11. 博士の道
「うわははははは! おめでとさん!」
「ありがとうございます」
スカーレット=ムンロ所長がわざわざ第六研究室まで出向いてわかなを労ったのには理由がある。
「これで学士から博士へクラスチェンジするためのアイテムが揃ったのう!」
日本には大学院に進学しなくても博士論文を大学に提出し、審査に通れば博士号を取得できる論文博士制度がある。当然ながらただ書いて出せば良いというものではなく、大学によって要件は異なるが最低でも三報ほどの投稿論文を必要とするところが多い。
わかなは博士号を取得するよう社長から勧められていた。だから三報目の論文が受理されるや研究室は祝賀ムードに包まれ、所長もお祝いの言葉をかけに来た次第である。
「査読者の一人が何度も何度もネチネチと重箱の隅をつつくコメントを出してつっ返してきましたが、室長と相談して思い切って査読者を代えてくれって編集者に頼んだのが功を奏しました」
「うむ、ようやった!!」
スカーレット所長は一枚の紙を渡してきた。
「ちゅーことで、早速クラスチェンジに向けて動こうか」
「これは?」
わかなが紙を広げると、まず女性の顔写真と地図が目に飛び込んできた。書かれている文字に目を移すと、それは大学教授のプロフィールと在籍大学の概要であった。
「立成大学理学部化学科教授、柵原佐和子。博士論文の主査になって頂く予定の先生や」
「立成大ですか」
「んー? 不満かあ?」
スカーレット所長がニタニタしながら上目遣いで見てきたが、正直にその通りですとは言えるはずがない。
武士沢の場合は国立大学に博士論文を提出したし、他の先輩研究員も国立大学で博士号を取っていた。それに引き換え立成大学は名前の通り立成二年に創立されたばかりの私立大学で、ネットの一部ではFラン大学と馬鹿にされているところである。
「まあ、ちょいと座って話そうや」
わかなは自分のデスクに、スカーレット所長は源五郎丸室長のデスクに勝手に着いた。
「立成大は実績こそ皆無に近いが、理学部には実は国立大学に負けんぐらいの最新の研究設備が整っとってな。伊ヶ崎はんも将来の産学連携のパートナーにしたいと考えとるぐらいなんよ」
「要するに政治的理由ですね。コネクションを築く準備としてまず私を送り込む、と」
「ま、そういうことや。彼方はんもはよう永射に博士号取らせろって言っとるさかい、頼むで」
副社長の彼方結唯の名前まで出してきたということは、暗に「会社が決めたことだからお前に選択肢は無いぞ」と言っている、ということに他ならない。
「わかりました。幸い立成大は実家にも近いですし、いろいろとやりやすいかと思います」
「ついでに教員への転職も斡旋したろか?」
わかなは苦笑いした。若干皮肉をこめた返事をしたのだが、相手はイギリス人だということをすっかり忘れていた。
そういうわけでわかなは早速、立成大学へと足を運んだ。県庁所在地、S市郊外にあるキャンパスは夏季休暇中とあって閑散としているが、理学部校舎の研究棟には学生、院生たちの姿が見られる。
「ねえ君」
わかなは通りすがりの白衣を着た女子学生に声をかけた。
「はっ、はい」
相手の声は裏返っていた。
「柵原佐和子先生に会いに来たんだけど、オフィスはどこかな?」
「あっ、あっ、はいっ。私、柵原研の者なのでご案内します!」
女子学生はまるで推しのアイドルが目の前にいるかのように舞い上がっている。かつて星花女子学園の「白衣の君」として君臨していた頃も、声をかけるだけで簡単に理性を失わせることができていたものだが、今でも「白衣の君」の魔性は健在といったところである。
「君、卒研生? それとも院生?」
「卒研生です」
「院には行くのかい?」
「はいっ」
「そうか。時期的にもうすぐ入試なのに、勉強も研究もちゃんとやってて偉いね」
「ありがとうございます!」
などとおしゃべりしながら案内して貰っている最中でも、しっかりと値踏みはしていた。容貌は上の中に入るレベルである。かつ、白衣の上からでもくっきりわかる程の豊満な胸を持っていて、女旱になりがちな理学部だとさぞかし男の視線を釘付けにしていることであろう。一瞬、男なんかよりも良い世界がこの世にあることを教えてやりたい衝動に駆られそうになったが、ここは神聖な学び舎だ。
