9. 真夏のランチ
空の宮市の北隣にある夕月市。細い林道を白いハッチバック車――永射わかなの自家用車がゆっくりと走っている。
「永射氏ー、本当にこの道であってんの?」
「さっちゃんに教えて貰った通りの道を行ってますよ」
運転に気を使っている最中だったので、声にほんの少し苛立ちの色が混じっている。何せ道は一車線ちょっとの幅しかなく、少しでも運転をミスすると事故になりかねない。
対向車が来ないか気を使いつつ、バックミラーも時折見やる。後部座席にふわふわボブヘアの少女、夜野ことりが不安げに外を見つめる姿が映っている。天寿研究所の見学会の最中に体調不良で倒れた武士沢研究員を助け、そのお礼としてランチに連れて行ってもらうことになったのだ。
ことりは「健康に良いものが食べたい」とリクエストしていた。わかなはデートスポットに使える飲食店であれば和食洋食中華問わずいろんな店を知っているが、健康に重きを置いた店は知らない。武士沢に至ってはファーストフード店か居酒屋でしか外食しないので論外であった。そういう訳で同僚の蝶茶韻理早智に何かいい店を知っているか尋ねたところ、夕月市にある完全予約制のオーガニックレストラン『だいち』を紹介された。
「マイ・スイート・ハニーとドライブデートがてらランチしに行ったけど大当たりだったわ。このエリート・アイに適ったレストランだから大満足間違いなしよ!」
と早智は胸を張ってのたまって、ご丁寧に店までの経路を教えてくれたのだが、果たしてこの道であっているのかどうかだんだんと不安になってきた。
「やたらとカーブが続くな。夜野君、車酔いしてないかい?」
「大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
武士沢がスマートフォンを取り出して、わかなに声をかけた。
「さっちゃんに電話しようか?」
「いや、その必要はないです。どうやらゴールが見えてきましたよ」
道路脇に『だいち この次の分岐路左折』の立て看板があった。その通り間もなく分岐路が現れたので、スピードを落としてハンドルを左に切った。
そこから目的地まではすぐであった。ログハウスが見え、そこには『だいち』の看板が掲げられていた。わかなは狭い駐車スペースに車を止めるとドアロックを解除し、マシになった腰痛を再々発させないよう慎重に下車すると、後部座席のドアを開けた。
「着きましたよ、お嬢様」
「お嬢様なんて、恥ずかしいですよ」
ことりの頬はほんのり赤く染まっている。
「よっ、さすがイケメン!」
「この子は今日のゲストなんですよ。丁重におもてなししないと」
武士沢の冷やかしに対してそう返したら、店のドアが開いた。
「ようこそ『だいち』へ」
応対したのはエプロンを着けた中年の女性である。「だいち」は夫婦で経営していると早智から聞かされていた。
「予約していた永射です」
「永射様ですね、お待ちしておりました。どうぞ中へ」
婦人に丁寧に案内されると、甘い木の香りが鼻腔をくすぐってきた。テーブルと椅子も木作りで、照明は天窓から採り入れた日光のみ。設計も自然をふんだんに活かしたものになっているようだ。
客はわかなたち以外他にいなかった。円形のテーブルに正三角形になる形で、三人は座った。
「本日のランチコースメニューはこのようになっております」
渡されたメニュー表には胡麻豆腐、季節の野菜サラダ、コーンスープ、アユの塩焼き、ローストチキン、デザート、コーヒーまたは紅茶、とある。
「当店の料理の素材は全て天然、無農薬となっております。人工調味料も一切使用しておりませんので、自然の味をお楽しみくださいませ」
女性はペコリ、と頭を下げて厨房に戻っていった。姿が見えなくなると、わかなはクスクスと笑い出した。
「私が人工調味料の開発の仕事をしていると知ったらどんな反応するんだろうね」
「人工調味料を作っていらっしゃるのですか?」
「そうだよ。第六研究室を見ただろう? 私と武士沢さんはそこに在籍しているんだ」
「第六……ああ、あの筋肉ムキムキのおじさんがいた食品研究室ですね。ニアチキの話が面白かったです。ニアチキには研究室で培ったいろんなノウハウが詰め込まれているって」
ニアチキはニアマートで販売されているフライドチキンで、揚げ物にも拘らず脂っこさが非常に少ないことに定評がある。
「揚げるのに使う油は、実は武士沢さんが開発したんだ」
おお、とことりが驚きの声を出すと、武士沢はニヤリと笑みを浮かべて親指を立てた。
「元々、大学で油の研究やってたんだよね。その経験が活きたってわけよ」
「なるほど。永射先生の方はどんな調味料を作られているんですか?」
「主に甘味料だな。ニアチキの甘だれ醤油味に私が作った、いや、正確には作り方を改良した甘味料が含まれている」
