23. 二日目の朝
星花祭二日目の日、わかなが目を覚ました場所は研究所の仮眠室であった。さっさと帰るつもりが実験中にちょっとしたトラブルが起きてやり直しになり、終わった頃には日付をまたいでいた。そんなわけで家に帰るのも億劫になって、仮眠室で一眠りしたのである。
朝食としてオフィスの冷蔵庫にしまっておいたゼリー飲料を摂ると、さっと研究所を出て自宅のアパートまで歩いて帰り、シャワーを浴びて服をスーツに着替え、車に乗り込んでエンジンを回し、普段より空いている道路を走らせた。
いつも通り車を裏門の方から入れて、教職員用駐車場に停めたところで、隣の駐輪場に自転車を停めているふんわりボブの天使の姿を見つけた。下車したわかなは早速声をかけた。
「やあ、ことりちゃん。おはよう」
「あっ、わかな先生! おはようございます!」
「今着いたところかい?」
「はいっ!」
「今日は一段と元気がいいね」
「一般客がやって来ますからね。特に百合葉先輩とアイドル研究会OGとの合同ライブもありますし、例年の三倍ぐらいの人数が来るんじゃないかって言われてます」
「三倍?」
わかなは肩をすくめた。
「去年もそこそこ人が多かったのにその三倍だなんて、敷地内に入りきるのかな」
「ですから、場合によっては入場制限をするそうです」
「無事に終われば良いけど」
人数が増えればそれだけトラブルが起きる可能性も上がる。先週のことりみたいにナンパ目当てでやってくる迷惑な客も混じっているかもしれない。そんな心配を読み取ったかのように、ことりは言う。
「この前みたいなことが無いよう、気をつけます」
「うん。なるべく単独行動は控えてね」
「大丈夫です。友達が一緒についてますから!」
ことりは両手の拳を握って、体全体で大丈夫をアピールした。
「君とおおっぴらに一緒に回れないけど、保健委員の出し物に顔を出すよ。君がいる時間を教えてくれたら、それに合わせて行くから」
「じゃあ、先生のいる時間帯も教えて下さいね」
二人は時間を教え合うと、さっと別れてお互いの持ち場へ向かっていった。一緒にゆっくりと時間を過ごす機会は明日のデートで取れることだし、今は星花祭の成功を目指して自分の仕事をするのみである。
わかなのスマートフォンが振動した。
「弟からだ」
メッセージアプリを立ち上げると『やばい、やばいよこれ』という一文を添えて、人混みを写した画像が送信されていた。
「うわ」
「先生、どうしました?」
わかなは苦笑いを浮かべて、画面をことりに見せる。
「空の宮中央駅のホーム。これ、全部星花祭に来る客みたいだよ」
「えっ……ええー……」
ことりは頬に両手を当てる。その格好は『ホーム・アローン』に出演したマコーレー・カルキンにそっくりであった。
さらに、ことりのスマートフォンにもメッセージが届く。
「先生、友達から送られてきたんですけど……今、正門前がとんでもないことになっています」
画面を見せられて、わかなはつい「うわあ」と声を出てしまった。
まだ開場時間でもないのに、正門前に入場待ちの長蛇の列ができている。そこにまだ大勢の人が集まろうとしている。例年の三倍では済まないのは明らかであった。
*
「マジないわ」
空の宮中央駅でJRから私鉄線に乗り換えようとした永射慎之介は、目の前の光景に絶句しっぱなしであった。
下り線、星花女子学園に向かう方面の乗り場は通勤ラッシュ時の山手線と見紛う程の人だかりが出来ている。そのほとんどがアイドルグループ"mizerikorude"のTシャツを着ていたり、バッグに缶バッジをつけていたり、その他グッズを身につけていたりするが、慎之介はその理由を瞬時に推察した。
「ああ、そういうことね。しまったなー」
