2. 魔女の一撃
空の宮市に本社を置く複合企業、天寿。それは立成四年に伊ヶ崎波奈が大学在籍時に立ち上げた小さな化粧品販売会社から始まった。
それからわずか十四年の間に、アパレルや食品、コンビニエンスストア経営とアメーバのごとく様々な事業に貪欲に手を伸ばし、いずれも大成功を収めてきた。今や天寿は地方都市の会社にとどまらず、日本を代表する企業へと脱皮しつつある。
天寿の躍進は、伊ヶ崎社長の斬新なアイデアで生み出された数々の商品が支えてきた。もっともこれらは社長が一から十まですべて作り上げたわけではない。彼女が思い描いた商品を具体化し、世に送り出すのが商品開発研究部の役割である。
市北東部の天寿本社から少し離れた場所にある、「天寿空の宮研究所」に商品開発研究部は設置されている。伊ヶ崎波奈の祖父がかつて経営していた食品会社の小さな研究所をベースとして、化粧品や衣料に関する基礎・応用研究も含めた科学研究所として発展させた、天寿の英知の殿堂と呼ぶべき場所である。
永射わかなは商品開発研究部第六研究室に所属している。この部署は食品に関する応用研究を行っており、わかなも入社以来、新規人工調味料の開発をテーマとして研究を行っていた。
わかなは研究員のみ着ることの許される水色の制服に着替えると、IDカードをリーダーにかざしてロックを解除し、研究室に入った。
「おはようございます」
といってももうすぐ正午に差し掛かろうという時間帯である。しかし誰も咎める声はない。研究職は完全フレックスタイム制を採用しているので、出勤時間は研究員の裁量に任されているからだ。
「おっはよう! 永射くん!」
室長の源五郎丸恭一郎が白い歯を見せつけるように挨拶した。なぜか制服を着ておらずタンクトップ姿だが、鍛えに鍛え抜かれた筋肉のおかげでぱっつんぱっつんになっている。両手にはハンドグリップが握られていて、ギュッギュッと握るたびに胸の筋肉までピクッピクッと動いて、ツルツルスキンヘッドの頭に血管が浮き上がる。どこからどう見ても肉体派だが、こう見えても京都大学大学院理学研究科出身のエリートである。
「んんんん~!! どうした永射くん、顔色が良くないぞ! 飲みすぎたんじゃないかね?」
「いえ、酒は残ってません。ただ……」
わかなは腰をさすった。
「ちょっと腰を痛めてしまいまして」
「オウッ!!」
源五郎丸が口をすぼめた。
「何か重い荷物でも持ったのかね?」
「はい、そんなところです」
真っ赤なウソである。わかなは昨晩、早智と飲んだ後に出会い系アプリで知り合った女性とホテルで一夜を過ごした。事の詳細は大人の事情で書けないため、そこで無茶して腰を痛めた、ということだけは記しておく。
「そりゃいかん。今日にでも病院に行きなさい。ちょうど近くに良い病院があるから」
「夜野医院でしたっけ」
「そうだ。午後の診察時間は三時からだが、真っ先に行った方が良い。何せ腕の良い医者夫婦が経営していると評判で、結構混むからな」
「わかりました。後で一旦抜けさせて頂きます」
わかなはオフィスルームに入ってパソコンを立ち上げた。椅子に座っているときでも少し動いただけで電撃を流されたような痛みが走り、思わず顔をしかめてしまう。現在、査読者の要求を受けて論文の修正を行っている最中だが、痛みで集中できず何度も英語のスペルを間違える程であった。
「永射氏、今の話聞いたよ。つらそーだね」
丸眼鏡の女性研究員がコーヒーを差し出してきた。
「ありがとうございます、武士沢さん」
「頼むよー。その論文通してさっさと博士号取ってもらわにゃ、あたしゃ気持ちよく引退できないからね」
先輩研究員である武士沢李は東京都内の私立大学から教員になって欲しいと誘いを受けており、今年度で天寿を去ることが決まっている。彼女も天寿に務め出した後から博士号を取得したクチだ。
ただ、わかなのケースは少々特殊である。彼女は研究員にしては珍しく修士号も持っていない。天寿は経歴、学歴問わず人材を採用するので、知識と技能があれば学位に関係なく研究職にも採用してくれる。だがあくまでも天寿が例外なだけで、他大学や企業の研究者と仕事をする場合は博士号を持っていないとまともに相手にされないケースが多々ある。だからわかなも博士号取得を伊ヶ崎社長から薦められていたが、事実上の業務命令であった。
先輩の武士沢研究員は博士号を取った途端に転職を決めたが、他の場所に活躍の場を求めて退職する分に関しては、研究所は寛大である。その分天寿には人材がいるというアピールになるし、大学や他企業との間にコネクションができるかもしれないからだ。ただし、わかなは今の所天寿を去ることを考えていない。今はただ論文を再提出して通すことに集中していた。この論文が通れば三報目であり、論文博士の取得に最低限必要な業績をクリアできる。
「まっ、女遊びは程々にしときなよ」
