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8 お誘い

 寮に戻ると、ベランダのカーテンが揺れていた。

 合同授業の疲れが出たのかうっかり教室で眠ってしまい、起きた時ままた夕方だった。入学式も終わり、校舎内に人の気配は少なかった。さすがに今日ばかりはハンナも帰っていた。

 筋肉痛と変な体勢で眠ってしまったので、あちこち痛む体に鞭を討ちながらやっとのことで三階の自室に到着する。そして扉を開けたら、カーテンが揺れていた。

 昨日帰ってからしっかりベランダの鍵をかけたと思っていたのだが。

 ウルスラはベランダに近づいて、外を確認する。何もない。首をかしげながらベランダの扉を閉めた時、足元を何かが通り抜けた。


「ひゃあ!」


 悲鳴を上げて飛びのく。そこには、猫ほどの大きさの黒い生き物がいた。三角耳にふさふさの毛が生えた生き物は、赤い目でウルスラをじっと見る。


「あれ? きみ……」


 首根っこを掴まえて持ち上げると、見覚えのある狼狐はきゅうんと泣いた。


「彼のことも君が助けれくれたんだってね」


 急に声がかかり、ウルスラはびくりと肩を揺らした。思わず狼狐を手放してしまう。狼狐は空中で体を捻りながらきれいに着地した。

 ウルスラは目を見開いてベッドの上を見た。いったいいつからそこにいるのだろう。いや、部屋に入った時はまず間違いなくいなかった。漆黒の服に身を包み、上半分だけの仮面をつけた黒髪の青年が、長い足を優雅に組んでベッドに座っていた。

 魔法を使った痕跡のきらめきが彼を包んでいる。


「怪盗ナハト」

「昨日はどうもありがとう。改めて礼を言おうと思ってね。斥候である()がいなくて、昨日は失敗してしまったけど、君のおかげで大切なものを失わずにすんだようだ。君は私の女神だな」


 ナハトは立ち上がり、流れる動作で礼をする。様になる動きだ。作法の良し悪しのわからないウルスラですら、見とれる。


「えーと。呼んでませんけど?」


 その前に不法侵入だ。怪盗の彼に言っても仕方のないことだろうけど。


「確かに呼ばれていないな。けれどきっと君は私を呼ばないだろうと思って、出向いたまでだ。命を助けてもらったお礼を改めてしたい。ヴォルフォクスの分も」


 と言って、足元で耳の裏をかいている狼狐をさす。


「それに、私と会ったことを誰にも言わず、秘密にしてくれた」


 とろけそうなほど甘い笑みを浮かべ、付け加える。

 ナハトのことを言わなかったのは、ウルスラの方の事情だ。ナハトを助けたとなれば、いくら聖女科の理念が「博愛」だったとしても、警察での取り調べは免れない。指紋をとられ、声紋をとられ、魔力の波長をしっかりと記録されれば、いつ魔王だとばれるかわからない。だから秘匿しただけだ。


「お礼はいりません。昨日怪我を治してもらっただけで十分です」

「どちらがより致命傷だったかといえば、私の方だ。命の重さなど計り知れないが、ぜひ礼をさせてくれ。君が望むならドレスでもアクササリーでも、女性が好む菓子でも用意しよう」

「盗品はいりません」

「もちろん、君に盗んだものを渡そうとは思わない」

「では、今後私のもとに来ないというお約束を。お礼というのなら、それが一番です」


 ウルスラの頑なな態度に、ナハトは苦笑を漏らした。


「まあそうなるだろうね。私は怪盗で君は一般市民。しかも第三王子のパートナーに選ばれた」


 ウルスラは息をのみ、目を見開いた。


「情報が早いですね」

「まあね」


 ナハトは得意げに唇に弧を描く。

 もしかして学園の関係者だろうか。それとも、第三王子がナハトを追っているから情報を集めているというのか。


「では私が昨日の夜、殿下と会ったのも知っているでしょう? 殿下は私を疑っているかもしれません。わざわざ接点を作らなくてもいいのでは?」


 言っていて気づいたが、バルドリックがウルスラにパートナーを申し込んだ理由が、監視だということもあり得るのだ。昨日はずいぶん、ウルスラが誰かと会ったかもしれないことを気にしていた。


