27. デートの日
天寿空の宮研究所第六研究室。武士沢李は月曜日という気の重い一日が始まる憂鬱さを抱え込んで入室した。
「おはよーございまーす」
「おうっ、おはよう武士沢君!」
室長の源五郎丸はスクワットをしながら挨拶を返した。
「室長、今日も一段と筋肉がキレてますね!」
「はははっ、ありがとう!」
武士沢はわかなのデスクが空席になっているのに気がついた。
「永射氏はまだ来てませんか?」
「今日は夕方からの出勤だ」
「夕方? ははーん、文化祭の打ち上げで飲みすぎたなあ?」
と、武士沢は決めつけた。研究員は自由裁量制の下で仕事をしているので、進捗ミーティング等といった行事が無い限りは何時に出勤して何時に退勤しようが構わない。それでもわかなが夕方に出勤するのは珍しいことであった。
武士沢は昨日、実は科学部顧問としてのわかなを見に行ってやろうと星花女子学園へ足を運んでいたのだが、あまりもの人の多さに辟易してすぐに引き返していた。コミケの人混みに慣れている身ですら、この混雑ぶりに辛抱できなかったのである。それを今日の雑談のネタにしようとしていたが、肩透かしを食った形になった。
「武士沢君、本人がいない場でこんな話もなんだが、最近の永射君はとてもイキイキしていると思わんかね?」
源五郎丸が光沢を放つ白い歯を見せつけながら言った。
「そうですね。こころなしか肌もツヤツヤしているように見えますし。室長の頭みたいに」
「ははははっ」
源五郎丸のスキンヘッドが照明の光を受けて輝く。実際にわかなの肌はこんなに光りはしないのだが、全身から活力が漲っているのは武士沢も確かに感じ取っていた。
何か心境の変化でもあったのだろうか。わかなと酒を飲みつつ、踏み込んだ話をしたいという気持ちがにわかに起きた。武士沢は転職が決まっている身で、半年もすればわかなと離れ離れになってしまう。その前に是非、話を聞いておきたかった。
*
白のハッチバック車が国道を北上していく。平日とあって道路を往来しているのは物流関係の大型車両が多く、運転手の永射わかなはいつもより安全運転を心がけている。
助手席には夜野ことりが座っている。わかなの車に乗るのは二度目だが恋人どうしとなってから初めてのデートとあって、一度目のときより緊張している様子が伺えた。それでもわかなと話をしているうちにリラックスして、自然体でいられるようになった。
「今年の星花祭はいろいろ凄かったよねえ」
「来場者数、例年の十倍以上来ていたそうです」
「三倍どころじゃなかったのか。こりゃ来年も大変だぞ」
もっとも、科学部は大多数の来場者の恩恵を受けられなかったのが悔やまれるところではある。来年も人出は多いだろうから、出し物を大幅に変えてみる必要があるかもしれない。
車の目的地は夕月市の最北端、県境に近いところで、そこにはアウトレットモールがあった。駐車場に車を停めて降りると、ひんやりとした空気がわかなたちを包んだ。この辺りは霊峰近辺で標高が高いため、気温は全国平均より低い。空の宮市ではいまだ残暑が厳しいのに比べて、ここでは長袖が必要なぐらいひんやりとしている。
もちろん、二人はきちんと長袖を用意していた。わかなはデニムジャケットを羽織り、ことりは白いカーディガンを着ていた。
ちなみにことりのコーデはというと、上下を白で統一したものである。カーディガンの下のブラウスは白で、フレアスカートも白。ソックスもスニーカーも白である。
「まさに白衣の天使、だね。すごく似合っているよ」
「ありがとうございます」
褒められたことりは照れ笑いを浮かべた。
アウトレットモールの中に入ると、そこはまるで欧米の街並みの一角のような造りになっていた。さまざまなブランドの衣料品店や雑貨店、カフェがモールの中にあり、見て回るだけでも十分楽しむことができる。平日でも客はそこそこ入っていた。
わかながとあるテナントの前で足を止めた。桃を象ったマークの看板が掲げられている。
「ここにもピーチフィールが入ってるのか」
ピーチフィールとは下着のブランドのことであり、天寿の傘下ブランドの一つでもあった。
「中に入ってみます?」
ことりの方から声をかけてきた。
「うん、入ろう。ちょうど新しい下着を買おうかと思ってたんだ」
店内に入ると、多くのカラフルな下着が二人を出迎えた。品物はスイートからセクシーまで何でも揃えられている。空の宮市にあるスターパレスショッピングモールにもピーチフィールのテナントがあるが、品揃えはここの方が遥かに豊富である。
「先生って、どんな下着が好きなんですか?」
そう尋ねてくることりの顔は、少し赤い。
「私はスポーツブラとボクサーパンツを使ってるよ」
「スポーツブラとボクサーパンツ……」
「あ、想像した?」
「す、少しだけ……」
「ていうか、一度私の下着を見たことがなかった? ほら、天寿研究所の見学会で私が腰痛を再発させたときに腰を冷やしてくれたじゃないか。あのときに」
「そうでしたね」
ことりの顔の赤みが濃くなっていく。なんて可愛らしい子だ、と口に出したらますます赤くなっていった。
「先生って、スポーティーなのが好みなんですね」
「うん。それにピーチフィールのは軽くて速乾性に優れているし、丈夫なんだ」
