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21. 愛の力

 星花祭まであと三日となった日、わかなは星花女子学園に赴いた。教え子の一人、墨森望乃夏が部を代表して研究成果の発表会を一日目に実施することになっていて、発表の練習と質疑応答のシミュレーションを行うためであった。博士論文の執筆に加えて研究開発の仕事も抱えている中で、顧問としての仕事にもしっかり取り組んでいた。


 望乃夏も大学の受験勉強を抱えている身でありながらきっちりとスライドを仕上げてきて、受け答えも万全であった。星花祭を最後に引退する身とあってか、言葉ひとつひとつに並々ならぬ熱意が漲っていた。


「墨森君、なかなか良かったよ。相当練習してるようだね」

「はい。寮でもルームメイトを相手に練習しましたから」

「なるほどねえ。愛の力ってやつだな」


 望乃夏は照れ笑いを浮かべた。彼女のルームメイトはバレー部のエースアタッカーであり、恋人である。


「もう私からはアドバイスすることはないよ。当日、聴衆に思いっきり自分の研究成果と科学への熱意を伝えてくれ」

「はいっ、ありがとうございます!」


 指導を終えた後は再び研究所に戻ることになっているが、少し熱が入ったために予定の時間を十分ほど過ぎていた。今更急いだところでどうなるわけでもないのだが、廊下を歩く足は自然と早くなる。


 一階へ降りたところで、ことりと出くわした。


「こんにちは! 足はもう大丈夫ですか?」

「ああ。君のお母さんに診てもらったおかげでだいぶマシになったよ。包帯も取れたし」

「それは良かったです。お大事に!」


 周りに人がいるので、お互いに会話は少しだけしか交わさなかった。二人が恋人どうしというのは当然ながら学校の中では伏せられている。恋愛に年の差は関係ないが、片や部活の顧問、片や中学生という立場上大っぴらにするわけにはいかなかった。しばらくは秘密の恋愛が続きそうだが、それはそれで背徳感があって良いかも、などとわかなはのんきに考えていた。


 *


「永射氏ー、先に帰るよー」


 先輩研究員の武士沢が実験中のわかなに声をかけてきた。


「お疲れさまです」

「永射氏、ちょっと失礼」


 わかなの着ている白衣に鼻を擦り寄せてクンクン嗅ぐ。


「ああ~レモンの良い香りだ~……」

「武士沢さん、嗅ぎ方が犬みたいで気持ち悪いです」

「くう~ん……」


 武士沢は眉毛をハの字にして犬の鳴き真似をした。


 第一研究室ではトイレタリー製品に使うための香料を開発しており、その中の一つにリモネンとは別成分の、レモン風の香りがつけられた香料があった。合成経路が複雑で実用化までに至らなかったものの、香りがオーガニックレストランで飲んだ天然レモン水に酷似していたことから、自身のノウハウを活かして大量合成にこぎつけようとわかなが引き取って開発研究を始めたのである。上層部も研究が成功すれば莫大な利益が見込めると判断しており、スカーレット=ムンロ所長を通じて何としても実用化するようにと発破をかけられていた。


「ところで永射氏さあ」

「何ですか?」

「何か良いことあった?」

「どうしてそう思うんですか?」

「目がすっごいキラキラしてる……ような気がする」


 何もないよう装っていても、わかる人にはわかるようだ。だが今はまだ理由を明かすわけにはいかなかった。いくら信頼のおける先輩相手でも。


「普段からこんな感じですよ。それより武士沢さん、明日朝イチで出張でしょ? 帰れるときに早く帰りましょう」

「おっ、気にかけてくれてありがとさん。永射氏も体に気をつけなよー」


 武士沢は手を振って退室していった。


 試薬を反応させている最中だがかなり時間がかかるので、合間に博士論文の修正に取り掛かった。それもある程度進めたところで一旦中断して実験室に入ると、ガスバーナーと金網をセットした。それからまたオフィスに戻って、私物入れに置いていた小袋を持ち出してきた。中に入っているのはするめだった。


