8. 天使の介抱
「う……」
「やっと目を覚ましたかい♪ なんてね」
武士沢李がベッドから身を起こすと、寝ぼけ眼でわかなを見つめてきた。しかし彼女は近眼なので、わかなのことを正確に認識できてないようである。
「永射氏? 私の眼鏡どこ?」
「ここですよ」
わかなが丸眼鏡を渡す。かけ直すと目が大きく開いた。
「ああ、やっぱり永射氏だ。面倒をかけて申し訳ない……」
「おわびならこの子に言ってあげてください」
わかなの後ろからぴょこんと飛び出るようにして、ふわふわボブの美少女が姿を見せた。
「ああっ、何か物凄くくっさいくっさいモノを嗅がせてきた子!」
「夜野ことり君です。夜野医院の娘さんで保健委員をやっています。この子が看病してくれましたよ」
「そうだったの。ありがとうね。でもせっかく見学に来てくれたのに私が倒れたばっかりに台無しになっちゃって……本当にごめんなさい」
「いいえ、私はするべきことをしたまでです」
ことりはエンジェルスマイルを見せた。
「私が見たところ体調不良が原因だと思われますが、昨日はちゃんと眠られましたか?」
「いやー、それがいろいろやることがあって一睡も出来なかったんだよねー」
あはは、と苦笑いする武士沢に対して、ことりはエンジェルスマイルのままで、しかし声色を若干低くしてさらに尋ねた。
「朝食は食べられましたか?」
「全然。私、朝はコーヒーしか飲まないもん」
「お昼はいつも何を?」
「菓子パン一個で充分だよ」
「……晩ごはんは? まさかコンビニ弁当やカップ麺で済ませてないですよね?」
「そのまさかだけど? だって料理するのめんどいでしょ。あははは」
ピクッ、とことりのこめかみに血管が浮き出た。
「そんな偏った食生活を続けているから倒れるんですよ。いいですか、食事は朝昼晩しっかり摂る。コンビニ弁当やカップ麺ばかり食べない。最低でも七時間は寝る。はい復唱してください」
「は?」
「聞こえなかったのですか? 復・唱・し・て・く・だ・さ・い」
ことりが迫る。エンジェルスマイルを崩さず、それでも幾筋もの血管が浮き出ていて、まるでゴゴゴゴゴ、というよく漫画で見られる擬音が実際聞こえてきそうなぐらいの威圧感がある。見た目は天使でもたたずまいは不動明王のようである。
武士沢は後にこう語った。学会発表の質疑応答で「この分野には詳しくないのですが……」と前置きしておきながら完膚無きまでに叩きのめしにかかる意地悪な学者よりも怖かった、と。
「うっ……しょ、食事は朝昼晩しっかり摂る。コンビニ弁当やカップ麺ばかり食べない。最低でも七時間は寝る……」
「はい。必ず実践してくださいね?」
すーっ、と威圧感が消えていった。
「あははは! 武士沢さんの完敗だな!」
わかなは大声で笑ったが、再発した腰の痛みに顔を歪めた。
「また腰をやったの?」
「あなたに突き飛ばされたせいですよ」
「そ、そんなことしたっけ?」
目をそらす武士沢。
「まっ、この子が応急処置をしてくれたので少しはマシになりましたがね」
研究室には実験に使う氷が豊富にある。ことりはそれを使って即席の氷嚢を作り、わかなの腰に当てて冷やした。これで当座をしのぎ何とか歩ける程度までにはなっている。
「だけど、見学会の案内はスカーレット所長に代わってもらわざるを得ませんでした」
「ううっ、心からお詫び申し上げる……」
わかなは口角を上げた。
「言葉では何とでも言えますから、形で示してもらいましょうかねえ」
「形……ま、まさか体で!? いや永射氏にだったら別に抱かれてもいいけど……」
「武士沢さん」
「んごっ!?」
わかなは、第二研究室でくすねて返しそびれた試験管ばさみで武士沢の鼻を摘んだ。
「体の方は間に合ってますから、ご飯に連れて行ってくださいよ。ことり君も一緒に」
「え、私も?」
ことりは自分を指差した。
「看病してくれたお礼さ」
「いえ、私はそのつもりでやったわけではありませんから……」
「こういうときは素直に『はい』って言えばいいんだよ」
わかなはふわふわした髪の毛が乗っかった頭を優しく撫でた。高校時代は彼女に頭を撫でられただけで陥落する者が後を絶たなかったのだが、ことりはというと困ったような顔をしていた。
「何が食べたい?」
ことりの返事を待たず、わかなは有無を言わせずといった感じで聞いてきた。
「わかりました。では、ご好意に甘えさせていただきます」
観念したようだ。
「何でも良いよ。この眼鏡のお姉さんが全部出してくれるからね」
「くっ、是非もなし……」
武士沢の鼻にはさまったままの試験管ばさみが揺れた。
*
この日、夜野家は久しぶりに五人揃っての夕食となった。ことりの両親と小学六年生の弟に加えて、医大生の兄が実家に帰ってきたのである。