武士沢がポンポンと強く肩を叩いてきた。その振動が腰にビリッ、ビリッと伝わり、わかなはたまらず「うぐっ」と声を漏らした。
「相当重症っぽいなー。病院まで行けるの?」
「正直、きついです」
「よーし、武士沢さんが送り迎えしてやろー」
武士沢は片手を差し出した。
「送迎代は野口英世二人分ね」
「うぐっ」
*
夜野医院は空の宮市北東部にある個人経営の小さな病院である。しかしながら医者夫婦の親切な対応と的確な診断力が評判となり、市の中心部はおろか近隣自治体からもわざわざ足を運んでくる患者がいる程である。
だから源五郎丸室長の言った通りわかなは午後三時に受付しに行ったのだが、すでに待合室は満杯状態で、一時間待たされてようやく診察となった。整形外科担当は妻の女医の方であった。女医は問診票に目を通し、
「永射さんですね。腰を痛めたとのことですが」
にこやかに語りかけてきた。数多の女性を相手してきたわかなの目が、本能的に値踏みを始める。
――タレ目でおっとりした雰囲気
――大きめの胸
――落ち着いた声
――乱れたときのギャップがたまらないだろうなあ
「はい、ちょっとここのあたりが」
「歩くのもしんどい感じですかね」
「歩けないことはないですが、座ってても痛いです」
「わかりました。ではちょっとそこにうつ伏せなってもらえますか」
わかなは言われるまま、診察台の上にうつ伏せになった。
「痛かったら言ってくださいね」
女医は手のひらで背中の右を押してきた。痛覚がたちまち神経を伝って脳に届く。
「あ、そこめっちゃ痛いです!」
「ここですか」
女医はなぜかとどめとばかりにダメ押ししてきたから、悲鳴が出そうになった。
「骨折はしていないようですが、念の為レントゲンを撮ってみましょう」
淡々と話されたから、わかなは少しむかっ腹が立った。評判通りの親切さは感じられず、レントゲンを撮られている間、想像の中で女医を思いっきり攻め立ててひぃひぃ言わせたのであった。
特に骨折等異常はなく、隣の薬局で鎮痛剤と湿布をもらった後、武士沢が運転した社用車に乗り込んだ。七月の厳しい暑さの中、クーラーがよく効いて気持ちがいい。
「お待たせしました」
「あまりに長かったからそこら辺をドライブしてきちゃったよ。どうだった?」
「単なるぎっくり腰でしたよ。しかしなかなか荒っぽいことをされましたね」
わかなは先程されたことを愚痴った。
「災難だったねー。ま、しばらくは夜の運動(意味深)を控えて治療に専念しなよ」
武士沢はサイドブレーキを解除し、シフトレバーを「D」に入れた。
病院を出てすぐ、わかなは「ちょっとそこで停めてください」と、道路脇にある自販機コーナーに車を停めさせた。
「痛み止め飲むんで水買ってきます。武士沢さんも何か飲みます? 送迎代とは別におごりますよ」
「んーと、じゃあリアルボールドちょうだい」
「了解です」
ドアを開けて降りると、たちまち痛みが走る。
「はあ、年は取りたくないもんだな」
わかなの口からぼやきが漏れ出る。まだ四捨五入してようやく三十路という年齢だが、よりお盛んだった十代の頃に比べるとやはり少し衰えている感がある。昔は一度に五人ぐらい相手にしたことがあったが、多少激しくしても腰を痛めなかったし、ことを終えてもまだ体力が有り余っているぐらいであった。
天然水とリアルボールドを買って戻ろうとしたときである。自転車を漕いでいる女の子が、わかなの目の前を通過していった。
その子はわかなの出身校、星花女子学園の制服を着ていた。しかしわかなは制服ではなく、着ている人物に目を奪われた。
――ふんわりとした髪の毛
――ほんわかとした微笑み
――全身からただようイノセントな雰囲気
――頭に輪っかをつけたらまるで天使のようだな
「永射氏ー?」
車から声をかけられて、ハッと我に返った。
「すみません」
なるべく痛みが最小限になるよう、ゆっくりと助手席に乗り込んでリアルボールドを武士沢に渡すと、肘でこづかれて腰にビリっと痛みが走った。
「永射氏さ、さっき通った女の子に見惚れてただろ」
「まあね。ちょっと可愛いなと思いまして」
「ロリもいけるとはねえ……ちょっと引くわ」
「私はロリコンじゃありません。単に可愛いと思っただけです」
そう言って早速、天然水で鎮痛剤を流し込んだ。
明後日の土曜日は、星花女子学園に足を運ぶ予定である。わかなは科学部の顧問という肩書きも持っており、ほぼ月に二度の割合で化学や生物研究の指導のために学校に赴いている。ほんのわずかだが手当ても出るので、飲み代を稼ぐためにも後進の育成に精を出していた。
土曜日にまたあの子に会うこともあるのだろうか、とぼんやり考えていたが、すぐさま論文のことで頭が一杯になってきた。だいぶ時間をロスしてしまったから、戻ったらすぐに仕上げてしまわねばならならい。
タイトルはドイツでのぎっくり腰の呼び名だそうです。