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3. 万能の薬

(2020.9.17)

星花女子学園校舎図の新しい公式設定に則って科学部の活動場所を変更しました。

 土曜日、わかなは学校に行く前に研究所に立ち寄った。論文執筆のためにおざなりになっていた事務仕事を片付けるためである。


 自身が開発した新規調味料の量産化テストについて技術研究部からの問い合わせメールに返信して、それから星花女子学園科学部顧問としての仕事に取り掛かった。二名、県の中高生科学研究コンクールに出せるレベルの研究に取り組んだ部員がいるので、その子たちのレポートをチェックして、赤ペンで添削を入れていった。


 腰痛は湿布が効いたためにだいぶマシになっていて、鎮痛剤はもう必要ない程度である。そのおかげで作業に集中できるようになり、論文に忙殺されていたときの遅れはすぐ取り戻すことができた。土曜日なので研究室にはわかな以外誰もいなかったが、不意にドアが開いて一人の人物が入ってきて、オフィスルームに向かってきた。


 正体は人形のような可愛らしさ、という表現がぴったりの白人のブロンドの美少女であった。研究の場に似つかわしくない、フリルのついた真っ赤なワンピースを着ている。わかなは驚いたが、それは相手が見ず知らずの不審者だったからではない。


「おはようございます、所長。休日出勤されてるとは思いませんでした」


 所長――そう呼ばれた美少女は口を開いた。


「どや?」


 do-ya. 


 英語圏の"How are you doing?"に相当する関西圏の単語は、確実にこの美少女の口から放たれたものである。そう相手が尋ねてきた意図を察したわかなは日本語で答えた。


「論文は昨日、再提出しました。やたらと査読者が厳しくてこれでもかと追加実験をさせられましたが、今度こそ通ると思います」

「よっしゃ、よっしゃ」


 天寿空の宮研究所所長兼取締役の英国人、スカーレット=ムンロはニタァと口角を上げた。


 彼女は所長兼取締役という大層な肩書を持っているが、何とまだ十八歳である。この年齢で研究所のトップに立っているのは驚愕に値するのだが、八歳にして世界に冠たるケンブリッジ大学に飛び級で入学し、十六歳で原子核物理学の研究で博士号を取得するという凄まじい経歴を知れば誰しもがさもありなんと納得すると同時に、なぜこれ程の人物が遥か日本の地方都市にある企業の研究所に勤めているのか疑問を抱くはずである。


 その理由は彼女のほんのいたずら心であった。彼女は博士号を取った後も大学で研究を続けていたが、おやつを作る感覚で小型の水素爆弾を製造しようとしたために大学を追われたのである。当然博士号も剥奪され、さらには過激派テロ組織との繋がりを噂されてイギリスにいられなくなってしまった。今では研究者として死んだも同然の身だが、ひょんなことから伊ヶ崎波奈と知り合って天寿に拾われ、経営者として間接的に研究に携わっている次第である。


「この調子でいけば来年には永射博士の誕生やな。社長はんに言うて給料もドンと上げてもらうさかい楽しみにしててや」


 コテコテの関西弁で話すのは、来日前に日本語の勉強のために読んだ漫画がなぜか『ミナミの◯王』とか『ナニワ金◯道』といった大阪ワールド全開の作品だったからである。外国人少女の鈴を転がすような声とコテコテの関西弁とのギャップは激しいものがあった。


「ところであっちの方はどないや?」

「あっち? ああ、夏休み見学会のことですか」

「そや。永射目当てでようけ集まっとるやろ」

「いえ、思った程ではありませんでしたね。理科が苦手な子が多いのか、敬遠されています」

「うーん、それはちと困ったのう」


 学校が夏休みに入った直後に、星花女子学園の生徒から希望者を募って研究所の見学会を催すことになっている。今回初めての試みだが、科学部員全員を出席させても定員割れを起こしている有様であった。


 スカーレット所長はわかなの隣の机から椅子を拝借し、行儀の悪いことに背にもたれるようにして大股開きで座った。


「ここだけの話な、近い内に星花女子に理数科を作る予定なんや」

「初耳ですね。国際学科だけではないのですか?」

「文系が多いさかい、理系の専門科を作ってバランスを取るのが社長はんの狙いや」


 スカーレット所長は椅子を自分ごとくるくる回した。


「今回の見学会は理数科のカリキュラムの試行も兼ねとるし、生徒はんをようけ集めたかったんやけどなあ」

「すみません、力不足で」

「永射を責めとるんとちゃうで。小さい頃から科学に興味を持てるような教育体制を国がちゃんと作っとかなアカンということや」

「私も微力ながら科学に興味を持てるようにと努力しているのですが、なかなか難しいものですね」


 レポートチェックの傍らで中高生向けの科学実験サイトを漁っていたわかなは、そのページの一部を印刷した。


「何やそれ?」


 スカーレット所長は椅子の回転を止めた。わかなは印刷物を一枚手渡す。


「重曹とクエン酸を使ったサイダーの作り方です。飲み物やお菓子を作るのも科学実験の一つですからね。文化祭でも料理部とコラボレーションして何か出そうかと考えてます」

「うむ、それはええこっちゃ」


 わかなはパソコンをシャットダウンした。


「今から学校に行きます。部員にももうひと押し声をかけさせますので」


 *


「わかな先生、こんにちは!」

「はい、こんにちは」


 ニコッと笑って挨拶を返すだけでキャーッ、と黄色い声が上がる。科学部顧問の永射わかな先生は、科学部以外の生徒たちの間でも注目の的である。自身が星花女子学園に在籍していた折も「白衣の君」という二つ名がつけられる程に人気のある生徒であったが、今でもその色香は衰えず、それどころか大人の魅力が加わったことでより一層目を引く存在となっていた。