「じゃあ、私も先生が着けてるのと同じのを買ってみようかな……」
「お揃いにしてくれるんだ。ありがとう」
ことりはただ、照れ笑いを浮かべるのみである。
「ついでにこういうのもどう?」
わかなが手に取ったのは、俗に言う紐パンであった。
「う、私にはちょっと早いかもです」
「あはは」
結局、ことりはわかなが身につけているものと同じ下着だけを買った。その色はやはり白だった。
一通りテナントを見て回った後、カフェに立ち寄って食事を取ることにした。ことりが注文したものはトマトパスタのサラダセットで、ドリンクはアイスコーヒーのブラック。わかなも同じものを頼んだ。
「ことりちゃん、ブラックで飲めるんだ」
「私は小さいときからコーヒーはずっとブラックですよ。砂糖もコーヒーフレッシュも入れません」
まるで子ども扱いしないでくださいと言わんばかりに、得意げな表情になっている。
「私がことりちゃんと同じ年の頃は、ここまで意識が高くなかったな。好きなものを食べては飲んでた」
「それでも、昨日の健康診断でかなり良い数値が出てたじゃないですか。正直言って羨ましいし、ずるいです」
「とは言ってもねえ、腰を何度もやっちゃってるし。これからもっと衰えてくるよ。あと10年したら、看護師になった君のお世話になるかもしれない」
「そんな悲しいこと言わないでください」
「ははっ、ごめん」
食事をしながら、二人の会話は弾んでいく。特に一番盛り上がったのは、将来についての話である。
ことりは看護師という明確な目標があるが、そこにたどり着くまでのルートと、その後についても方針を固めているようであった。看護師資格は大学の看護学科で取り、大きな病院で看護師としてキャリアを重ねて、ゆくゆくは実家の病院に戻って地域医療に貢献したい、と語った。
「私の住んでいる地域は中高年が多いですし、医療のお世話になる方はこれから増えていきます。そのときに実家の力になりたいな、と思っています」
「中学生でそこまで考えている子なんて滅多にいないよ。私の中学生の頃は、高等部に進んだらもっと楽しいことをしたい、ぐらいしか考えてなかった」
「将来何になりたい、とかまだ考えていなかったんですか?」
「うん。理数系が得意だったから理系に進もうかなあ、ぐらいまでだったかな」
「それが今は研究者として、博士になろうとしているんですよね。人間の将来ってわからないものですよね」
「そうだね。でも、ことりちゃんは何があっても絶対に看護師になってね」
「それはもちろんです。ちなみに今の先生は、博士号を取った後は何をしたいとか考えていますか?」
「そうだなあ……武士沢さんみたいに大学教員を目指すのもありかな」
一瞬だけ、ことりの顔が曇ったような気がした。すかさずわかなはフォローする。
「でも、天寿の待遇はなかなか良いしね。少なくともことりちゃんが星花女子を卒業するまでは天寿にいるつもりだ」
「その後は?」
「ふふっ、それはまだ心配しなくていいだろう?」
とりあえず今は、ただことりと仲を深め合いたかった。
*
わかなは夕方に出勤する予定を組んでいる。食事が終わるともう一度軽くモール内を見て回って、それから帰路についた。
帰り道でもわかなとことりとの話は尽きることがない。山川藍那とつきあっていた頃もこんな感じだったなと、ふと昔を思い出す。同時に、もう二度とあんな悲劇を味わいたくないという気持ちがふつふつと湧き上がってきた。
わかなを裏切ったあげく、精神を病んでしまった藍那。もしもこの先、ことりまでもが同じ道をたどることがあったとしたら……。
「先生はさっき、大学教員を目指すのもありかな、って言ったじゃないですか」
「うん?」
わかなは意識が飛びかけていたことに気がついた。ハンドルを握る力を強くして、注意を前に向ける。
「もし先生が大学に転職するんでしたら――」
前の信号が黄色になったが、わかなは突っ切ろうとせずにそのまま車を停めた。横目でことりを見ると、一瞬だけ藍那の顔がダブった。彼女の幻影を振り払うようにして、首を大きく横に振った。
「先生、どうしました?」
「ことりちゃん」
もう二度とあのようなことを繰り返したくないという強い想いを、わかなは形に出した。
触れ合う唇と唇。本の数秒間だけであったが、お互いの感情を激しく揺り動かすのにじゅうぶんであった。特にことりの方は息を荒くしており、まるで媚薬を口から流し込まれたかのようになっていた。
「先生……」
「ことりちゃん。もう少しだけ、デートの続きをしないか?」
ことりは目をとろんとさせながら答えた。
「はい。私も、もっと先生と一緒にいたいです……」
当初のデートプランは、仕事があるのでアウトレットモールに寄って帰るだけであったが、次の行き先はすぐに決まった。それでも一応、尋ねてみる。
「じゃあ、どこか行きたいところはある?」
「二人きりになれるところなら、どこでも……」
「二人きり、ね。じゃあ、私に任せてしまっていいんだね?」
「はい。先生となら……」
ことりは自分の手を、わかなの手の上に重ねる。わかなが言ったことの意図を正確に読み取っているのに違いなかった。
「わかった」
青信号に代わり、車は再び動き出した。
次回で最終回です。