「ここです」
女子学生がドアをノックすると、どうぞと声が返ってきたので開けた。
「失礼します。柵原先生、お客様がお見えになりました」
「お客様……ああっ、はいはい」
パーティションから出てきた柵原佐和子教授は、老年に差し掛かっている白髪頭の女性であった。雰囲気はのんびりしているが、合成化学の分野でおびただしい数の実績を上げている女性科学者である。
「はじめまして、天寿から来ました永射わかなと申します」
「柵原佐和子です。ムンロ所長からお話は伺っております。さあどうぞおかけになってください」
わかなは失礼します、と断りを入れてから、応接テーブルのソファーに座った。柵原教授は紙束を携えてきたが、前日にメールで送付した資料である。その中から履歴書と研究業績書を抜き出して、軽い雑談から本題に入った。
「ええと、永射さんはN大学の理学部生物学科卒で……化学科卒ではないのね。それでいて天寿では主に調味料の開発、有機化学分野に関わる研究をやっていると。畑違いの分野なのによくやっていらっしゃいますね」
「元々化学も得意でしたから」
「それでもこの若さで実績を出しているのだから大したものですよ。私のところの院生でもここまでやれているのは少ないです」
そう言いながら、今までわかなが投稿してきた論文の写しに目を通す。すでにあらかた読み込んでいて頭の中に入っているかもしれない。
「研究内容は申し分ないですが、最高学位を目指すのであれば当然、審査は厳しいものとなります。その辺は覚悟しておいてくださいね」
「はい」
「ところで、これは論文とは関係ない話ですが少し気になった点がありまして、お伺いしてもよろしいかしら?」
「何でしょう?」
「天寿に入社したのが九月と、卒業から若干の空白があるのですが」
就職面接でも無いのに、何でよりによってそこを突いてくるのだろうか。わかなは不快感を顔に出さないようにして、
「ちょっと体を壊しまして、入社時期が遅れました」
建前としてそう答えると、
「そうですか」
返事はそれだけであった。就職面接だと健康面に不安を感じた面接官がこれでもかとしつこく突っ込んでくるところだ。
だがこれでおしまいではなかった。
「あと、大学の卒業研究のテーマは何だったのかしら?」
それは振り返りたくもない過去に迫ってくる、わかなにとっては極めて悪質な質問であった。学会で意地の悪い学者がこの分野には詳しくないのですが、と白々しい前置きをしてから、質疑応答の時間を不勉強な発表者の糾弾会に変えてしまうのと同じ程の。
だが先程のようにごまかすことは不可能であろう。学問の世界というのは広いようで狭く、柵原教授はどこかでN大学と繋がりがあっても不思議ではない。仮に教授がわかなの回答を裏取りして下手にごまかしたのがバレると信用問題に発展し、ひいては会社の名前に傷をつけることになってしまうかもしれない。
「藤岡豊先生の下で、微生物の酵素を研究していました」
わかなはゆっくりと、しかし、洗いざらい正直に答えた。
「まあ、藤岡先生のところで」
やはり、藤岡豊教授の名前は知っているようである。それもそのはずで、一時期は日本人女性初のノーベル賞候補とも言われていた研究者であったからだ。不幸にも四十半ばにして交通事故で亡くなって幻のノーベル賞受賞者となってしまい、世間から早すぎる死を惜しまれたものであったが……
「先生が亡くなられたのは立成15年の2月だったから……まあ、永射さんは最後の教え子ってことになるのね」
「はい。実は私が体を壊したのも、藤岡先生が亡くなったショックで」
とっさに思いついたが、我ながら酷くて上手いウソのつき方だと自嘲した。
「そうだったの……変な質問をしてごめんなさい」
「いえ、大丈夫です」
思い出したくもない名前でも、相手の同情を買うのに利用できるものだ。
かつてわかなが唯一本気で恋をしていた相手、山川藍那を奪い取った人間にはその程度の価値しかなかった。