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酔夢間(ゆめすけでいるうちに)

「…ん…」

ゆっくり眼を開くと、目の前一面に白いものが広がっていた。

やがて頭が少しずつはっきりとしてくると、その白いものが天井なのだと分かった。俺はベッドに寝かされていて、石けんの清潔ないい匂いがする掛け布団が掛けられていた。

「ここは……」

どうやら、ここは病院の病室らしいと、俺は思った。

綺麗な白い壁と白い床。病室は個室サイズで、ベッドはひとつしかない。ベッドの脇に、小さなサイドテーブルと、その上に空の花瓶。背もたれのない小さなスツール。枕元には、細いケーブルに繋がったナースコールのボタンがある。

「!」

そうだ、お腹は? お腹はどうなった?

俺は慌てて掛け布団をめくって、自分のお腹を確認してみた。

「ああ…」

そこには、ちゃんと大きなお腹があった。生命の存在とその鼓動が、しっかりとお腹の中から伝わってくる。

「よかった…」

まだ居てくれた。心の底から、安堵のため息が漏れた。


しばらくベッドに横になったままで居ると、頭が次第にはっきりしてきて、行動する気力が戻ってきた。そこでまずはベッドから抜け出すと、窓から外の様子を確かめることにした。

自分がどこに居るのか、そこから知らなければいけない。

「うっ…!」

太陽の強い光に当てられて、俺は眼を細めた。太陽は、空の高い位置に佇んで、煌々と光り輝いている。

窓の外の街の景色も違っていた。見たことのない街並みは、仙台とも大間とも違う。大間よりもはるかに大きな街のようだった。

「……昼だって?」

記憶が確かなら、俺が崖のあの場所にたどり着いたときには、もう夕方になっていたはずだ。だとすると、あれから少なくとも一日以上は経っていることになる。

「おいおい、今日は何日なんだよ…」

病室の中を見回してみて、しかしカレンダーなど日付を確認するものが無いことに気づく。

「……」

自分の置かれている状況がはっきりとしないせいで、否応なく不安な気持ちに駆られる。

(とりあえず外に出てみるか?)

そう思った所で、きしむ音を立てて病室のドアが開く音がした。


「気がついたの!?」

振り向くと、そこには一人の女の人が立っていた。

年はこの体の持ち主と同じくらいだろうか。薄茶色のサマーニットのワンピースを着て、眼鏡をかけている。きりっとした顔立ちと、ウェーブの掛かった黒いロングヘア。眼鏡の向こう側からは、知性を感じさせる眼差しが、俺を捉えている。手には、花瓶に挿すつもりだったのか、綺麗な花束を持っていた。

「ちょっと待ってて。ベッドに横になってて。今、先生呼んでくるから!」

「あっ…」

そう言うが早いか、女の人は話しかける間もなく、病室を出て行ってしまった。


しばらくして、その人は医師の先生と看護婦さんを連れて戻って来た。先生は俺に幾つかの問診をすると、看護婦さんに命じて幾つかの検査を行った。持病はないか、出産の予定日はいつごろか、などと聞かれたが、正確なところは俺には知る術はないので、適当に答えるより他に無かった。

「君が眠っている間にも検査はしたんだが、とりあえず身体に問題はないようだ。経過を見たいからもう暫く入院しなさい。今は、お腹の中に赤ちゃんも居ることだしね」

先生はそう言うと、今日もまた後で検査があるからゆっくり休んでいなさい、と言い残して病室を出て行き、病室には俺と女の人だけが残された。


女の人は、花瓶に水を入れ、持ってきた花束を挿した。それから窓を開けて新鮮な空気を呼び込むと、ベッド脇のスツールに腰を落ち着けて、何も言わずに俺をじっと見つめた。

「…………」

「…………」

奇妙な沈黙が、部屋に漂った。

女の人は、ただ黙って、俺に一瞥をくれていた。その知的な眼差しの中に、冬の海の波飛沫の碧さのような、夏に似つかわしくない冷たい光が見えたような気がした。

「あ、あの」

「久しぶりね。どれくらい?」

「え?」

あなたは誰ですか、と聞こうとした俺だったが、彼女はそれに合わせたように言葉をかぶせてきた。

「最後に会ってから」

「……」

当然、俺にはそんなことが分かるはずもない。

「覚えてない、か。あんたらしいといえば、らしいね」

「…あの、ここは」

「ここ? …ああ、あんた、寝てたから。ここは函館。あんたが寝てる間に運んでもらったの」

「函館!? 一体どうして? 病院なら、大間にも…」

「一応、最初は大間の病院に運んだの。でも、赤ちゃんがいるでしょう。大間は産婦人科の先生が少ないんだけど、たまたま別の緊急の患者さんがいて手が回らなかった。それで、むこうの病院の先生と相談して、あんたには念のため設備の揃ってるこっちに移ってもらったの。朝一のフェリーを使ってね。それで、私はあんたの付き添いで来てる」

函館。とうとう俺は、本州を飛び越えて、北海道に辿り着いてしまった。

それも、気がつかないうちに…。

「何しろ二日も起きてこなかったから、もう目が覚めないのかと心配したわよ」

「二日!?」

その言葉に、俺は良くないものを感じた。いくら俺が妊婦で長旅で疲れていたといっても、二日も寝たままで一度も起きなかったなんて、おかしい。函館に運ばれる間にフェリーやら車やらで運ばれてもいたはずなのに、それすら気が付かないなんてことが、ありうるのか。

「………」

この身体に、何か異常が起こり始めてるんじゃないか?

元々が、見ず知らずの女の身体に、頭の先から爪の先まで何もかもが違うはずの男の俺が入っているのだ。何か不具合が起きたとしても、何の不思議もない。

思わず擦ったお腹の奥に居るはずの命からは、生きているという事以外、何も感じない。妊婦になってしまった今は、それが無限大の不安感になって広がってしまう。


それに、分からない事はもう一つあった。

(この人は…この人は誰なんだ?)

俺は、目の前に佇む女の人を見た。

何かおかしい。この人とは、会ったことがある気がする。窓を眺めるその横顔に、なぜか見覚えがある。その憂いを帯びた声色を、耳が忘れていない。

もしかして─この人は、この身体の持ち主の知り合いなんじゃないか。

「…あなたは」

「え?」

「あなたは、…誰ですか」

確かめないわけにはいかない。

俺の問いかけに、彼女は目を大きく見開いた。

「……私の事が誰だか分からないの?」

「…はい」

「はいって……。昔の親友の事ですら、これっぽっちも覚えちゃいないっていうの!? ……ヒドいわね、あんたって。助けなきゃよかった」

彼女の瞳の中にパッと赤い光が散ったように見えたのは、俺の気のせいではなかったと思う。

「ち、違うんです! うまく…うまく説明できないけど、とにかく記憶がないっていうか…何も分からないんです! 自分の…いや、自分じゃないけど、名前も分からないんです! 私は…いや、俺は…!」

「あんた…もしかして、記憶が…?」

彼女はスツールから立ち上がると、病室のドアを開けて廊下に飛び出した。それからまたすぐに戻ってきて、俺のベッドの上に何かを放り投げた。

「しっかりしてよ! 私はあんたの親友だった結慧でしょう! そうじゃなきゃ、あんたは誰だっていうの、みどり!?」


細長くて薄っぺらいそれは、この病室のネームプレートだった。


「…小石川…みどり…」


それは、やがて俺が永遠に忘れられなくなる、一人の女性の名前だ。

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