食卓に並んでいるのは魚料理と野菜料理で、健康第一のことりが作ると必然的にこのようなメニューになる。味付けはもちろん薄め。塩分とカロリーを計算して作られた料理はさながら病院食のようである。それでも誰も文句を言わないのは、料理に文句を言うのは卑しいことだという母親の吟子の教育が行き届いているからに他ならなかった。
「このポテトサラダうめえな!」
兄、丈太郎が味を絶賛したが、ことりは素直に受け取らなかった。
「今までそんなこと言ってくれたことなかったのに、どうしたの?」
「いや、フツーにうめえからうめえって言っただけだっての」
「すんごいニヤニヤしてるけど、もしかして、カノジョができたとか?」
丈太郎はニタァ、と口の端を上げた。
「マジ!? やったじゃん兄貴!」
弟の仁がはしゃぐ。
「なぜ、すぐに言わないんだ。そういう大事なことを」
父親の重明は不機嫌になったが、本気で怒っているわけではなさそうである。
「言うつもりだったんだけど、ことりのメシがうめえから忘れてた」
「それだけ浮かれてる、ってことね」
ことりは呆れ気味にため息をついた。
「あ、そうそう。俺のカノジョ、隣の大学の医学部生なんだけど、その子の友達に星花女子の子がいてさ。元生徒会長さんだって。お前知ってる?」
「知ってる! 菊花寮住まいの優等生だったよ。噂では医学部医学科に進学したと聞いていたけど本当だったんだ」
「そうかー。妹が四年後に世話になるかもしれないからよろしく、ってカノジョを通じて伝えといたからな」
「医学部は医学部でも看護学科の方になるけどね」
ことりはあくまでも看護師志望。医師となって病院を継ぐのは兄の丈太郎もしくは弟の仁でも構わない。とにかく自分はナイチンゲールのような看護師となって大勢の人の命を救いたかった。
「そうだ。私もひとつ言わなきゃいけないことがあった」
「何? ことりもカレシができたのか? それともカノジョか?」
「ことり姉貴もやるねー!」
「ちーがーいーまーすー」
ことりは咳払いした。
「今日天寿の研究所の見学会に行ったんだけど、研究員の人が体調不良で倒れちゃって。急遽私が応急処置して看病したんだけど、そのお礼に食事に連れて行ってくれることになったの」
「まあ。それは良かったじゃない」
母の吟子が褒めてくれた。
「え、姉貴。あの『シャングリラ』に行ったの?」
「シャングリラ?」
「あの研究所、俺の小学校じゃシャングリラって呼ばれてるんだけど」
「何で?」
仁が言うには、シャングリラは「ジ・アウトブレイク」というゲームに出てくる悪徳企業の名前だという。シャングリラの研究所から漏洩したウイルスが原因でモンスター化してしまった町の住民を倒していくというのがゲームの内容だと聞かされた。
「あの研究所も怪しげな研究やってそうだからみんなシャングリラって呼んでんだ。で、モンスターはいた?」
「いるわけないでしょ。まともな研究をしてたよ」
もっとも、研究員はまともじゃないのばかりでモンスターよりも恐ろしい目に遭わされたりもしたが。
「で、いつ行くんだ?」
重男が尋ねた。
「今週の土曜のお昼」
「そうか。帰りは遅くならないようにな。何を食べるんだ?」
「わかんない。とにかく健康に良いものをリクエストしたけど」
「ははは、ことりらしいな」
「いいなー」
と仁がうらやましがると、丈太郎は「代わりに俺が美味しいものを食べさせてやるから」と言う。
「ほんと!?」
「たまには兄貴らしいことしねえとな」
「お兄ちゃん、ジャンクフードだけはダメだからね」
ことりが釘を刺すと、「せっかくの弟との再会なのにそんなもんで済ますわけねえだろ」と逆に怒られてしまった。そりゃそうだ、とことりはさすがに反省した。
夕食を済ませて入浴を終え、夏休みの宿題に手をつけたが午後十時半には寝床に就いた。朝は五時半起きで、例え長期休暇中でもダラダラと遅くに起きたりしない。毎日欠かさない習慣のおかげで、星花女子に入学して以来一度も風邪すらひいたことが無い。
目を閉じて眠りに入る直前、ことりは今日の出来事を振り返った。特に永射わかなのことを。ぎっくり腰が再発してしまったので、氷とビニール袋で即席の氷嚢を作って冷やしたのだが、衣服をめくったときに見た背中のくびれが綺麗で驚いたものであった。あのときはつい「体を鍛えているんですか?」と聞いたが、特に何もしていない、という答えが返ってきた。
どんなものを食べたらあんなに綺麗にくびれた背中になるんだろう。背中以外はどうだろう。肌も健康的でツヤツヤしてたし……
想像の内容はやがて、わかなの裸身像にまで及んだ。ミロのヴィーナスのような美の極致とも言える肉体の上に、わかなの顔を乗せたような、そんな姿を思い浮かべたが、想像が妄想の域までエスカレートしていっているのにハッと気づいた。
「何を考えているんだ、私は……」
ことりは寝返りをうった。室内は28℃に保たれているはずなのに、この夜はことさら熱くて寝苦しい思いをしたのであった。