「君は私の心配をしてくれるんだね。確かにバルドリック・アルファニア・スティードとは少なからず因縁はあるが、彼に私を捕まえることはできないよ。絶対」


 ナハトは自信たっぷりに頷いて、ウルスラに近づいた。ウルスラは思わず後ずさるが、すぐに背中がベランダの扉にあたる。それ以上、下がれない。

 仮面越しの紫の目がウルスラを見て笑う。口元に浮かぶ笑みは涼やかだ。ナハトは腰をかがめて、ウルスラに顔を近づけた。ウルスラは思わず息をつめた。黒い手袋をはめた指が髪に触れる。


「髪に葉っぱが。また動物を助けた?」


 ナハトはウルスラから離れ、髪に絡まっていた葉を手の中で弄ぶ。

 今日一日ずっと乱れていた髪だ。急に恥ずかしくなる。ウルスラは慌てて手櫛で髪を整えた。

 顔が熱いのは、キスされると思ったからではなく、身だしなみが整っていなかったからだ、きっと。そう自分に言い聞かせる。


「か、帰りに猫を」


 帰り道で怪我をしている動物に会うのは日課だ。見つけたら必ず助けることにしている。


「なるほど、助けたわけだ。きみらしい」


 くすりと笑うと、ナハトはウルスラの手を取った。そのまま引き寄せようとする。


「い〝」


 思ってもいない動きに、筋肉が悲鳴を上げる。あまりの痛みに、ウルスラは顔を引きつらせた。

 ナハトは不思議そうな顔でウルスラを見降ろす。


「ごめんなさい、筋肉痛で」

「筋肉痛?」

「今日、さっそく殿下のしごきにあって、いえ、他の人から見ればどうということのないトレーニングなんですけど、私にとっては結構きつくてもうすでに筋肉痛に」


 よぼよぼの老人のように、ウルスラはナハトから離れる。立っているだけなら問題ないが、立ったり座ったりがきつい。

 まじまじとウルスラを見ていたナハトが、いきなりぷっと噴き出した。


「自分でもそれはないなと思っているくらいなんですから、笑わないでください」


 羞恥でウルスラの耳が赤くなる。


「ああ、すまない。お詫びにこれでどうだろう」


 ウルスラの髪を一房手に取ったかと思うと、口づけをする。柔らかな風が吹いて、あんなに痛かった筋肉痛が引いていく。

 ウルスラは顔を真っ赤にしながらナハトの手を振り払った。


「もっと別の方法で治せないんですか?」


 昨日の手のひらといい、今の髪といい、口づけ以外の方法で治癒は行えないのだろうか。


「いや、できるけど、お姫様の呪いを解くのは、口づけが定石だろう?」


 ナハトは満面の笑みを浮かべる。ウルスラの顔がさらに赤くなった。ナハトは満足そうに目を細める。


「それで? 効果のほどは?」


 ウルスラは自分の体をチェックした。腕を上げても屈伸をしても痛むところはない。


「ばっちりです。治癒魔法にそんな使い方があったんですね」


 これで明日以降のトレーニングも何とか乗り切れそうだ。


「ありがとうございます」


 ペコリと頭を下げるウルスラを見て、ナハトはにっこりと笑った。


「明日以降も私が治してやろうか」

「いえ結構です。私自身で治癒魔法が使えますので」


 ウルスラは手のひらをナハトに向けた。


「残念、堂々と君に会いに来る口実ができると思ったのに。では次来る時までに、礼の品物を考えておいてくれ」


 ウルスラの耳元で囁くと、ナハトはぱちんと指を鳴らした。風が起きる。

 ウルスラは思わず目を閉じた。

 次に目を開けた時、ナハトの姿は昨日と同様に消えていた。





 翌日も翌々日も、そのまた翌日もナハトは夕方にウルスラの部屋を訪れた。

 たいていは夕食後のちょっとした時間に姿を見せる。綺麗な花を見つけただとか、おいしいお菓子を見つけただとか、狼狐のヴォルフォクスがウルスラに会いたがっているとか、理由は様々だった。

