいうったって……単にノリが合わなくなっただけだよ。それより、お前とそれと何か関係あんのか?』
結慧さんは正太郎の言葉には答えずに続けた。
「それで? それでみどりは、どうしたの」
『し、知らねえよ…。別れるって言ったら出ていっちまったんだよ。その後はケータイに掛けてもつながんねえし』
「そんな無責任な! ちょっと、ショウちゃん──」
『ねーえ、しょーちゃん、誰と話してるのーー?』
イヤホンごしの正太郎の声の向こう側から、いやに間延びした女の甘ったるい猫なで声が聞こえてきたのは、そのときだった。
結慧さんの顔色が、塗り絵みたいに蒼ざめていく。
『なんでもねーよ。昔のトモダチだよ、トモダチ』
『うそっ。女の子でしょ? ショウちゃん女の子と話してるとすぐわかるんだよー? ねえ、誰なのーっ?』
『い、いいから黙ってろって。あっち行ってろよ、な?』
次第に女の声が遠ざかって、ドアがばたんと閉じる音がした。
「日下部正太郎」
結慧さんは、元彼をフルネームで呼び捨てた。息を呑む音が、電話越しにこんなにもはっきりと伝わることを、俺は知らなかった。
『な、なんだよ…』
「正直に答えて。みどりのお腹には、あんたの子供が居たのよ? それなのに…なんなのよ、それは」
『……そ、それは……いや、それより、なんでそんな事をお前が……』
「はっきりしなさいよッ!」
『……こ、子供が出来て面倒臭くなったから……。俺は堕ろせっつったんだけど、あいつは言う事きかねえし、それで……』
堕ろせ、という言葉を聴いた瞬間、俺のお腹がどくんと疼いた。
「それで? それで、舌の根も乾かないうちに、その娘ってわけ?」
『も、もういいだろ、ユエ。今の彼女にいろいろ聞かれるとうるせえんだよ、嫉妬深い奴だし…』
「……みどりがどこに行ったのかは、ショウちゃんは知らないのね」
『ああ、そうだよ。でもあいつ、俺のとこに移ってくる前に自分のアパートは引き払ってたし、どこにも行くあてなんかねえよ。どっかでホテルにでも泊まってるんじゃねえの』
「そう。分かったわ。うん、もう二度と電話しないから、心配しないで。あ、それとね、ショウちゃん」
結慧さんは言葉を区切って大きく深呼吸すると、その次の言葉を放った。
「くたばりやがれ」
電話は、ブツリと切れた。
* * * * * * * *
「……」
「……」
正太郎の話で、事件の内容はおおよそはっきりした。
親友の結慧さんを裏切ってまで奪い取った恋人に、みどりは捨てられたのだ。
それを苦にして、自殺を図ろうとした。自分を捨てた恋人との間に出来た、呪われた子供とともに。
ありがちといえば、ありがちで。
最悪といえば、それこそ最悪で。
バカバカしいといえば、とことんまでバカバカしい話だった。
俺も結慧さんも、たっぷり数分間は何も喋らず黙っていた。二人とも、何も喋る気にならなかったのだ。
「あたしもみどりも、男を見る目がなかったみたい。馬鹿みたいよね」
どう笑っていいか分からない、というような笑いを浮かべて、結慧さんはようやくそう言った。
「なんで正太郎が好きだったのか、思い出せくなっちゃった」
「……」
瞳が揺れて、涙が一筋零れた。
「許せねえよ……」
「えっ?」
「勝手じゃないですか、どいつもこいつも」
「そう、そうよね……」
結慧さんが、俺のお腹をさすりながら、俯いた。
勝手な都合でバカな恋愛をした挙句に、両親から理不尽な死を要求された、この子。
生きるために、どこの誰とも知らない俺なんかを頼るしかなかった、この子。
気まずい沈黙の中で、俺と結慧さんは太陽が西に傾いていく様子を眺めていた。
時間はゆっくりと確実に無くなっていく。
みどりとの接点がなくなった今となっては、俺達に出来る事は何もないのかもしれない。けれど…。
「結慧さん、大間に戻りませんか」
「えっ?」
そう切り出したのは、俺だ。