 わかなはガスバーナーに火をつけると、本来ビーカーやフラスコを置くべきところにするめを置いて炙った。火が通ったところで、オフィスの片隅にある冷蔵庫からレモン味のストロング系チューハイ500mL缶を持ち出してきた。サインペンで◯の中に「な」と書いた印をつけていた。


 開栓してグイッと缶を傾けると、酸味が口に広がる。天然レモン水のものとは程遠い風味だが、もとより安酒に味は期待していない。炙られて程よく柔らかくなったするめを口にすると、今度は旨味が広がった。


 わかなは徹夜で実験する際には必ず酒とつまみで気合いを入れる。結果が出せれば何も文句を言われない職場風土だからこそ許される行為である。誰もいない研究室で一人酒を飲むのは格別であった。


 ストロング系チューハイは酔いが回るのが早く、たちまち良い気分になってきた。そのとき、オフィスの方から自分のスマートフォンの着信音が鳴るのが聞こえてきた。


 ディスプレイには「ことりちゃん」の文字が出ている。躊躇せずに通話ボタンを押した。


「もしもし」

『あの、遅くにすみません』


 そう言うが、時刻はまだ九時を回ったところである。


「どうしたんだい? ひょっとして、私の声を聞きたかったのかな?」

『は、はい。そんなところです』


 わかなは酔いも手伝って、遠慮げなしに笑った。


「そうかそうか。ま、今日は学校で会っておきながらほとんどお話できなかったもんね。ちょうど手が空いてるからいいよ、君が飽きるまでお話しよう」

『手が空いている……もしかしてお仕事中だったりします?』

「うん」

『ああっ、ごめんなさい……』

「いいよいいよ。今職場には私一人しかいないし、遠慮しないで。何か話したいことはある? 理科の質問でもいいよ」

『あの、先生。もしかして酔ってます? 声のトーンがおかしいです』

「ははは、鋭いなあ。実はちょっとだけ飲んじゃったんだ」

『お仕事中にお酒飲んじゃだめですよ!』


 相手はすっかり保健委員になっている。


「ごめんよ。でも私はお酒が入った方が頭の回転が早くなるんだ。酒は百薬の長。ほどほどに飲めば良い作用が働くの。ちゃんと休肝日も設けてるから安心して」

『先生の言葉、信用していいんですね?』

「恋人にウソはつかないよ」


 電話の向こうでゴニョゴニョと口ごもるのが聞こえる。その反応にわかなの頬が緩む。


「そうだ、星花祭が終わった翌日は代休だよね? どこかに遊びに行かないか?」

『はいっ? つまり、デートですか……?』


 期待と不安が入り混じったような声色がする。


「そう。デートだよ。武士沢さんは来ないよ」

『わっ、わかりました。その日は空いてます。でもわかな先生、仕事は大丈夫ですか? 平日ですけど……』

「多少の融通は利くから大丈夫さ。どこか行きたいところはあるかい?」

『そうですね……あっ、夕月市のアウトレットモールはどうですか? 前から行ってみたいところだったんですけど、機会がなくて』

「県境のところにあるんだよね? あの辺は涼しいし、残暑を避けるにももってこいのところだな。よし決まりだ」


 デート先も決まったところで、後は学校のことを聞くなどして恋人との会話を目一杯楽しんだ。気がつけばあっという間に小一時間も経過していた。


『すみません、お仕事中に長々と話してしまって』

「いや、楽しかったよ。まずは星花祭、頑張ろうね」

『はい。先生も体にお気をつけて。お酒はほどほどにしてくださいね?』

「うん。ほどほどにしとく。おすやみ、ことりちゃん」

『おやすみなさい、わかな先生』


 通話を切った。たった一本しか飲んでいないのに、はしご酒した後のように良い感じで酔いが回っている。頭も冴えてきて、活力が漲ってきた。


 これが愛の力だというものを、自分の体でも身に沁みてわかったのであった。

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