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14. わかなの過去 その2

 体の関係で終わるはずが、ほんの自然な成り行きで藍那と恋人どうしになった。どちらかから正式につきあおう、と言ったわけではない。気がつけば授業とバイト以外のほとんどの時間を、藍那に費やしていた。一人の女性にこれほどまで熱を入れたのは初めてであり、日替わりランチのように女の子をとっかえひっかえしていた高校時代とは全く違う生活となったが、全く悪い気はしなかった。


 N大学理学部では、一年生の頃は特定の学科に所属せず理系科目全般を学ぶ。小学生の頃から理科は大の得意だったので座学は難なくいい成績を取ったが、苦労したのは基礎化学実験であった。学生実験は高校までの理科室の実験と違い実験中は実験ノートをしっかり取っているか厳しくチェックされ、レポートも論文の作法に則って理路整然と書かなければ評価されない。とりわけ基礎化学実験では化学科の矢崎という厳しい教授が学生たちの頭痛の種となっており、わかなですら例外ではなかった。


「なあ藍那、矢崎のオッサンどうにかなんないのかなあ」


 藍那お手製のシチューを頂きながらぼやく。二人きりでいるときは気軽にため口を利くようになっていた。


「自分じゃどうにもならないことを悩んでも仕方ないでしょ」


 傍らには矢崎教授に返却されたミョウバンの合成実験のレポートが無造作に置かれていた。彼には罵倒じみたコメントをつけて返す悪癖があり、わかなはギリギリ合格のC評価を貰ったが「小学生の作文以下」とデカデカと赤ペンで書かれて返されていたのである。


「私なんかD評価再提出で『幼稚園児の落書き以下』って書かれたんだからね」

「きっついなあ、それ」

「だから私は化学科に行きたくなかったの」


 藍那が生物学科に進学したのは消極的な理由と知って、わかなはつい笑ってしまった。


「わかなも生物学科に来なよ。藤岡先生いるし」

「ああ、ニュースで話題になってたよね」


 生命科学科教授の藤岡豊はこの年、微生物由来の酵素の研究で大発見をして日本人女性初のノーベル賞候補とも噂されていた。


「講義は丁寧だし、優しくて良い先生だよ。卒業研究は藤岡研でやりたいな」

「だけど人気が高いんだろ? 研究室の応募者が定員を超えるとくじ引きで決められるって聞いたけど」

「大丈夫だよ。わかなとつきあいだしてから運気がどんどん上がってきているもん。くじ引きも何のそのよ」

「理系のくせに非科学的だな」


 そうからかったら、藍那は可愛らしく頬を膨らませた。わかながそれをつっつくと、二人して大笑いした。このときの二人はまだ幸せの真っ只中にいた。


 翌年にわかなは生物学科に進学し、さらにその翌年には、藍那は無事高倍率の抽選をくぐり抜けて藤岡研究室所属となった。それと同時に大学での拘束時間が倍以上に長くなった。今まで一限目に授業があるときでも八時半登校だったのが八時となり、下校は五限目終了時刻の午後六時ではなく、早くても十時、日付が変わるのもしょっちゅうであった。


 この年から藍那はわかなの下宿先に同棲するようになった。仲がそれだけ深まったのもあるが、主に上記の事情によるものが大きかった。今まで藍那は下宿先から電車通学していたが、帰りは終電の時間を過ぎているということもしばしばあった。しかしわかなの下宿先は大学まで徒歩五分の好立地であったため、終電以降になっても歩いて帰ることができた。おかげで研究室の仮眠ベッドで眠らなくても済んだのであった。


 ある日の土曜日、午前二時を回っていたがわかなはまだ起きていて、遅く帰宅してきた藍那に栄養ドリンクを差し出した。


「おかえり。はい、ノンカフェインの愛情一本」

「ありがとう」


 一息で飲み干すと風呂に直行してシャワーを浴び、下着姿で出てきた。


「資料作っておいたよ。後で良いから目を通して」

「相変わらず仕事が早いね」


 藍那はサイテックガールズの会長に就任しており、忙しい合間を縫ってサークル活動をしていたが重要な仕事は比較的時間のあるわかなに割り振っていた。先輩たちの努力のおかげでサイテックガールズ会員は着実に数を増やし、その分忙しくはなったものの充実していた。