甘味料そのものは合成法が確立されていた。ショ糖の五百倍の甘さを持つものの後味がしつこく残らないが、合成の効率がかなり悪くて大量生産に向かず、商用に利用されてこなかったという経緯があった。しかしわかなは従来とは異なる新規合成法を開発し、高い効率で合成することに成功したのだ。今は小規模生産で天寿ブランドの食品に利用されているにとどまるが、近いうちに大量生産体制に入って食品メーカーに売り込みにかける予定である。
「ニアチキはまさしく天寿の技術の賜物、と言えるね」
ことりは大きくうなずいたが、
「正直、私は食べたことが無いので凄さがあまりよくわかりませんが」
「ええっ、夜野さんニアチキ食べたことないの!?」
今度は武士沢が驚いた。
「コンビニのホットスナックは食べないようにしているんです。健康に良いものではないので」
「よそのコンビニのフライドチキンよりもカロリー控えめで味もさっぱりしてるんだけどなあ」
「まっ、確かにコンビニの食品は栄養面、カロリーは二の次になりがちだ。そんなのばっかり食べてるとこの眼鏡のおねーさんみたいに倒れたりするわけだな」
眼鏡のおねーさんがムスッ、とした顔つきになると、わかなはいたずらっ子のようにクスクスと笑った。
「お待たせしました。胡麻豆腐でございます」
婦人が水も一緒に運んできたが、グラスの中に輪切りのレモンが浮かんでいる。
「無農薬栽培の葛と胡麻から採れた原料を使用しております。お水は地下水で、レモンは広島から取り寄せた無農薬栽培のものです。防腐剤も一切使われておりません」
「日本でも獲れるんですか? レモンって」
武士沢が尋ねたら、婦人は鼻で笑った。どこか馬鹿にしているような感じにも取れた。
「ええ。広島はレモンの産地として有名なんですよ」
「へえ~、輸入品ばっかだと思ってました」
「日本人が食の安全に対して敏感になったおかげで、最近は国産品がシェアを伸ばしているんですよ」
婦人は輸入レモンに使われるポストハーベストについて語りだした。人体にいかに有毒であるかを熱心に説き、健康志向のことりも熱心に耳を傾けていた。だがわかなはほとんど右耳から左耳へと聞き流しており、武士沢も恐らく同じような反応であったと思われた。
ポストハーベストは確かに毒性があるが、摂取量がごく微量であれば人体に影響が出ないことを科学的知識として知っている。逆に水だって大量に飲めば水中毒に陥ることもあるし、自然の湧き水と言っても細菌や寄生虫がウヨウヨしていることが多いものである。
わかなはちゃんと殺菌消毒しているのか気になったが、すぐに大丈夫だろうと結論づけた。もし危ない水であれば先日立ち寄った早智がとっくに腹を壊していて、店は保健所のお世話になっていたはずだからだ。
しゃべるだけしゃべって満足した婦人が厨房に戻ると、武士沢はパンッと手を合わせた。
「じゃあ、早速頂いちゃいましょー!」
頂きます、とわかなとことりも手を合わせた。早速胡麻豆腐に箸をつける。
「こいつはなかなかの弾力だな」
わかなが唸る。切り取った胡麻豆腐の一片を口に入れると、芳醇な胡麻の風味が口いっぱいに広がった。
「わ、凄いゴマゴマしてる!」
珍妙な表現をする武士沢に対して、ことりは普通に「美味しいです!」と顔を綻ばせた。
わかなは続いてレモン水に口をつけてみた。酸味を帯びた風味は市販のレモン果汁では味わえない独特の清涼感をもたらし、夏の暑さに苦しめられてきた体に染み渡っていく。
そして、わかなはグラスを持ったままの姿勢でピクリとも動かなくなった。
「あれ? 先生? 永射先生?」
「……」
「せんせー?」
オロオロしだすことりに、武士沢は心配ご無用、と声をかけた。
「永射氏は考え事をしているとフリーズしちゃうんだよ」
「考え事」
「そう。きっとレモン水の風味を再現できないか考えてるんだと思うよ」
実際そうであった。レモン味の清涼飲料水は数多く売られているが、味の良し悪しはともかくとしてこの全てが天然ものづくしのレモン水の清涼感を表現できているものはない。有名ラーメン店が監修したインスタントラーメンでも、店の味や食感を百パーセント忠実に反映できていないのと同じことである。
わかなは考え続けた。人工甘味料の新しい合成法を編み出したのも、考えに考え抜いたからである。クエン酸やリモネンの構造式が頭の中を埋め尽くしていたが、それにこだわらない新しい発想をとにかく追い続けた。
その間にことりと武士沢は胡麻豆腐を食べきってしまった。
「いやー、良いゴマゴマだったなー。ねえ永射氏?」
武士沢が尋ねたのは同意を求めたためではなく、固まったままであることを確かめるためであった。この悪い先輩研究員は後輩が返事しないと見るや、まだ一口しか手を付けていない胡麻豆腐の皿を掠め取った。
「永射氏は要らないみたいだし、私らではんぶんこしちゃおう」