 星花女子学園の理科室は化学室、物理室、生物室、地学室の四つに分かれており、そのうち化学室を科学部の主な活動場所としている。そこに向かう途中で、わかなはいつもより周囲を意識しながら歩いた。先日見かけた美少女がいないだろうか、と。普段のわかなであればすれ違う生徒たちのことをいちいち気に留めたりしないのだが、彼女の天使のような顔立ちはどういうわけか頭に残り続けていた。


 しかし彼女に会う機会はなく、化学室に入っていった。


「こんにちは!」


 実験中の白衣姿の生徒たちが手を止めて挨拶してきた。


「やあ、こんにちは。何の実験中かな?」

「カフェインの抽出です」


 アンダーリムの眼鏡をかけた、高等部三年部員の墨森望乃夏(すみもりののか)が答えた。


「いろんなメーカーが出してるエナジードリンクからカフェインを抽出して、量を比較してみようってことで、新入生たちにやらせているところです」

「そうか。安全面にはじゅうぶん気をつけてやってくれよ。あと、墨森君と椎原君はちょっと準備室の方に来てくれ」


 わかなは奥にある水槽のアフリカツメガエルにエサをやっていた小柄な生徒、中等部二年部員の椎原樹(しいはらいつき)も一緒に呼び出した。


「さて君たちのレポートを読ませてもらったけど、まずは墨森君。グラフをもう少し工夫しようか。こう、縦軸の目盛を小さくして折れ線に角度をつけて変化量を大きく見せよう。見せ方で読み手の印象がかなり変わってくるからね。あとは細かい表現と誤字脱字を直すぐらいだな」

「はい、ありがとうございます」

「椎原君は枚数が多すぎるね。せっかく良い観察結果が出ているし目一杯書きたいのはわかるけど、まとまりが弱くなっている。不要な記述を削ったらかえってビシッと引き締まって読みやすくなるよ。思いきって削っちゃおう」

「はい、わかりました」


 わかなは赤ペンで添削したレポートを返して、次の来校日までに直すように伝えた。


「特に墨森君は受験勉強もあって大変だろうが、部活動でやってきたことの総仕上げだ。頑張って書き上げてくれたまえ」

「はい!」


 望乃夏が返事すると同時に、理科室の方からガシャーン! と何かが砕け散る音がした。三人が様子を見に行くと、どうやら誰かがガラス製の実験器具を落としたらしく、キラキラと輝くものが床に散乱していた。


「す、すみません! ビーカー落としちゃいました!」

「怪我はないかい?」

「あ、はい。大丈夫です。薬品は入っていなかったので」


 だが、わかなの観察眼は鋭かった。生徒の人差し指の腹に一本の赤い筋が入っているのを見つけると、その手を取った。


「うっかり破片を触ったね? 指を切ってるじゃないか」

「すみません、つい……」

「だめだよ、危ないことしちゃ」


 そう言うなり、わかなは指を口に含んだ。


「うひゃあッッ!」


 生徒は絶叫し、他の部員たちは絶句した。傷の部分に舌を這わせて唾液を刷り込むようにして舐めるたびに、鉄と塩が混じったような味がわかなの口内に広がる。生徒の顔は塩酸に浸したリトマス試験紙のごとく赤く染まった。


 口を離すと、舌と指との間に銀色の糸が引いた。


「せっ、せんせぇっ、なんてことを……」

「ふふふっ、唾液には殺菌・抗菌作用がある酵素が豊富に含まれていてね。それ自体が万能の傷薬になるんだよ」

「は、はひっ……」


 もっとも、この妖しい色香をまとう彼女の唾液には媚薬の効果もあるようで、生徒はもうまともに受け答えができなかった。


「お邪魔しますッ!」


 急に化学室の戸が開いて、一人の生徒が大股で踏み入ってきた。


「おやおや、風紀委員さんのお出ましかな?」


 わかなはいたずらっぽい笑みを浮かべて振り返ったが、たちまち笑みが消えた。


 この前見かけた天使が、そこにいたからだ。


 天使は救急箱を持っていた。

今回登場して頂いたゲスト:


・墨森望乃夏(黒鹿月木綿季様考案)

 登場作品

 黒鹿月木綿季様作『Dear my roommates』(https://ncode.syosetu.com/n2622ef/)等


・椎原樹(しっちぃ様考案)

 登場作品

 黒鹿月木綿季様作『私の言葉は、ほろほろと。』(https://ncode.syosetu.com/n9602eo/)

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