10. 謎の熱病
車は最初研究所の方に向かっていたが、途中で脇道に逸れていった。
ことりの家は市の東北部にあり、同じ地域にある天寿本社や研究所近辺の地理は把握している。車の行き先は丘であり、そこには市立の霊園がある。夜野家の墓もここにあるから何度も訪れたことがある場所である。
まさか墓参りするわけはないだろうと思っていたが、車は丘を登り、右手に霊園の入り口の門が見えるとスピードを落として右折した。
「お墓に行くんですか?」
「見てのお楽しみさ」
駐車場で車を降りてわかなと一緒に歩みを進めると、やはり墓に向かうようである。場所は駐車場のすぐ隣にあった。
霊園の敷地は「あ」「い」「う」「え」四つの区域に区切られていて、夜野家の墓は「あ」にあるがわかなに連れられた所は「え」であった。お盆シーズンだと多くの人が訪れるものの、今はわかなとことりの姿しかいない。
午後二時台は一日の中で気温が最高に達する時間帯だ。うだるような暑さと、騒音に近いセミの大合唱がストレスになるが、わかなは平然と口笛を吹きながら歩いている。
いったい何のためにこんな所まで自分を連れてきたのだろうか、とことりは不安に駆られた。墓参りには何度も来ているのに、見慣れている多くの墓石が今はとてつもなく不気味に感じられた。
やがて敷地の端に着いたが、そこには他の墓と比べてひときわ大きい御影石が鎮座していた。そこにはただ「供養碑」という文字が彫られているだけで、花や供物の類は無い。
「夜野君、これは何だと思う?」
「さあ、全くわかりません」
「天寿研究所での動物実験に使われたマウスやラットの供養に建てられたものさ」
「動物実験……」
わかなはうなずいた。
「毒性やアレルギーを調べるのに必要だからね。私の人工甘味料も腎臓や肝臓に蓄積してダメージが無いかどうか、動物実験で確かめられてから世に出たんだ」
「なぜこれを私に見せようと?」
「看護師志望なら、知っておくべきかなと思ってね。お家が病院だからとっくに知ってるかもしれないがね」
会食の中で、ことりは自分のなりたい職業について話をした。看護師となって人の命を救いたい。ナイチンゲールのようになりたい。今でも保健委員として生徒たちが健康でいられるよう努力している。食事をするのもいったん忘れるほどにそう熱く語って、わかなに感心されていた。
「意味がようやくわかりました。私は日頃いろんな薬を使ってますけど、どれも製造過程で動物たちが実験で犠牲になってますもんね……そのことを忘れちゃいけない、ってことですね」
「そういうこと。特に人の命を救うことに生涯を捧げたいのならね」
わかなは供養碑の碑文が向いている方へ回れ右をした。
「いい眺めだなあ」
ことりは視線の先を、わかなと同じ方向に向ける。その先には視界を妨げるものは何もなく、空の宮市の中心部がくっきりと見渡せる。きっと夜だと煌々と灯る明かりが素敵だろうな、と想像した。ここが墓場で無ければデートスポットに使えるぐらいに。
「動物たちも喜んでいるでしょうね。良い場所に供養碑を建ててもらって」
「だろうな」
そよ風が吹いて、霊園の木々をさわさわと揺らす。たとえそよ風でも暑さを和らげてくれるから心地よかった。
それにしてもわかなの立ち姿は実に様になっている。色気とでも言うのか、彼女の体全体から人を惹き付ける何かが溢れ出ているような気がしてならなかった。顔立ちが良いからか。背が高いからか。どこか妖しさを帯びた低い声をしているからか。それとも。
「どうした?」
「あ、いえっ」
視線がいつの間にか雄大な景色でなく、わかなに向いていたことに気がつかされた。
「私に見惚れたのかな?」
ニヤッ、と口の片端が上がる。
「そっ、そうじゃないです!」
「あはははっ」
ふんわりとしたボブヘアの上に、わかなの手が乗っかった。
「芯が強い子だと思ってたけどうぶなんだな、ことりちゃんは」
「こっ……」
ことりは気温が2℃ほど上がったような錯覚に陥った。武士沢にちゃんづけで呼ばれても気に留めていなかったのに、わかな相手だとなぜか恥ずかしさを覚えてしまう。
「あまり人のことをいじらないでくださいよ、永射先生……」
「わかなで良いよ。教え子たちもわかな先生って呼んでるし」
わかなが頭を優しく撫で回すと、顔から汗がじわっと滲み出てきた。それどころか息苦しさまでも覚えはじめ、心臓が早鐘を打ち出した。
生まれてこの方風邪すらひいたことがない身にとっては、この謎めいた熱病が何なのかわからない。
「あ、あの永……わかな先生。今日お家の料理当番なのでそろそろ……」
わかなは腕時計を見た。
「うん、ちょうど良い時間だな。帰ろう」
わかなは夜野医院まで車を走らせて、駐車場でことりを降ろした。土曜日は午後休診だから、もう一台も車が停まっていなかった。
「今日はありがとうございました。お気をつけて」
「ことりちゃんも気をつけるんだよ、って家はすぐそこだったな」
ことりの実家は病院の敷地内にある。景観を損なわないようにしているのか、病院と造りがよく似ていた。
わかなが軽く手を上げて挨拶すると、車は走り去っていった。
姿が見えなくなっても熱っぽさが収まらず、動悸もまだ続いている。ふらつき気味になりながらも家の玄関をくぐった。
「ただいまー……」
「おーっす」
出迎えたのは帰省中の兄の丈太郎であった。何か生臭い香りがことりの鼻をついた。
「丈兄、魚釣りに行ってたの?」
「おう、イワシが大漁よ! 今晩の料理を楽しみにしてな!」
丈太郎はキッチンの方に戻っていった。きっと釣ったイワシを捌いている途中だったのだろう。
ことりはキッチンに行かず、自室に入った。部屋の中は蒸し風呂のように暑くクーラーをガンガンに効かせたいが、ちゃんと28℃設定で。ベッドに腰掛けて休んでいるうちに、少しずつ熱っぽさは引いてきた。
今日は実は料理当番ではない。つまり、わかなに嘘をついていたことになる。あのときなぜ口から嘘が飛び出したのかわからなかったが、きっとあのままだと謎の熱で倒れそうだったから一種の生存本能が働いたのかもしれない。
動悸の方はまだ治まる気配がなかった。そのまま倒れ込むようにしてベッドに身を預ける。少し遅めの昼寝を決め込むことにしたが、その最中でもわかなの笑顔がまぶたの裏に映りっぱなしであった。
「私、どうしちゃったんだろう……」