 部屋の中に突然現れたのは初日だけで、それ以降はベランダの扉をノックしてから現れる。二回目の時に、着替え中だったら恥ずかしいからと伝えたためだ。


 今日もまた、コツコツと窓ガラスが叩かれる。いちいち開けるのが面倒なので、昨日から鍵を開けておくことにした。もっとも、鍵の存在など彼には無意味なのだけど。

 ナハトよりも先にヴォルフォクスが駆けてくる。狼狐はいつもナハトとべったりというわけではなく、来ない日もある。二日ぶりに会うヴォルフォクスは、すぐさま勉強机に向かっているウルスラの膝の上に乗った。

 ウルスラは、ふわふわの彼の毛並みを撫でた。やわらかい毛を通して伝わる動物のぬくもりが、ウルスラの心を落ち着ける。ヴォルフォクスもくすぐったそうに目を細め、顎を持ち上げて喉元を撫でてくれとねだる。


「今日はいい香りのお茶が手に入ったんだ。かわいらしい君にぴったりのお茶だ」


 ナハトは花柄のリボンできれいにラッピングされた紙袋を差し出す。ウルスラはそれを受け取った。


「では早速お茶を淹れますね」


 立ち上がると、膝の上に乗っていたヴォルフォクスががすとんと降りた。洗面室で水をくみ、やかんを火にかける。普通ならこの程度のこと、魔法でパパっとできてしまうことだ。だが、マッチで熾したようなささやかな火しか生み出せないウルスラには、必要なものだった。

 ポットにお茶を淹れて戻ると、ナハトは机の上に広げていた宿題を見ていた。


「ここ、魔法式が間違っている」


 たった今解いていた課題をナハトが指摘する。ウルスラは確認し、ああ、と納得の表情を浮かべた。


「道理で魔法陣が完成しないと思いました」


 カップにお茶をそそいでナハトに出す。お茶請けには、昨日もらったクッキーを添えた。


「それで? お礼の品は何か決まった?」

「会うたびにそれ聞いてきますけど、欲しいものはありません」


 強いて言うなら今すぐ関係を断ち切りたいのだが、意外とこの空間が心地よいから困る。特に深い会話もせず、ウルスラが宿題や予習復習をこなしているのをナハトが見守る、という状況が。


「実はその言葉を聞いて安心したよ。明日また、君に会いに来れるからね」


 ナハトは妖艶にほほ笑む。ウルスラの心が跳ね上がった。

 知らず知らずのうちに魅了の魔法でもかけられているかもしれない。この時間が心地よく、彼が犯罪者だと知っていても強く拒めない。通報されないと知っているからこそ、ナハトは毎日ウルスラに会いに来ている。


「来なくていいです」

「私は君に会いたいよ」


 ナハトはにっこりと笑う。彼自身、ここで特に何かをしているわけでもない。昨日など、うっかり転寝をしていた。油断しすぎるにもほどがある。よほど仮面を剥いで正体を見てやろうかと思ったが、知ってしまえば二度と会えなくなる気がして、やめた。

 このつかず離れずの微妙な関係。そしてそれを良しとしているウルスラも、たいがいどうかしている。


「それで、バルドリックとのトレーニングはどうなんだ?」

「それも毎日聞いてきますけど、すぐに成果が出るわけではありません。ようやく、筋肉痛から逃れられたくらいで」


 そもそも初めてまだ五日目だ。腹筋も腕立て伏せもまだまだできそうにない。ただ、腕立て伏せは膝をついていいことになったし、腹筋は頭を最後まで下ろさない方式に変わった。他にスクワットもあればプランクやクランチもある。


「体の変化は?」

「全然感じません」

「では明日、少しは効果があったのかを確認しに行こう。学園も休みだろう? 昼過ぎには迎えに来るから、そのつもりでいてくれ」

「あの、勝手に話を進めないでくれません? 私にだって用事が……」

「ないだろう?」


 ナハトはすかさず断言する。


「ここに来るだけならまだしも、出かけるのは誰かに見られるかもしれません」

「警察隊はとっくに君を容疑者から外している。君を監視しているわけでもない。自由に動けるだろ?」


 そういってナハトはドレス入りの箱と装飾具一式を置いていった。

 一方的に置いていかれたとはいえ、これでは誘いを受けないわけにはいかなくなってしまった。


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