風烟・中(もや)
「やめてっ! 痛いっ! 痛いよっ!」
「うるせぇ! あんたの顔見てるとマジムカつくんだよッ!!」
髪を掴まれて散々引き摺りまわされた後、私はお腹に蹴りを入れられて、地べたに転がされた。
視界が二転三転した後、憎たらしいほど青い空が眼に飛び込む。それを覆うように、醜悪な表情をした数人のクラスメイト達の顔が私を覗き込む。
ここは屋上。
誰も助けはやって来ない。
「何余裕な顔してんだよッ!」
また蹴りが入り、全身に鈍い痛みと鋭い衝撃が走る。
「なんとか言えッ!」
「……ペッ」
マキ(クラスメイト)の制服に、私はツバを吐いてやった。映画の真似をすれば最大限侮辱できるだろうかと思って試したのだが、マキは面白いように怒り狂ってくれた。
「アハハッ! マキ、メッチャ舐められてるッ!」
「ウッワ、キッタねーッ!」
「……こいつ、殺すッ!」
クラスメイトは私の髪を掴んで捻りあげると、今度は思い切り頭から床に叩き付けた。
受身も何もあったものじゃない。テレビのプロレス選手みたいに頭から地面に叩きつけられ、言い様のない吐き気と、鼻の奥にきな臭い匂いを覚える。私は意識を手放しそうになった。
「何寝てんだよてめぇっ! 起きろ!」
さっきまで耳元で煩く喚いていたマキの声が、随分と遠くに感じた。
私の様子がおかしくなったのを心配したのか、別のクラスメイトが「そろそろこの辺にしとこうよ」と制止する声も聞こえたが、マキはそんな事にはお構いなしに、私に暴力をふるいつづけた。
これは、ホントに死んでしまうかもしれない。こんなところで、こんなバカな事で死ぬなんて嫌だと思ったけれど、自分ではもうどうしようもなかった。
その時、誰かの声が聞こえて、クラスメイト達が驚いたような声を挙げて遠ざかるのを感じた。散々に喚く声と、短い金切り声が響く。何度か大きな音と悲鳴が聞こえたが、やがてそれも静かになって、あたりには物音ひとつしなくなった。
「大丈夫ッ!? 今救急車呼んであげるからッ!」
突然、私の視界に飛び込んできた顔があった。私を抱きかかえる見ず知らずの女の子の顔。それが、みどりだった。
今からもう十年も前の話になるが、私の通っていた大間の高校は、それなりに荒れた学校だった。
家から近いから、ここしか無いからという理由だけで集まってきた生徒たちは中学と大して違わない顔ぶれ。これといって楽しみのない田舎の学校では止むを得ない事だが、生徒達は体とヒマを持て余すようにして暮らし、中にはたちの悪い不良になる人も少なくなかった。
かくいう私もその中で暮らす一人だったが、私は将来は都会の大学に出て、都会っぽい暮らしをしたいという密かな夢を抱いていたから、友達もろくに作らず、ひたすら勉強ばかりして毎日を過ごしていた。
そのせいで、勉強ばかりしているガリ勉女だと思われたのが、イジメの原因だったのかもしれない。高校生活の一年目がようやく三分の二くらい過ぎようとしていたころ、私はクラスメイトの女子のグループから、頻繁にイジメの対象にされるようになった。マキというクラスメイトのグループだ。
机に悪戯をされるところから始まった嫌がらせは、やがては靴がなくなり、教科書を引き裂かれりようになり、ついには水泳の授業中に着替えを盗まれるまでになった。けれど、友達もおらず一人ぼっちだった私は、学校の中で助けてくれる味方を作ることができず、ただただ耐えるしかなかった。
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「あの頃は、辛かったな。両親にもうまく打ち明けられなかったの。私、学校では優等生で通してたしね」
遠い目をしながら、結慧さんは函館の街並を眺めた。窓がどこを向いているのかわからなかったが、多分大間の方向なのだろうと俺は思った。
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私は極力無視して過ごすように努めたが、ある日とうとう我慢がならなくなり、マキが犯人だと分るような証拠を作って、先生にイジメを訴えることにした。マキ達が放課後や体育の授業中などに私の持ち物につまらない嫌がらせをしている所を、物陰からこっそり写真に収めてやったのだ。
その結果、マキ達は親の呼び出しを喰らい、両親同伴の席で、私の両親に向かって謝罪させられる事になった。イジメはそれからしばらくの間はぴたりと止んだので、私はこれでやっと平和になったと思っていた。
ところが、高校二年の夏のある日、私は突然マキたちに屋上に連れ込まれて、リンチを喰らうことになった。夏のよく晴れた日のことだった。