星花女子学園は人気アイドル、美滝百合葉が在籍している学校でもある。彼女がのほほんと母校の文化祭をお客様として楽しむだけにとどまるはずがなく、ライブやサイン会とか開いてもおかしくはない。ここにいる人間たちはそれ目当てでやって来ているのに違いなかった。そのことを予測できていればもっと早めに家を出られたのに、悔やんでも悔やみきれない。
今年は星花祭とミカガクフェスタの開催日が一週間ズレたため、星花祭に赴くことができた。だが本音では特に行きたいと思っていたわけではなく、単に姉がミカガクフェスタに来てくれたお返しという理由に他ならない。すでに電車賃は払ってしまったが、姉に断りを入れて引き返すこともできた。連れがいなければ。
「先輩、すんごい暑苦しいですね……」
慎之介よりもさらに小柄な少年は、今どきほとんど見かけなくなった学生帽を脱いでうちわ代わりに煽る。
「暑いのは平気だけど、暑苦しいのはやだなー」
せめて私服で、スラックスじゃなくショートパンツ(慎之介はレディース用を好む)を履いていれば少しは不快感が抑えられたかもしれない。だが御神本学園の服装規定には「他校に赴く際は必ず制服と学生帽着用」とある。自由な校風を誇る学園の中では例外的に厳しい規定を、慎之介は律儀に守っていた。いや、守らざるを得なかった、と言うのが正しい。なぜなら、隣の少年は風紀委員だからである。
そしてこの少年の名前は須賀野潤という。銃剣道部員でもある彼はミカガクフェスタのミス・ミカガクコンテストに出場して、メイド姿でモップによる殺陣を披露して観衆の注目を集めた人物だ。彼が星花祭に行こうとする理由は慎之介よりも若干前向きである。彼には来年星花女子学園の高等部を受験する予定の年子の姉がいて、本来であれば彼女が星花祭内で催される学校説明会に出ることになっていた。しかし塾の模試と重なってしまったために、弟が代理として赴くことになったのである。
やがて電車が入線してきたが、ドアが開くや否や空席だらけだった車内はたちまちすし詰めになり、慎之介と潤は互いに密着して、その四方八方を男性客が固める格好となった。会話するのもはばかられる密集状態なので、慎之介は耳元でささやく。
「須賀野ってさ、顔に似合わず結構筋肉質だよね」
「ちょっ、どこ触ってるんですか」
慎之介の右手は潤の太ももと臀部をさすっていた。
「もっと背が高くて色黒で彫りの深い顔立ちをしていたら、僕の好みだったんだけどな」
「こ、こんなところで何言ってるんですか」
「いや、食わず嫌いは良くないかな? ちょっと味見してみようかな」
慎之介の足の甲に激痛が走り、無言の悲鳴をあげた。潤に思いっきり踏んづけられて、さらにグリグリと。
「それ以上ふざけたことを言ったら、いかに永射先輩といえども制裁を加えますからね」
「いや、もうしてんじゃん……冗談の通じないヤツだな!」
口では怒っているが、内心はやはり鬼の風紀委員だと怯えていた。先週のミカガクフェスタで輩三人組が女子客を無理やりどこかに連れ出そうとするトラブルが起きたことがあった。輩どもは失敗して逃走したのだが、彼らを捕らえたのが潤である。警察沙汰にはしなかったものの、その代償として、伝統的に武道の心得がある者で固められた風紀委員の「稽古」に付き合わされたと噂されている。警察に引き渡した方がまだマシだったかもしれない。
電車は学園前駅には定刻通り着き、乗客が一斉にドバッと吐き出された。空の宮中央駅より小さい駅ゆえに混雑ぶりが一層酷くなり、改札口を出るだけでも相当時間を費やしたのみならず、駅舎の外で星花女子学園方面に向かって伸びる長蛇の列を見てしまい、二人して「ありえねー」とぼやいたのであった。
星花祭二日目は、開場前から波乱の予感が漂っていた。