19. 騒ぎの後
「はーい、お兄ちゃんだよー」
ことりの背筋に寒いものが走る。三人組の容貌は輩という表現がふさわしく、群衆の中であからさまに浮いていた。
「ねえねえ、一人で来たのー? かわいいねー」
「俺たちと一緒に回ろうぜー」
こんな人混みの中で堂々とナンパをしてくるのは想定外にも程があった。
やめてください、とただ一言叫べば周りが異常に気づいてくれるはずだ。しかしことりは全身が金縛りにあったかのようになり、何もできずにいた。満員電車で痴漢にあっても恐怖で身がすくみ助けを呼ぶことができないのと、全く同じ状況に陥ってしまっていたのである。
「返事しねーってことはOKってことでいいんだよねー」
「じゃ、早速一緒に行こうぜー」
「ついでにもっと良い所に連れてってあげるからねー」
三人組の一人がことりの口を塞いで、引きずるようにしてその場から連れ出そうとした。周りはステージに気を取られていて気づかない。
――先生!!
心の中で必死に叫ぶ。
きっと、日頃の行いが良いおかげで天に通じたのであろう、ちょうどステージから降りようとしたわかなと、ことりの目が合った。
わかなは異変を察知したようで、柳眉を逆立てると司会からマイクをひったくって指を差して怒鳴りつけた。
「おいっ! 何をやってるんだ! そこのアロハシャツ三人!」
周りの注意が一斉に差した指の方向、ことりと輩たちに向けられた。わかなはマイクを司会に投げ返し、階段を使わずにステージから飛び降りた。
「やべっ、逃げろ!!」
輩たちはことりを突き飛ばして逃げ出した。尻もちをついたことりは、そのまま這いつくばるようにして中庭の端へと退避する。
そこへ、わかなが群衆をかき分けて駆けつけてきた。
「ことりちゃん!」
「先生……!」
安心したことりは声が出せるようになり、感極まってわかなに抱きついた。するとうぐっ、といううめき声が上がって、わかなの体がヨロヨロと地面に崩れ落ちた。まるでことりが押し倒したような格好になってしまった。
「あっ、ごっ、ごめんなさい先生!!」
「ははは、大胆だなあこんなところで」
「いっ、いやっ、その……」
わかなは身を起こして、今度は自分からことりをぎゅっと抱きしめた。
「君が無事で良かった」
「先生……」
「だけど、私の方は無事じゃないようでね」
「え?」
「どうも左足を挫いてしまったらしい。さっき飛び降りたときに。今になって急に痛みだしてきた」
「わわっ、早く応急処置をしないと!」
ことりの頭が、とっさに保健委員モードに切り替わる。学園の生徒たちの協力で保健室に案内してもらい、養護教諭と一緒にわかなの手当をした。
「物凄く手際が良かったわねえ。うちの保健委員でもここまでパパッとできる子はいないわよ」
養護教諭は中年の女性でいかにもベテランという感じであった。年季の入った彼女に褒められたことりは照れながらもお礼の言葉を述べた。
わかなはベッドに寝かされ、左足首に包帯が巻かれその上に氷嚢が乗せられている。足の下にはタオルが敷かれて心臓より高い位置に挙上された格好になっている。ことりは応急処置の原則「RICE」を適切に実行していた。
「腰の次は足か。二十代後半になって体にガタが来はじめたかな」
「二十代後半はまだ若いでしょ。そんなこと言うもんじゃありませんよ」
養護教諭に軽く叱られたわかなは肩をすくめた。
「ことり!」
保健室のドアが開くなり、ことりの兄、丈太郎が飛び込んできた。彼の先輩と、わかなの弟の慎之介も一緒で、その後ろには「風紀」と書かれた腕章をつけた屈強な生徒たちもいた。
「無事だったか! 変な奴らにさらわれそうになったって聞いたぞ」
「うん、私は大丈夫。先生が助けてくれたから」
「ああっ、怪我してるじゃねーか! まさか犯人にやられて……」
わかなは大声で笑い飛ばす。
「犯人は関係ありません。ちょっといろいろあってステージに上がることになって、慌てて飛び降りましたからね」
慎之介の方に露骨に目線を向けると、わざとらしい咳払いが返ってきた。もう女装姿ではなく、夏の制服に戻っている。
彼は風紀委員と一緒に、ことりに向かって「申し訳ありませんでした」と頭を下げた。
「せっかく来てくれたのにこんな目に遭わせてしまって……でも、犯人は風紀委員が捕まえたから安心して」
「ありがとうございます。あまり気になさらないでください。悪いのは犯人ですから」
今はもう、自分が襲われたことよりもわかなの怪我の方が気になっていた。本人は「右足じゃないから車は運転できるよ」と平然としていたが、安静にして改めて病院で診てもらった方が良い、と念押しした。今日が日曜で病院が閉まっていなければ、無理にでも外に連れ出していたのだが。
風紀委員が話を聞きたいというので、その場で事情聴取が行われた。負担を考慮してくれたのか短時間で終わり、改めて謝罪の言葉を述べて退室していった。その折にお詫びの品としてアイスクリームをくれた。市販ではなく、屋台で出されているのを慎之介が買ってきたものである。もちろん、姉の分も一緒に。
ことりは健康のために甘いものを必要以上に食べないが、誠意を無駄にできないから頂くことにした。
「あ、美味しい!」
「ふむ、市販品と味が全く違う。手作りだな」
ことりは味の良し悪しを述べたのに対して、わかなは味の違い。別々の類の感想が出てきた。
「さすが姉さん、甘味料の研究をやってるだけあるね」
「まあね」
「じゃ、僕はこれで失礼するよ。お大事にね、姉さん」
慎之介は手をひらひら振って退室した。
「ことりちゃん、私はもう少し休んだら帰るよ。君はお兄さんと一緒に遊んでおいで」
「いいえ、ここにいさせてください」
ことりは即答した。これ以上どんな出し物を見ても面白くないような気がしたからだ。決して、輩たちのせいで気分が台無しになったからではない。好きな人と一緒にいる方が楽しいという、単純明快な理由に他ならない。
「わかった。君がそう言うなら」
わかなは拒絶しなかった。もしかして先生も私と一緒にいたいのだろうか、と若干自意識過剰になる。
「そうか。じゃ、俺は引き続き先輩とウロウロしとくわ。もし保健室から出るなら連絡してくれよな。今度は俺が守ってやるから」
丈太郎も先輩と一緒に退室して、後は自分とわかな以外にいるのは養護教諭のみ。その養護教諭のケータイに電話がかかってきた。
「あらあら、ちょっとごめんなさいね」
そう言って席を外すと、「今の時間はかけちゃだめって言ったのに」と電話の相手に少し怒りながら隣室に移動していった。話し方からして相手は恐らく家族だろう。
「二人だけになったね」
「そうですね」
アイスクリームは二人ともすぐに食べきってしまった。せっかく二人きりなのに何か話さなければ、と思いつつも、わかなのことを意識しすぎてか話題がスッと出てこない。
中庭の方から、けたたましい音楽と歌声が聞こえてくる。先程まで事件が起きていたのがウソのように、また賑わいを見せはじめたときであった。
「あまり面白くない私の昔話、聞きたいかい?」
わかなの方から、口を開いてきた。