「わかな。明日ていうかもう今日だけど、街の方に出かけようか」

「良いよ。たまには息抜きしないとね」

「ほんと、卒研は滅茶苦茶しんどいよ。わかなも今から覚悟しときなさいよ」

「ふふっ」


 二人一緒にベッドに潜り込むと、そのまま一緒に夢の国へとデートしに行った。体を重ねる回数は減ってはいたが、お互い満足のいく生活を送っていた。


 そしてさらに翌年。わかなは藍那の後を追って藤岡研究室配属となり、卒業研究に打ち込むことになった。藍那もそのまま大学院に進み、研究室の先輩後輩の間柄になった。


 お互い忙しい身になってプライベートの時間は削られたが、一緒に過ごす時間はかえって増えた。早朝から深夜まで実験漬けであっても辛いと感じることは無かったし、彼女から受け継いだサイテックガールズ会長職の仕事も順調であった。


 この頃になると、わかなは将来像を明確に描いていた。指導教官の藤岡豊教授は講義や学生実験で接したことがあったが、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」を地で行くがごとく物腰が柔らかく、それは研究室でも変わらなかった。だからこの人の下でもっと研究がしたいと思い、修士号と博士号を取った後でも藤岡教授が許すならば大学に残って一緒に研究するつもりでいた。


 ただそれは建前であり、第一の理由は藍那と一緒にいたいがためであった。大学生活の大半はすっかり藍那と一緒に作った思い出で埋め尽くされていて、それは大学院に進んでも続くものだと確信していた。


 卒業研究の中間報告会の日。発表が終わった後は打ち上げがあり、その後大学に戻って研究室で二次会となった。わかなは前日も夜遅くまで資料作りと質疑応答対策に明け暮れていて脳がほとんど働いていなかったにも拘らず、発表では高い評価を貰って教授にもお褒めの言葉を頂いたから上機嫌で酒をあおった。


 わかなは藍那と一緒にベロベロに酔っ払った状態で帰宅し、部屋の中に入った途端に唐突に藍那の唇を唇で塞いだ。


「んっ、はぁっ……ちょっと、何すんのいきなり」

「最近ご無沙汰だっただろ? 頑張ったんだからご褒美くれよ」

「もうっ、明日もあるのに……」


 そう口では言いつつも、たちまちわかなのなすがままとなった。


 二人が再び目を覚ましたのは、昼過ぎになった頃であった。


「こりゃ先生に怒られるな」


 そうぼやいたら、藍那に軽く頭を小突かれた。それでも二日酔いのせいでひどい痛みを感じた。


「ま、ヤッちゃったものは仕方ない。今度わかなの奢りでご飯ね」

「どうも」


 わかなは頬にキスをした。これが最後のキスになるとは、このとき露とも思っていなかった。


 大学院の入試に合格し、進路を確定させたわかなは研究に集中した。藍那も藤岡研究室のホープとして一目置かれる存在となっていて、学会発表で教授とともにあちこちを飛び回ることが多くなった。わかなはいつかは自分もとばかりにハードワークをこなし、卒研生の中で一番大きな成果を上げていた。


 二月に入り、卒業研究の最終報告会に向けて準備していたときであった。藍那はどうしても泊まり込みの実験があるというのでわかなだけ先に帰宅したのだが、寝る前にふと自分が今日抽出したタンパク質のサンプルをちゃんと冷凍保存したかどうか気になった。別の研究室でタンパク質をうっかり常温下で放置してしまい指導教官に怒鳴られた同期がいたので、同じミスをすると恥をかくことになる。