私は散々引きずり回された挙句、殴られ蹴られ、頭から床に叩きつけられて、頭から血を流しながら失神した。授業中で、先生たちは誰一人として気づかなかった。
マキ達はさんざん私を殴ったが、それが何発目か数えるのもいやになった時、そこにたまたま、みどりが現れた。
後で聞くと、みどりはその時授業をサボって昼寝をしようと屋上にやって来たらしい。そこでイジメの現場に遭遇し、私を助けるためにマキ達と大乱闘を演じた。そしてマキ達を一人でやっつけた後、意識をなくした私を助けるために、救急車を呼んでくれた。
勿論、突然救急車がやってきたものだから、学校は大変な騒ぎになってしまった。授業は生徒たちが大騒ぎになって中断し、先生たちも生徒を落ち着かせようと大騒ぎしていたが、みどりはそんな事にも構わず、ボロボロになった私とマキ達を救急車に乗せて、病院に連れていってくれた。
この事は、新聞やテレビでも報じられて、大間の小さな町の中では、ちょっとした事件になった。
私は幸い頭を縫っただけで済んだが、むしろ大変なのはマキ達やみどりのほうだった。みどりは私を助けるために、マキに腕や足の骨を折る大怪我を負わせていたからだ。ほかの数人も、似たようなものだったし、みどり自身もあちこち何針か縫う怪我をしていた。
当然の結果として、みどりとマキ達は数週間の停学処分になった。私は、みどりは私を助けるためにやってくれたんですと先生達に訴えたが、校内で暴力事件を起こした事に変わりは無いからと、みどりの処分が変わる事はなかった。
私はみどりが帰ってくる日を待った。
私は聞こうと思った。どうして怪我をして、おまけに停学処分なんて内申に傷が残るような事までして、私を助けてくれたのかと。同じ学校とはいえ、クラスも違えば、今まで一緒に遊んだことも話したこともない私を、どうしてそこまでして助けてくれたのかと。
数週間後に帰ってきたみどりは、頭を掻きながら、照れくさそうに呟いた。
だって、空の下は日向ぼっこする場所なんだからって。殴られたり蹴られたりするとこじゃないでしょ、って。
それが、二人の出会いだった。
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「それがみどりとの出会いだった。今でも、その時マキに怪我をさせられた頭の傷跡が残ってる。普段は髪で隠してるけど、ほら」
結慧さんはそういうと、髪を掻きあげて、頭に付いた傷跡を見せてくれた。髪に隠れていれば目立たないけれど、縦長に走る亀裂のような傷跡が、過去のイジメの苛烈さを偲ばせていた。
「みどりがその時に怪我をして縫った痕も残ってるはずよ。たしか、右の上腕とか、わき腹のあたりだったと思うけど」
服を捲って確かめると、確かにカミナリみたいな形の傷跡がクッキリと肌に残っていた。
「まあ、大仰にいえば、みどりは私の命の恩人だったってことになるのかもね。もし、あのままマキにいいようにされてたら、私はどうなっていたか分からなかったから」
「………」
「話を進めましょう」
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それ以来、さすがのマキ達も懲りたと見えて、私には一切ちょっかいを出してこなくなった。もっとも、それは私のそばにみどりが現れたからだったのかもしれない。いずれにしても、私はその後高校を卒業するまで、イジメに遭う事は一度もなかった。
その後、私とみどりはなんとなく一緒に過ごすようになった。一緒にテスト勉強をしたり、二人で部活動を始めた。函館まで泊りがけで遊びに出かけたりもした。一日中、あの屋上で授業をサボって日向ぼっこなんかして、先生に怒られた事もあった。
性格も趣味も違う二人だったけれど、寒々とした高校生活の中で、ただみどりと一緒にいる間だけは楽しくて、暖かい温もりが得られるような気がしたものだ。
それからしばらくして、私たちは進路を決めなければならない時期に差し掛かった。
私は三年になっても、都会の大学に行きたいという希望を変わらずに持っていた。何も決めていないというみどりに、私は一緒に都会の大学に出ようよ、と誘った。
この狭くて退屈な大間を抜け出して、誰も自分たちの事を知らない場所に行って、新しい道を見つけよう。私達は何だってできるんだよ。
家は貧乏だから、家業も継がなきゃいけないかもしれないし─そんな風に言って悩んでいたみどりを、私はそんな風に口説き落として、私達は春へ向かって歩き出した。やがて夏が過ぎて秋が去ると、長く厳しい冬は、私達を包んでゆっくりと暮れていった。
長い長い闘いの末に、私達が仙台の大学への片道切符を手にしたのは、木々がようやく萌え始めた、春のはじめの頃になる。