「まずいですよ、勝手なことしちゃ」
ことりがたしなめたもののすでに箸でに切られており、片割れがことりの皿に移された。はんぶんことは言ったが実際は3:1ぐらいで、ことりに渡ったのは大きい方である。
「ことりちゃんは若いんだからたーんとお食べ」
「ええ……」
ことりはわかなをチラッと見たが、いまだに反応がない。
「レッツゴマゴマ~」
武士沢は無慈悲にも口に運ぼうとした。そのとき、わかなの眼球が急に動き、武士沢を睨みつけた。
「ひっ!?」
彼女が繰り出した箸は一瞬のうちに、胡麻豆腐を挟んでいた。いわゆる合わせ箸の格好である。
「ぶーしーざーわーさーん? 何してるのかな?」
「こっ、こらっ! 合わせ箸は火葬場でお骨を拾うときの箸の使い方だからやめろって親に言われなかったか!?」
許可も無しに胡麻豆腐を取りあげたことをすっかり棚に上げて非難してきたものだから、わかなはため息をついた。
「武士沢さん、あなたは来年から教育者になるんですよ? 学生に悪い見本を見せてどうするんですか」
「うっ……」
武士沢はことりの方を見ると、胡麻豆腐を手放した。さすがに良心が咎めたようだ。
「武士沢さん、先生になるんですか?」
「大学のだけどね。あ、夜野君は食べちゃっていいよ。君はゲストだから」
「私は別に……」
「こんなに美味しいものは滅多に食べられないよ。さっ」
数多くの女性をとろかしてきた王子様スマイルのおかげかどうかは知らないが、ことりは受け入れた。
「……それじゃあ、頂きます」
「ゴマゴマ~……」
武士沢が未練がましいうめき声を上げたが、胡麻豆腐は二度と彼女の手に渡ることはなかった。
*
「お肉を食べたのは久しぶりです」
「夜野さんって菜食主義者?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど。やはり健康のことを考えると魚の方が好きですね」
帰り道の車内、メインディッシュのローストチキンについてことりと武士沢が話をかわしていた。ブロイラーのように鶏舎に押し込めず屋外に放し、エサも全て天然のものを使用して育て上げた鶏の肉は確かに一線を画するものであった。
研究所の食堂以外で酒を伴わない会食をするのはいつ以来だっただろうか、とわかなは記憶の糸をたどる。武士沢とは仲が良いもののプライベートでほとんど交流がなく、十八歳未満の少女と一緒に出かけた記憶は星花女子時代に遡らないといけない。ひとつ言えるのは、場末の酒場で一人飲みしたり出会い系で知り合った女性と洒落た店でデートしたり、時たま早智に呼び出されて仕事の愚痴を語らうのとは違った楽しみがあったということだ。
「アユはどうだった?」
「初めてでしたけど、美味しかったですね。はらわたも食べちゃいましたけど」
「内臓が一番美味しいところなんだよ。これで焼酎を一杯やると最高だね」
「ほどほどにしてくださいね」
「ははっ、ほどほどにしとくよ」
バックミラーに映っていることりは、天使の笑みを浮かべていた。見ているだけでほんわかとした気持ちになれるような笑みを浮かべられる人間はそうそういるものではない。運転中でなければずっと見ていたかった。
車は空の宮市内に入っていく。ことり、武士沢の順で家に送るのが最短ルートだが、武士沢が注文をつけた。
「永射氏、悪いけど六礼駅で降ろしてくんない? 買い物するから」
「わかりました」
六礼駅まではこのまま線路沿いの幹線道路を進めばすぐにたどり着く。やがて田園風景から街中へと様変わりし、交通量も多くなっていった。何度か信号に捕まりつつも駅前の送迎車用のロータリーへとたどり着いて、わかなは助手席のドアロックを解除した。
「んじゃねー、ことりちゃん!」
車を降りて手を振る武士沢に対して、ことりは頭を下げた。
「ごちそうさまでした」
武士沢は上機嫌でスキップしながら、駅に直結しているショッピングモールに向かっていった。
「夜野君、助手席に座りなよ」
「あ、はい」
ことりは後部座席から助手席に移り、シートベルトを締めた。それを確認してからわかなはウィンカーを出して、車を出した。
「ふむ、まだ二時にもなっていないか。どこかでお茶しようか、と言いたいところだが財布を持ってきていないんだなこれが」
今日は武士沢の奢りだったので、余計なものは一切持ってきていなかった。
「もう充分に頂きましたから。ありがとうございます」
赤信号で一旦止まる。わかなは屈託のないエンジェルスマイルを見つめて言った。
「君が良ければだが、研究所見学会で案内しきれなかったところを特別に見せてあげたいと思うんだ」
「え?」
キョトンとしている顔も、可愛らしい。
「時間は取らせないよ」
「そうですね……では、ご厚意に甘えさせて頂きます」
「よし、決まりだ」
青信号に変わり、車は再び動き出した。