 藍那に電話して確認してもらえれば簡単であったが、彼女にも仕事がある。やはり自分の目で確認しようと決めたわかなは急ぎ足で研究室に戻った。明かりはついていたが、藍那の姿は見えなかった。微生物の振とう培養機が作動したままになっていたから、実験中であることは確かだった。


「トイレかな」


 きっとそうだ、とわかなは考えた。


 冷凍庫を開けて間違いなく自分のサンプルが入っているのを確認したので、帰ることにした。そのついでに他の研究室の様子もどうなっているか、ほんの気まぐれで見てみることにした。大概どこの研究室も毎夜一人か二人は徹夜している学生がいるものだが、この日は藤岡研究室以外どこも閉まっていた。


「ふうん、珍しいこともあるもんだ」


 端まで見回ると、教員たちのオフィスがある箇所に出た。そこの近くにエレベーターがあるのでそれを使って降りようとしたときである。藤岡教授のオフィスから、何やら物音がするのが聞こえた。


「藍那?」


 オフィスに出入りしようとする人間は藍那しかいない。しかし教授はとっくに帰宅しているはずである。不審感を抱いたわかなはオフィスのドアのノブに手をかけた。回して軽く押すと、ゆっくりと開いた。


「ああっ……」


 その声は、どういうときに出る類のものかわかなは良く知っていた。しかも一人分ではなかった。


 わかなが照明のスイッチを入れると、悲鳴が上がった。一番悲鳴を上げたかったのは、わかなの方であった。


「先生……藍那……あんたら何を……!!」


 おぞましい光景であった。藍那はデスクの上で股を広げ、藤岡教授がそこに顔を埋めていたのだから。しかも、二人とも何も身につけていないままで。


 怒り、悲しみ、絶望。ありとあらゆる負の感情が電流となって全身をかけめぐり、過負荷に耐えかねた体が崩れ落ちた。


 それから先、どうしたのかはほとんど記憶に残っていないが人から聞いた経緯はこうだ。気が動転した藍那が救急車を呼んで病院に搬送されたが、当然ながら大学に事情を説明することになった。藤岡教授は既婚者だったので不倫を知られまいとして口裏合わせをしたようだが、一流の研究者らしからぬ稚拙な対応であった。意識が戻ったわかなに全てを暴露されて、大学が調査に乗り出すまでに至った。最も、スキャンダラスな事件が外部に漏れたら一大事なので秘密裏に行われたが。


 一連の出来事は悲劇的な結末を迎えた。事件の二日後、藤岡教授は車ごと山道の崖から落ちて死亡したのである。世間は不運な交通事故で偉大な女性科学者の一人の命が失われたことを嘆き悲しんだが、真相を知る者にしてみれば追い詰められて自殺したことは明らかであった。


 大学側も調査をやめて、死人に口なしとばかりに隠蔽工作に走った。実家に戻って療養していたわかなに治療費と口止め料を支払い、最終報告会を免除して卒業できるようにした。大学院では希望する研究室に優先的に配属できるよう便宜を図るとも申し出てきた。


 だがわかなはどれも固辞し、大学院進学も取りやめることにした。もはや研究を続けられるような精神状態ではなかったし、研究を続ける意味もなくなってしまった。


 藍那はかつて裏切られた経験があるのに、どうして自分を裏切るようなことをしたのか。いつから裏切っていたのか。その理由が明らかになる日は恐らく来ることはない。藍那は藤岡教授の死後精神に異常をきたして、何も聞き出せなくなったからである。あまりにも酷い状態になっているらしく、家族の意向でどこの病院に入院しているのかも教えられなかった。


 藤岡豊は藍那の精神を道連れにしていった。いや、藍那の方からついて行ったとも言える。今でも唯一心の底から愛した人間を奪い取った藤岡のことは墓を暴いて骨を砕きたいぐらい憎み続けているし、藍那も同罪とみなしていた。


 わかなは再び、わけもわからないまま不特定多数の女性と愛のない情交を結ぶようになってしまった。その際にかつて愛していた女性の名前を偽名に使うのは、憎悪と未練が同居しているからに他ならない。

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